次の日の午後、空の具合を確かめて3人は馬で“霧の森”に出かけていった。案の定、ル・ルーが昼寝をしないため、アンドレはル・ルーを抱いたまま3人を見送った。 
「まあ、ローランシー伯爵とコジモ男爵もいることだし、森にぶどうの木を採りに行くだけだから、心配することもないだろう。」 
そう独り言をつぶやいた。そんなアンドレの腕の中ではル・ルーが赤ん坊独特の鈴の様に転がる声で笑っていた。
 

 それから1時間ほどして、テラスでル・ルーを遊ばせていたアンドレは、空の変化に気がついた。朝から快晴というわけではなかったが、冬のフランスの天気としては珍しくない空だったが、今はすっかり厚い雲が空を覆っている。いやな予感がした。 

 更に2時間ほどした頃、ローランシー伯爵とコジモ男爵が戻ってきた。オスカルの姿が見えないアンドレは青ざめた。 
「オスカルは?オスカルはどうしたのです!!」 
二人の男は衣服についた霧の露を拭きながら、不安げな表情を向けた。 
「それが・・・、天気が変わったのに気付くのが遅くて、あっという間に霧に包まれてしまったのだ。我々は山葡萄の木の先端と根っこの部分を持ってつながっていたから、はぐれることはなかったのだが・・・。」 
「気がついたときにはジャルジェ大佐の姿が見えず・・・。といっても、あの時は私はローランシー伯爵の姿さえ見えなかった。霧の森の霧はききしにまさる。本当に、一寸先さえも見えなくなってしまったのだから。」 
「それで、貴方方はオスカルを置いて二人だけで戻ってこられたのですか!」 
アンドレは怒りで大きな声を上げてしまった。 
「しかし、アンドレ、あの状況では我々もどうすることができなかった。」 
「見えなくなったのなら、声を使えばいい。声が聞こえないのなら地面に落ちいてる石をたたけばいい。方法はいくらでもあったはずです。」 
弁解をする二人にくるりと背を向けてアンドレは乗馬靴に履き替えに部屋に向かった。ル・ルーを彼女の乳母の腕に押し付けて。不思議なことに、これまでアンドレから離すと泣き叫んでいたル・ルーがグずりさえもせず、素直に乳母の腕に抱かれた。 
 上着を着て、乗馬靴に履き替えたアンドレは女中に毛布を一枚用意させ、それを馬の鞍に結わえ付けた。 
「アンドレ!むやみにあの森に入ると出てこれなくなるぞ。オスカルも子供じゃないんだ、ここで待っているほうが得策だ。」 
とローランシー伯爵の声に耳を貸す様子をまったく見せず 
「今日通った道の道標のようなものがあれば教えてください。」 
と伯爵に詰め寄った。ローランシー伯爵も一応の道標を教えながらも、尚もアンドレを引きとめた。しかし、伯爵の忠告を一向に聞こうとしない彼に、とうとう伯爵が折れた。 
「ならば、うちの犬を連れていくがいい。」 
と、猟犬の1頭に共をさせることを勧めた。アンドレは、水先案内人の犬を伴い、あっという間に霧の森に向かって馬を駆っていってしまった。 

