蒼い花

 窓の外は白い雪が降り続け、辺り一面を銀世界に変えている。灰色と群青色が混ざ

り合うまだ明けきらない空から降る雪は、空から地上へといくつもの白いレースの幕

を下ろしているようだ。

「今年も白いノエルになりそうだな。」

アンドレは白い息を吐きながらつぶやいた。まだ、使用人が誰一人起きていない屋敷

の中は冷え渡っており、昼間の温かさが夜の間に凍り付いてしまっている。彼がベル

サイユに来て10回目のノエルがもうすぐやって来る。ベルサイユの冬は寒い。アン

ドレは冬の雪にも慣れたものの、時々、8つまで過ごした生まれ故郷の冬を思い出

す。吹きつける風が窓をたたく夜も度々あったが、それでも雪が降ることは少なかっ

た。例え降ったとしてもすぐに溶けてしまう。アンドレはベルサイユで初めて迎えた

冬を思い出していた。毎日のように降りつづける雪に最初は驚き、美しさに心を奪わ

れたが、それは同時に遊びたい盛りの子供にとって外に出れないという拷問にも似た

長い長い時間だった。

「オスカルとよく屋根裏で遊んだっけ。」

子犬のようにじゃれ合っても何の違和感もなかった頃を思い出して、アンドレは少し

胸が痛んだ。願わくば、あの頃に戻りたい。そんな考えが頭をよぎる。

 使用人用の出入り口がある厨房も、普段の女中たちのかしましいお喋りがないと、

ひんやりと空気さえも凍てついた感じがする。アンドレは、今年の秋に生まれたばか

りの子馬が、初めて迎える冬に凍えていないか心配になって起き出してきたのだ。馬

丁が馬たちの防寒をきちんとしていることは分かっていたが、自分がベルサイユの冬

に慣れるまでずっと寒さを感じていたことを思い出し、子馬のことを気にしていた。

使用人用出入り口から厩舎までのほんの数十メートル。真っ白な雪を踏みしめて歩

く。目の前を白いレースの幕がさえぎる。空も大地も空気さえも白に染まり、不思議

な空間を作り出す。アンドレは自分が別世界に迷い込んで、宙を歩いているような感

覚を憶えていた。裏庭に連なる木の枝に降り積もった雪が、さらさらと滑り落ちる音

が響く。この世に自分一人だけのような錯覚。

 風が入りこまないようにしっかりと扉が締まっていたため、厩舎の中は馬達の体温

と呼吸で、外より幾分気温が高いようだ。それぞれの馬には保温性の良いワラがたっ

ぷりと与えられており、寒そうにしている馬は一頭もいない。厩舎の入り口近くにあ

るワラを入れてあるところから、一抱え、ワラを持ってアンドレは子馬が母馬と一緒

にいるほうに向かった。すると、子馬のいるところに、白い人影が見えた。

「誰だ?」

アンドレと白い人影が同時に言った。アンドレは白い人影がオスカルだと気付き驚い

た。

「オスカル、どうしたんだ、こんな時間に、こんなところで。」

「私はただ、眠れなくてな。なんとなく、ここに来てしまったら、子馬の寝顔がかわ

いくて離れられなくなったのだ。」

オスカルは視線を向けないまま、静かな声でそういう。

「アンドレこそ、どうしたんだ。眠れないのか?」

柵に肘をついて顔をうずめていたオスカルがその姿勢のままで、こちらに顔を向け

た。蒼い瞳が薄明かりの中で深い色に輝いている。

「俺は・・・、子馬が寒くはないかと思って。」

アンドレの言葉を聞いているのかいないのか、オスカルはまた視線を子馬に向けてし

まった。見ると、白い部屋着の上に白いガウンを着て、その上からマントを羽織った

だけの格好だ。暖炉のある部屋の中ならともかく、こんな寒い早朝にそんな格好では

風邪をひく。

「オスカル、おまえいつからここにいた。そんな格好のままで。」

アンドレはあわてて、自分が着ていた防寒着をオスカルにかけてやろうとした。する

とオスカルはするりとアンドレの横を通りぬけ、一人厩舎の扉のほうに向かって歩い

ていく。

「おい、オスカル!!」

呼び止められてオスカルは立ち止まった。しばらくの間を置いてくるりと振り返っ

た。鮮やかな笑顔をアンドレに向けている。

「アンドレ、まだ誰も起きてこない。久しぶりに裏庭で追いかけっことしゃれこまな

いか?」

「ばっ、ばかいえ!こんな雪の中に長時間出てみろ、風邪をひくに決まっている。」

オスカルはその言葉を無視して、マントを翻して一人雪の中に踊り出た。アンドレは

慌ててワラを子馬に与え、急いでオスカルの後を追った。オスカルは雪の中を駆けて

行く。白い肌が雪にとけ、黄金の髪が降りしきる雪でみるみる白くなる。このまま雪

と同じ色の白い大理石の彫像に姿を変えるのではないかと思うほど、オスカルがどん

どん白くなっていく。天からのレースの幕がアンドレとオスカルの間をさえぎろうと

している。アンドレがオスカルを追いかけても身の軽いオスカルはダフネのようにア

ンドレの追跡から逃げる。このまま月桂樹の木になってしまうのではないか、アンド

レは不安に駆られて、必死でオスカルに追いつき、その腕をつかみ力一杯に自分のほ

うに引き寄せた。バランスを崩した二人は一緒に雪の中に倒れこんだ。オスカルがい

たずらっぽい笑いを浮かべ、雪のついた前髪をかきあげながら半身を起こした。

「あー、アンドレ、久しぶりだなぁ、こんな風にお前とはしゃぐのは。昔はよかっ

た。いつも二人でじゃれ合っていた。」

オスカルは急に神妙な面持ちになり

