沈黙                  GX333+25さん作 (作中和歌は幽べるさん作)                

 

「なぜ黙っている   。」

 じっとりと脇の下ににじむ汗を感じつつ、心中、佐為はうめいた。

 周囲に当代の名人、達人たちを惑星のごとく従え、等しく悠然と光を送る太陽のごとき明君・一条帝が、日頃にもない言葉を御簾の奥から発してしまった。にもかかわらず、取り巻く一同が沈黙していることに、佐為は当惑しつつ、徐々に焦燥の念を濃くしていった。

 むろん、とうてい殿上に座をもつこと能わざるはずの佐為が、この席にいること自体、彼が囲碁という、この時代の貴族にとっては必須の教養であり、しかも天地の理を映すとまで考えられていた分野のエキスパートであるからにほかならなかった。そして、その彼をこの場に呼び寄せたのも、心底から尊敬する主上   一条帝であった。ところが、その主上が、かつて一度も吐いたことのない言葉を吐いてしまったのだった。

「なぜ黙っている   。」

 先刻よりいっそう焦燥の念にとらわれつつ   そのような心の動揺が、盤面の対峙を決定的に不利にすることは、もちろん知り抜いている。佐為にとって先程まで「対局者」であった、盤面の向こうにいる人物は、それを見抜いてしかけてきたのであった。そして、この場にいる全員、主上から蔵人の見習いの齢十四、五の者まで、知り抜いているはずである。

 なのに、沈黙だけが支配している。

「なぜ黙っている   。」

 ただ、佐為自身もまた、この沈黙の理由となった動揺に囚われていることに気づいていなかった。ついに気づくことはなかった。

「道長殿、なぜ黙っておられる。」   当代きっての政治家、それは謀略の才に長けていることも含め、長く歴史に名を残すこととなる事実上の最高権力者ならば、主上に諫言を為しても、誰も不思議とは思うまい。

「公任殿、なぜ黙っておられる。」   「三船の才」で知られる卓越した文人ではあるが、政治家としてはいささか敗者であったがゆえに、冷静な観察眼を持つ藤原公任、彼が一言、詩句の一章でもつぶやいてくれれば、氷のような沈黙が支配する一座では誰の耳にも入るはずであった。  

「晴明殿、なぜ黙っておられる。」   鬼神をも疾駆せしめる、といわれた天文博士・安倍晴明は、その官位ゆえに末座に近い所にあり、なるほど盤面は容易にうかがいがたい。しかし、彼の異能をもってすれば、「呪」の一言で、一座は道理を取り戻すはずである。

 しかし、沈黙はついに破られなかった。そう、盤面の対決に全身全霊を奪われていた一座の中にあって、冷ややかに、かつ大胆に策略を繰り出した対局者の所行に、文字どおり唖然として声を上げられなかったのである。

 主上、一条帝もまたその一人であった。彼が暗君であれば、彼もまた沈黙の輪の中にいただけで清んだ。しかし、この際、彼は明君でありすぎた。一座を主催する者として諫めなければならぬ、と即座に判断した。ただ、いかにも間が悪すぎた。感情むき出しの言葉で佐為を叱責してしまったのである。その言葉が一座の沈黙に拍車をかけた。――さすがの明君をもってしても、この失態に気づくのがあまりに遅すぎた。

 帝が、せめてもの弔いに、とあらゆる記録から佐為の存在を抹消し、不名誉を残さない配慮を淡々と行ったのは、かなり後になってのことである。

 そして、一座の一方の中心・佐為もまた、盤面に集中するあまり、一同のこのような精神的動揺、いやブラック・ホールともいうべき状況に気づき損ねた。

 当時の暦法・時法では、むろん、絶対的な時間の経過を知ることは不可能である。が、佐為にとって永遠に近い時間であったことは疑いない。人は絶対的なそれであれ、相対的なそれであれ、永遠の時間に緊張を持続することはできない。ついに、彼は破断点を越えてしまった。