 寒い・・・、オスカルは馬の上で途方にくれながら自分の腕で両の肩を抱いた。上着の上からマントを羽織っていたが、何分1月だ。しかも冷たい水気をたっぷり含んだ霧が体を包み込んでいる。 
「霧の森、とはよくいったものだ。確かにこのような濃い霧はベルサイユでは拝めないぞ。」 
と、呑気なことを考えていた。軍人であるが故に、危機になればなるほど冷静になっていく自分を感じて、ふふっと笑いを漏らすほどだった。この霧がいつ晴れるかは予測もつかないが、へたに動き回るより、ローランシー伯爵とコジモ男爵の気配が消えたところでじっとしているほうがいいと考え、馬から降りてただ立ちすくんでいた。 
場所を移動したかったが、森といっても今いる場所が傾斜になっているため、下手に動くと足を滑らせて下に転げ落ちかねない。辺りを見ても視界は白一色だ。雪の銀世界とまったく違う、不安を誘う真っ白の世界。自分がどこにどうやって立っているのかさえも確認できないのは、通常の人間なら錯乱するほどの状況だ。視界ばかりでなく、霧が世の中の音、すべてを奪っているような静けさだ。 
「参ったな・・・。」 
さすがのオスカルも不安感が襲ってきた。 
(自分の足元を確認できないとはなんという気分だ。私はちゃんと大地の上に立っているのか?) 
オスカルは寂しさと不安を紛らわすため、歌を歌い出した。出来る限り大きな声で。 
馬が最初は驚いた様子だったが、そのうち歌いつづけるオスカルの横でじっと彼女の声に耳を傾けていた。 
 何曲目かの歌に差し掛かったところで、霧がさっきよりは薄らいだように思えた。前方のほうに葉を落とした木の枝の影が見える。オスカルは手綱を引いて、そっと確かめるように歩き出した。斜面の上に向かってゆっくり歩いていた。そのとき、木の影の向こうに何やら動く黒い影が見えた。 
(何物?まさか野生の動物か?) 
ただ、山葡萄を採りに来ただけなので、剣を携えてこなかったのを後悔した。懐の小さなナイフでどれだけ戦えるか?と思った瞬間、犬の鳴き声とともに、明らかに人とわかる黒い影が霧でかすんだ彼方かな徐々に大きくなったのが確認できた。無意識に懐のナイフに手が伸びる。水面に浮かび上がるように、白い霧の中から、その黒い影の正体があらわになる。その正体は、ホンの数時間前に見た姿なのに、懐かしさに満ち、安心感をオスカルに与えた。 
「アンドレ!!」 
「オスカル!!」 
二人は慌てず、ゆっくりと距離を縮めていった。はっきりとお互いの姿を確認できる距離になったところでアンドレが馬を下り、毛布でオスカルをくるんだ。 
「大丈夫か、オスカル!」 
「ああ、怪我もしていないし、この通り、ピンピンしている。」 
と、元気なことを強調したくて大きな声で言った。が、小さく溜息をつきながら「ただ、正直いうと少々不安だった。」 
そういうと、額をアンドレの胸に着けた。森の案内人となった犬が尻尾を振りながら二人の足元をぐるぐると回っていた。 
 アンドレは毛布でくるんだオスカルを自分が乗ってきた馬に乗せ、オスカルが乗っていた馬の手綱を持って、自分もオスカルと同じ馬に乗った。 
「これだけ寒い中に長時間いたんだ。体力を消耗しているはずだ、オスカル。このままじっとしていろよ。」 
「アンドレ、霧はまだ晴れていない。お前、帰り道がわかるのか?」 
「ああ、この優秀な案内人のおかけで、来る途中、同じ道は通らなかったはずだ。目印に、ローランシー家の下働きの女中にもらってきた赤い布の切れ端を枝に結びながらきたから、それをたどって戻ればいい。オスカル、もうしばらくがまんしてくれ。」 
アンドレはそういうと、自分の胸と腕の間にすっぽりと納まっているオスカルの髪の香りに一瞬気を取られながらも、気を引き締め直して、元来た道を辿りながら戻っていった。 
「それにしても、アンドレ、この広い森でよく私の居場所がわかったな。」 
オスカルは思い出したように言った。 
「お前、歌を歌わなかったか?」 
「ああ、視界と音を遮られて、さすがの私も不安になったので、気分を紛らわすために何曲か歌ったぞ。聞こえたのか?」 
「ああ、多分・・・。空耳のようにかすかにしか聞こえなかったので、まさかと思いながら近づいたらお前がいた。よかった、本当に。この霧の森は一旦霧が出ると、数日は晴れることはないそうだから。」 
アンドレの声を聞きながら、オスカルはこれまでの緊張感から解き放たれた思いで、安心したように眠りに落ちていった。 


 

 

それから5年の月日がたったある晩秋の日。ベルサイユのジャルジェ家の屋敷にコジモ男爵からその年取れたぶどうで作ったというワインが届いた。オスカル宛ての一通の手紙とともに。その手紙にはこんなことが書かれていた。 


 親愛なる、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ殿 

 あのとき、貴方様の命を危険にさらしてしまったときに頂戴した山葡萄の苗が、あらなた新種として実を結び、今年やっとわずかながらのワインを造ることができました。これはその一部です。私の感謝とお詫びの気持ちとしてどうがお受け取りください。 
 あのとき、あなたを森の中に残してきて、私はずっと後悔の念に駆られておりました。あなたの身に何かあったなら、私はぶどう作りをやめていたことでしょう。人の命を危険に陥れてまでよいぶどうを作りたいとは思わない。あのとき、あなたの従者のアンドレ・グランディエ君の機転に、私は今更ながらに感謝いたします。彼があなたをすぐに探し出しに向かったからこそ、あなたに何事もなかったのです。 
 それにしても、あなたはすばらしい宝をお持ちだ。あなたの身を心底心配し、そして自分の危険をも顧みず、あなたのために行動するすばらしい従者。 
 私にはそのような宝がございませんが、あのときあなた様と一緒に採った山葡萄の恵みがこれからの私の宝となることでしょう。あのときのぶどうの木は、今は私の土地になじみ、わがぶどう園をより豊かなものに変えていっております。いつかまた、このぶどうでつくったワインを傾けながら、あなた様と、そしてアンドレ君とワインのお話でもしたいものでございます。 

                      リカルド・デ・ラ・コジモ 

 オスカルとアンドレは早速その新しいワインを味わった。それは、まだ若く、熟成されていない味だが、フランスでは味わえない、太陽の恵みをいっぱいに受けた、人を元気にさせるような力強いワインだった。 


Fin 


☆☆☆Geminiのひとりごと☆☆☆☆☆
 心ばかりのイタリア土産でございます。イタリアのワインは軽やかでフルーティーでとてもおいしゅうございました。あの頃、他国の貴族が簡単に国境を越えられたのかとか、書きながらいろいろ疑問に思ったことはございますが、全て創作のため無視させていただきました。きゃ〜、ご容赦を〜。 
 それから、作中に出てきました濃い霧ですが、私が行ったときも道中、かなり濃い霧が出ていたところがありまして、その霧は美しくて妖しい半面、恐怖感を感じさせました。瞬間、この霧の中からA君登場!の場面を妄想してしまい、こんな文章を書いてみました。

 
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