焔
季節は初夏から夏に移ろい、湿っぽい夜気が今宵も恋人達の抱擁をより熱いものへと誘っている。
職務から離れ、自宅に戻ると、オスカルの顔は衛兵隊長のものから一人の女性へと表情を変えている。軍服を脱ぎ、シャツとキュロットというくつろいだ格好に変え、毎夜、中庭の薔薇園で盛りの薔薇の香りを楽しむのが最近のオスカルの日課となっていた。屋敷の明かりがほどよく中庭まで漏れて届き、月明かりと相俟ってうっすらとした花影がおちる薔薇園を歩く。夜露を含んだ薔薇のむせ返るような香りに身を任せると、軍隊での緊張感が少しずつ遠ざかっていく。それでも、パリの街の不穏な空気、一触即発のただならぬ雰囲気が常に心に重く圧し掛かり、オスカルの気持ちをざわつかせていた。
中庭の薔薇の花影に見え隠れする黄金色の影を見とめたアンドレは、それに吸い寄せられるように近づいていった。
「薔薇は姿のみならず、その香りでも人を幸福にするな、アンドレ。」
視線を薔薇に注いだまま、彼女は恋人の気配だけでアンドレが近づいてくるのを認めた。その声に導かれるようにアンドレはオスカルを後からかき抱いた。オスカルは抗うことなく、それまで薔薇の香りに包まれていた体をアンドレに任せた。薔薇の香りと草いきれが恋人達の抱擁を包み込んだ。
アンドレ、アンドレ、願わくば、いつも、いつまでもこうしてお前の腕に抱かれていたい。明日になれば、また私は軍人としての顔に戻る。しかし、今は・・・、今だけは・・・お前の腕の中で甘やかな時を過ごしていたい。
私が全てのものから解放される場所、それはお前の腕の中。不思議だ・・・、さっきまであんなにざわつき、小さなさざなみが絶えなかった私の心が、お前の腕の中にあると、静かに凪いで行く。月明かりの映る湖面のように、穏やかでしめやかに、そして大人しやかになる。絶対なる安心感。お前の存在は静けさを湛える湖水のようだ。大らかで、静かで優しい・・・。だが、私は知っている。お前の中には、“焔”が存在することを。初めて私に愛を告げたときのお前・・・、ジョローデルとの結婚話が持ちあがったとき私と共に死のうとしたお前・・・。あの時、私はお前の中の“焔”を見た。いつもは静かな表情に隠されてわからない、お前の心の、魂の叫びのような焔・・・。お前はこれまで、ずっとその焔を隠して生きてきた。お前をそうさせてしまったのは、きっと私だろう・・・。だからアンドレ、その焔を、お前の心の全てを、魂の全てを、これからは私に見せてくれ。そして私は・・・、その焔に抱かれることを無上の喜びとするだろう。私自身の焔をも燃え上がらせるだろう。誰にも消すことなどできないほど、燃えがっている私の焔でお前の全てを包み込もう。アンドレ、お前と二人なら、私は自分のすべてを燃え尽くしても悔いはない。
オスカル、オスカル、こうして腕にお前を抱くたび、お前への思いがより一層強くなっていく。十何年も押し殺してきた思いが堰を切ったようにお前に流れていく。お前の一挙手一投足が以前にもまして俺の心に火を着ける。お前の存在が俺の中の焔を呼び起こす。
俺は知っている。俺の中にどうしようもできないほど激しく燃える焔があることを。皆は俺を静かな男だという。だが、俺の根本にある、他人をも焼き尽くしそうなほどの激しい焔があるからこそ、静かでいられるのだ。そのことに、誰も気付いていない。心の中に何者にも消すことができない火種があることが俺を支えた。それは俺自身への揺るぎのない信頼感。だからこそ、俺は全てのものを静かに見ることができた。だが、オスカル、お前がいたからこそ、俺は焔を絶やすことなく生きてこれた。お前でなければ、俺の焔は、この殺伐とした時代に踏みにじられ、消し去られていただろう。お前を愛していなかったら、俺は自分の心や魂を忘れ去り、卑怯者のように安穏とした道を選んだだろう。お前を愛したからこそ、俺は自分を見失わなかった。オスカル、お前を愛したことで、俺は十何年間、地獄のような苦しみを味わった。どんなに愛しても報われない愛だと、あきらめてもあきらめても、あきらめきれず。お前が他の男に心を向ける様は俺の心をズタズタにした。だが、それでも俺はお前を愛することをやめられなかった。今、お前をこの腕に抱きながら、俺は、俺自身がたどってきたその地獄のような苦しい道のりを誇りに思うぞ。お前の存在が俺を支えつづけた。お前を愛することが出来て・・・よかった。今、お前と愛を交わしながら、俺はお前を愛しつづけた自分をも大切にしたいと思える。
抱擁とくちづけは二人の体を更に熱くしてゆき、やがてお互いの体が溶け合う錯覚に陥っていった。二人の中の焔が燃え上がり、触れ合ったところから一つになって、まるで二つの意志が存在することが不自然なほど一体化していった。そんな二人を、今を盛りに咲き乱れる薔薇の花が優しく包み込み、世の中の一切のものから遮っていく。今しばらく、恋人達の幸せな時間を守るように・・・。月もひっそりと雲に姿を隠した。闇の中で薔薇の香りに包まれて、二人の焔は一層激しく燃え上がっていくのだった。
Fin
*****Geminiのひとりごと*****
「一見氷のように冷ややかなくせに、心の中はまるで炎のように燃え盛っている。」とアンドレはオスカルを表現しました。でも、アンドレこそ、「外柔内剛」。下手に触るとやけどするほどの激しさを持っています。そして、そんな激しさに焼き尽くされないほどの激しい情熱をオスカル様も持っています。そんな激しい二人って・・・ステキ・・・。
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