……当然の如く、佐為は敗れた。そして、その心中にはどうにもならない暗黒だけが口を広げてしまっていた。彼の精神と肉体は、そのブラック・ホールに落ちた。そして、最後の信号が発せられた。

この世をば かくと思ふも 宇治川に 月もいつしか すみて照らなむ

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 一千光年のかなた、太陽系から見てちょうど銀河中心部の方向にある恒星の一つが、はるかな昔、自らの質量に耐えかねて重力崩壊を起こした。結果、ブラック・ホールが形成され、当該恒星系の残存構成物質や星間物質がその周囲に降着円盤を作り、そこからブラック・ホール中心に物質が落下して特異点を通過するとき、最後の信号が電磁波として放射される。

 ユーラシア大陸の東縁を飾る花の綱のごとき列島の首都の、まさに中枢で起きた小さな事件と時を同じくして、このブラック・ホールから電磁波が発射された。

 方向が方向だけに、銀河系の濃密な構成要素に遮られて、可視光線では観測不能である。後世、この時代を痛いほどにあこがれた都の文人の一人は、その日記に別の恒星の重力崩壊の瞬間、このばあいは星の終末、つまり超新星爆発を目撃したことを書きとめていたが、それは方向がちょうど具合のよい向きだったからのことである。

 一連の現象と最後の電磁波との存在に人類が気づき、それをとらえる知恵を身につけ、最も鋭敏な装置が実際に捕捉するには一千年を要した。

 それが今、ようやく地球にたどり着き、データとしてコンピュータ・システムに記録された。

 一方、ある少年の心の裡に別種の小さな魂が宿されたのも、ほぼ同時である。

 これが偶然にすぎなかったのか、必然であったのかはわからない。

 (了)

 

 作中和歌の歌意(by 幽べる先生)
「この世を、このように信義が欠けていると思うにつけてもつらいものだ。
私がこれから身を投じる宇治川にも、今は月は出てはいないがいつか月もここに住みつき、澄んだ光を投げかけて、人々を明るく照らしてほしいことだ。」

技巧としては以下のものがあります。
掛詞……@「斯く」「欠く」、A「宇治」「憂し」、B「住み」「澄み」
縁語……「月」「欠く」「澄む」

「欠く」とは勿論、菅原顕忠の不正と、自分を信じてくれなかた現世の人たちが「信義を欠いている」と表現したもの。
「我が世が望月のように欠けてない」と謳歌した「父」に対する皮肉、もこめて。

ままかによる補足:
「遠きえにしに」上の佐為の父のモデルが藤原道長であることを踏まえて、ここでは幽べるさんが

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」と詠んだ道長のことを「父」と表現されたもの。

入水当時は月が照ってなかったと考えて、いつか月が住んだ光を投げかけてこの世を明るく照らしてほしい、という佐為の願いです。

ヒカルのもとに蘇った佐為は、世の中をどう見ていたのでしょうか。
澄んだ月影の照り渡る世の中、とまではいかないものの、ヒカルたちの若人の碁への情熱をみて、「澄んだ月」の一部でも感じてくれたことを願ってしまいます。

 

ままかによるあとがき
 この作品は、我がサイトでお馴染みの幽べるさんのご主人様・GX333+25さんの御作です。
 作中で詠まれている佐為の辞世の歌があります。あのお歌をまず古文教師でらっしゃる幽べるさんが詠まれ、それを同じくヒカ碁ファンであり、大学教授でらっしゃるご主人様にお見せになったそうです。すると、ご主人様から、このような短編小説が返ってきたのですって。な〜〜〜んて素敵なんでしょう!。
 これって平安で言えば、奥様は清少納言(幽小納言?)、旦那様は菅原道真って感じですか。ご夫婦揃っての御教養の深さに、ほ〜っと憧れのまなざし。さすがは、学者でらっしゃるご主人様の鋭く深い視点にも唸りました。
 そしてこのようなサイトに、なんとご寛大にも掲載を許可してくださいましたご主人様に御礼申し上げます。(ままか)

 

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