「何故、あのままでいられなかったのだろう・・・。」

と小さく言った。

「オスカル・・・?」

途端に勢い良く立ち上がったオスカルは、

「アンドレ!そんなところでいつまでも寝転がっていると風邪をひくぞ。お前は私ほ

ど鍛えていないのだから、さっさと起きて部屋に戻れ。」

というと、また駆け出した。アンドレは慌てて後を追いかける。雪はさっきよりもま

た激しく降り出した。ますますオスカルの姿が白く霞んでいく。今度こそ、オスカル

が見えなくなったと思った瞬間、白い風景の中に浮かぶ真っ青な2つの瞳が見えた。

まるで蒼い花のようだ、とアンドレは思った。白い世界に浮かぶ、道しるべのような

蒼い花。天の啓示のようにアンドレを導く蒼い花。アンドレはゆっくりその蒼い花に

近づいていく。オスカルは今度は駆け出さない。まっすぐアンドレを見つめている。

「アンドレ、もうすぐ私の誕生日だ。」

「ああ、分かっているよ。」

「私は17になる。」

「ああ。」

雪は静かに降り続けている。この世に二人だけしかいないように、二人の息遣い以外

の一切の音を遮って。オスカルの静かな声が雪に吸い込まれる。

「私は、変わったか?初めて逢ったあの頃から。」

「・・・。」

「答えろ、アンドレ。」

「オスカル・・・、お前は・・・。」

「この頃、お前が私を避けているように思えてならない。一緒に食事もしないし、こ

んな風に遊ぶこともなくなった。何故だ。私が変わったのか?」

「お前は・・・お前は何も変わっちゃいない。」

「だったら、何故?!」

「・・・・・・お互い、もう子供ではなくなったんだ。」

「だから?だからなんだというのだ!アンドレ。お前は18に、そして私は17に。

確かに年齢は増えたが、私達の関係が変わるとでもいうのか。私は嫌だ!昔のままの

二人でいたい。」

―それは俺が一番望んでいることだ・・・、オスカル。昔のままでいられたら・・

・。この胸の苦しみをお前は知らない。何の衒いもなく、じゃれ合えたあの頃に、俺

のほうこそ戻りたい。そうでなければ、俺は苦しさで胸がつぶれてしまいそうだ。

アンドレはオスカルの両の腕をつかんで自分のほうに引き寄せた。じっとオスカルの

蒼い目を見下ろす。オスカルの目には曇りがない。強い光を秘めてアンドレを見つめ

返している。その瞳を見てしまえば、逆らえるはずがない。アンドレは降りしきる雪

の中で、寒さをも忘れて自分の中に湧きあがる熱い血潮を感じていた。

―俺はオスカルを女性として愛し始めている。お前の強さ、お前の儚さ、お前の清冽

さ・・・、お前の存在全てが俺を捕らえて離さない。お前を愛したところで、身分の

違う、お前と俺と。俺の思いは絶望という結果しかないのがわかっている。だからこ

そ・・、俺はお前を避けようとした。これ以上お前を愛してしまわぬうちに・・・。

 オスカルはじっとアンドレを見つめている。

「オスカル、お前は本当に俺を必要としているか?」

「10年前から、私が最も信頼しているのはアンドレ、お前だ。そして、これから

も、誰よりもお前を信頼する。お前のいない生活など考えられない。」

「それは、俺を必要としている、ということか?」

「ああ、そうだ。」

アンドレはつかんでいたオスカルの腕を離した。

―何を迷うことがある。オスカルがこうして真正面から俺と向き合っている。それが

異性に対する愛ではないにせよ、一人の人間として俺に向き合っている。なのに、俺

はお前から逃げようとしていた。絶望という未来を恐れて。俺は心を決めた。お前を

愛してしまったら、俺には苦しみだけが待ちうけているとわかっていても、この思い

がとめられるはずがない。俺はもうお前から逃げない。いや、逃げられない。俺はお

前を愛し抜こう。例え、この思いがお前に届かなくとも、お前が存在することを支え

に俺は生きていこう。

「オスカル、お前は何も変わっちゃいない。俺も変わらない。俺達の関係は変わらな

いよ。俺はいつもお前と共にある。オスカル、何かにつまづいたら、俺が手を貸して

やる。だから、俺がつまづきそうになったら、お前が俺に手を貸してくれ。」

オスカルは嫣然と微笑んだ。あまりに美しい笑顔で、アンドレの胸が痛んだ。これか

ら、ずっとこの胸の痛みとともに生きていかねばならないのか。だが一方で、甘やか

な感情が体の中でうずき出し、隅々まで駆け巡った。ある種の恍惚感にも似たこの思

いがアンドレを幸福にしていた。

―これが人を好きになるということか・・・。

 もうオスカルはアンドレの追随をかわして走り出すこともない。オスカルの蒼い瞳

の輝きは真っ白な世界の中でも、アンドレを己のもとに導き出した。雪はまだ降り続

いている。アンドレの防寒着を仲良く二人で羽織って歩く二人をさらに白く染め、二

人だけの世界に飲みこんでいくようだった。

―オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、俺の蒼い花、俺を導く者よ。その蒼さが

にごらない限り、俺は追い求めよう、お前を。オスカル、お前こそが俺の生きている

証そのものなのだ。

 

Fin

 

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