祈り

 闇の中、私の体が漂う。静かにたゆたうように揺れながら・・・。底知れぬ穏やかさの中からゆっくりと浮上するように私は目を覚ました。いつもと違う感覚の中で。そう、アンドレの腕がしっかりと私の肩を抱いていたから。目の前のアンドレは頬に黒い髪がかかっている。無防備なアンドレの寝顔は、子供のときのままだ。私は指でお前の髪に触れる。愛しい男の寝顔が私の心と体の中に幸福という名の潮を満たす。

 もう、何年も前からお前とこうしていたような錯覚に陥り、甘やかな空気が私を酔わせた。私は昨夜から今朝までの自分の変化に驚愕にも似た気持ちを抱く。今まで、受身の行動など取ったことのない私が、愛の行為の中では完全に受身だった。そしてそれは決して嫌なものではなく、むしろ私の全身を安心感で満たした。お前の腕の中で、私はただの小さな少女になることを許されたような気がしていた。素直に、自分の弱さをさらけ出して、ちっぽけな存在でいてもいいと思った、この腕の中なら。肩肘張って男と同じように生きなくてもいいと、お前が教えてくれたのだ、アンドレ。

 女は、こうして自分の中の新しい自分を見つけていくのだ。愛する男を自分の中に受け入れることで、自分の内なるところで眠っていたもう一人の自分を目覚めさせるのだ。

 私はもっとアンドレを感じたくて、さっきよりもしっかりと体をアンドレに沿わせた。暖かい、この確かなもの。新しい私を目覚めさせたお前・・・。

 そして・・・母に甘える子供のように私の胸に顔をうずめるお前に、私はこれまでに感じたことのないような、言いようのない感情が湧き起こった。自分でも信じられなかったが、まるで母のように、己の両の腕ですっぽりとお前を抱きしめて、守ってやりたいとさえ思ったのだ。

 私はいつもお前に守られてきた。子供の頃はそれが嫌で、癪にさわって、お前を振りまわしたこともあった。自分は一人前の男なのだと、誰かに守られなくとも一人で十分やっていけると必死で抵抗していた。だが、今はお前に守られているという事実が私に歓びをもたらす。

 私が初めてお前の胸で泣いた日を思い出す。それまで自分が男とか女とか、そんなことを気にも留めないで生きていた私にとって、世間の目がどんなものなのかを思い知らされたあの日。「女はここにくるな。」と言い放たれた。「男の社会に女は入る権利がない」と仕官学校に入って間もない頃に浴びせられた言葉。愕然とした。女というだけで、自由に男と同じように生きる権利がないとでもいわんばかりの言葉の暴力。男として育てられ、男と同じように行動し、男と同じように生きられると信じていた私の心をズタズタにしたその言葉が悔しくて、情けなくて、わたしは同級生と華々しいケンカを繰り広げた。ケンカには勝ったが、それでも私は感情の高ぶりを抑えることが出来なかった。女であるが故に閉ざされた扉。女は生きる権利さえもないのかと、女に生まれた自分を呪った。私は涙を抑えることができなくて、初めてアンドレの前で泣いた。するとお前はいきなり私の頭に腕を回して、そして自分の胸に押し付けたのだ。

「ここなら、お前が泣いているのが誰にも分からないよ。」

そのとき以来、アンドレの胸が私の泣き場所となった。

 そう・・・、私はいくつの涙をお前の胸に押し付けてきただろう。お前がいつも当たり前に私の側にいて、そして当たり前にその胸を貸してくれていたから、私は迷うことなくお前の胸で泣けた。私の涙も、私の怒りも、私の葛藤も、お前は全てを見ていた。ありのままの私を受け入れてくれた。近衛隊でも衛兵隊でも、女というだけで最初は受け入れてもらえなかった。だが、それを乗り越えることができたのは、アンドレがいたからだ。そして、私を傷つけようとする容赦ない冷たい世間の刃が私に届かぬ前にお前がどこかに追い払っていたのを私は知っている。

 私はお前がいたからこそ生きてこれたのだ。お前がいなければ、私は私に覆い被さる苦しさや悲しみに押しつぶされていたことだろう。

 お前が私を愛しつづけてくれたからこそ、私は生まれてきた意味を、生きている意味を知ることができた。奇跡だ・・・、そう思う。お前が他の女を愛したのなら、今の私はありえなかった。

 アンドレ、私の側にいてくれて、ありがとう。私を愛してくれて・・・・・ありがとう。

 私は・・・体のずっと奥のほうから涌き出るアンドレへの思慕をどうしようもなく、狂わんばかりにお前にのめり込んでいる自分を感じて幸せを感じた。私は、お前によって生かされたのだ。子供のときも、そして今も。

 アンドレの胸が規則正しく上下し、形の良い唇から寝息が漏れている。私は私の肩を抱いているお前の腕をそっとはずし、薄絹のガウンをまとってバルコニーに出た。

まだ朝は来ない。私は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。なんという清清しさ。この世に初めて生まれ出たようだ。

「オスカル・・・」

アンドレが目覚めたのか、部屋から私を呼ぶ声がする。今まで幾千、幾万と聞いた私の名を呼ぶ彼の声。アンドレがそっと近づき、そして後から私の腰に腕を回し抱きしめた。この胸に支えられている限り、私は生きていける。そう確信できる。

 私達が抱き合っている間にも、夜の闇が1日の汚れを払い、この世の生きとし生ける全てのものを浄化し終わるころがやってきた。闇がゆっくりと時間を光に手渡す儀式のとき。夜の名残を孕んで薄藍色の雲が低い位置でたなびいている。その合間から薄紅色の光が優しく覗き、やがてその大きさを広げて少しずつ東の空を染めていく。目覚めたばかりの鳥達が朝の挨拶を交わすように、可愛げなさえずりを披露し始めた。私もアンドレと朝の挨拶のくちづけを交わす。薄桃色の空が東から少しずつ広がり、やがてその中央から圧倒的な光をこの世に与えつつ陽が登る。まるで生命の歓びを賛える様に、少しずつ、そしてはっきりと。その様は清冽で荘厳で、そして生の歓びに溢れている。私たちの夜が祝福されるように今、美しい朝が明けようとしている。太陽がはっきりと地の果てからその全貌を見せる。祝福の光をこの世に満たしていく。この世が誕生して以来、幾万、幾億も繰り返してきた朝という時間。今、この瞬間は私達二人にとって無二の朝なのだ。

「アンドレ、私達の世があける。私達の新しい時代の朝だ。」

「俺とお前の・・・新しい世界が始まる。」

生まれたばかりの、新しい私・・・。私は光の彼方の神に祈りを捧げた。

 

 ―神よ、私に彼を与えて給うたことを、私は深く頭を垂れて感謝します。そして、どうか、私の愛するこの男にあなたの慈悲とご加護をお与えください。私達二人に、神の祝福を―。

 

Fin

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