くちびる

    夜の脣
                         大手拓次
 こひびとよ、
 おまへの 夜のくちびるを化粧しないでください、
 その やはらかいぬれたくちびるに、なんにもつけないでください、
 その あまいくちびるで なんにも言はないでください、
 ものしづかに とぢてゐてください、
 こひびとよ、
 はるかな 夜のこひびとよ、
 おまへのくちびるをつぼみのように
 ひらかうとしてひらかないでゐてください、
 あなたを思ふ わたしのさびしさのために。
  

 フィリップの野郎に子どもができたと連絡がはいった。
 フィリップは元フランス衛兵隊の仲間で、今は嫁さんの家を継い
で居酒屋をやっている。
 元衛兵隊連中と連絡がとれるのも、一重にこの居酒屋の存在が大
きい。正確にいえば、俺たちがよく屯してたこの居酒屋で、フィリ
ップが看板娘だったこの居酒屋の娘さんに見初められたのがそもそ
もの発端なんだから、当然といえば当然だ。
 俺はとるものもとりあえず、やはり元フランス衛兵隊のユラン、
シモン、エベールとフィリップの家を訪ねることにした。
フィリップの家はパリの下町にあった。
 フィリップの野郎、もう見ているこっちが恥ずかしいほどめろめ
ろになっていた。
 人間、変われば変わるもんだな。
 フィリップは軍隊時代、どっちかというと醒めていて冷静に突っ
込みをする奴で知られていたのに。
 隊長が赴任してきたときも、女なんかに指揮されるのはごめんだ
と大騒ぎしていた俺たちのなかにいて、クールに事態を把握してい
たのはこいつだ。
 その後、俺たちが隊長に心酔するようになってからも、常に一線
を画して隊長に接して、決して馴れ合うことはなかった。
 いや、隊長に批判的とかそういうんじゃない。隊長を嫌うなんて
並の人間にできることじゃない。なんていうのかな、距離をおいて
誰とも接する、といえばいいんだろうか?
 そのフィリップが、フィリップが・・・
「赤ちゃんがこんなに可愛いなんて、思ってもいなかった!この子
のためなら何でもできる!俺はこの子のために命を懸けてもかまわ
ない」
とまで、真顔で言うんだからな。男の子でこうだぜ。もし女の子だ
ったら、まじで今からお嫁に行くことを心配しはじめるんじゃない
だろうか?
「名前はつけたのか?」
 ユランが何気なく訊ねた。
「うん、それなんだ。皆にきてもらったのは。
 実は、実は、オスカルかアンドレにしようと思うんだ。どうだろ
う。どっちがいいと思う?」
 オスカル、アンドレ・・・
 俺は一瞬、虚を衝かれて何も言えなかった。
 隊長と一番距離をおいていたフィリップだったから余計に。
 皆も黙ってしまった。多分、それぞれが隊長やアンドレとの関係
に思いを巡らせていたのだろう。
 黙ってしまった俺たちを見てフィリップは言葉を継いだ。
「俺はしがない居酒屋の主人見習いで、それなりに苦労もあるけど
まぁ、楽しく毎日を送っている。あのときの決断を後悔などはして
いない。家族もいとおしい。
 けれど、思うんだよな、時折。いまの俺は本当の俺じゃないって。
本当の俺はいまもバスティーユにいて、皆と一緒にバスティーユを
攻撃しているんじゃないかって。
 ジャンにへらず口をたたいて、それを咎めるアランに足蹴にされ
そうになって、それを少し離れたところにいた隊長が可笑しそうに
眺めている。その隊長の斜めうしろにはアンドレが控えていて、っ
てさ。
 そう思うといてもたってもいられなくなるんだ。馬鹿だよな。
 もう、戻ってはこないのに。
 隊長が亡くなってから、俺はもうどうでもよくなってしまったん
だ。隊長のいない衛兵隊も、フランスも。
 どうともなれ、と思ったんだ。生きている実感が持てなかった。
俺の人生はあの時に終わってしまったと思った。
 だから本当は「娘と結婚してここを継いでくれ」と親父さんに言
われたときは、自棄になって承諾したんだ。だって、どうでもいい
ことだったからね。
 だけど、俺にも息子ができた。
 俺の命がこいつに受け継がれていくんだな、と思ったら急にすべ
てが愛しく思えてきてさ。
 うまく言えないんだけど、俺も何かを受け継いで生まれてきて、
今度はこいつに伝えていく番だ、そう思ったら、隊長の面影が浮
かんできたんだ。
 そして、そうだ!俺はこの子に伝えていかなきゃならないものが
あるって、気づいたんだ。
 隊長のことを、アンドレのことを、俺の仲間のことを。そして恥
ずかしいけど俺が何故、フランス革命に参加したのか。その理由と
経過を。
何より俺はおまえを心から愛してるってことを。
 俺がくたばってしまったら、誰もこいつに伝えてあげることはで
きないだろ、死ねない、こいつが親父(俺のことだよ)を理解でき
る年頃になるまで、何があっても死ねないと思った。そうしたら生
きる気力が湧いてきたんだ」
 静かな声だった。
 俺たちはこいつの何をみてきたんだろう、そう思えるほどの静か
な声。
 俺は今まで、皆があのバスティーユを過去のものに見なしている
のが気に喰わなかった。
 俺にとってバスティーユも隊長も、決して過去にはならないし、
記憶は更に鮮やかなのだ。だから。
 けれど、違ったんだな。俺たちのなかで一番隊長に距離をおいて
いたフィリップでさえ、ここまで囚われてしまったほど。フランス
衛兵隊時代の記憶は皆にとって未だに過去にできないほど鮮やかで、
そして痛いものなのだ。
 いまはそれぞれに人生はちがってしまったけれど、あの時は俺た
ちは皆同じものを喰って、同じものを見て、同じ事象を同じように
感じた仲間だったんだ。
 その時ができるだけ長く続けばよかったのに・・・いつかは終わ
ってしまうものなのだろうけれど。
 けれど、隊長が亡くなったあの時で、俺たちの共有の時間は流れ
るのをやめたのだ。それぞれがそれぞれに生きていくことを選ばね
ばならなくなってしまったのだ。
 俺もフィリップのように後悔はしない。きっと、皆もそうだろう。

「そうだな」
 ユランが静かに口をひらいた。
「おまえ、隊長を叱れるか?」
・・・・・・沈黙が支配した。
 いつも、こいつが締めるところを締めてくれていたんだ。
「だろ。おまえが隊長を叱れるようになるまで、天文学的な時間を
必要とするのさ。だから、アンドレにしといたほうがいいと思うぜ」
「違いない。アンドレだったら遠慮なく叱れる!」
 哄笑がわいた。
「おい、理由もなくアンドレって名前だからって子どもを苛めるな
よ。男の嫉妬はこわいからな」
 フィリップはその可能性に思い当たったのか、頭を抱えてしまっ
た。
 こんな軽いフィリップを見るのははじめてだった。今までは眉間
に縦皺をつくることの方が多かったのだ。
 そのとき、フィリップの嫁さんが赤ん坊を抱いて現れた。なんだ
かちょっと綺麗になったんじゃねぇか?
「おいアンドレ」
俺は寝ている赤ん坊に声を懸けた。赤ん坊は声に驚いたのか、急
にひくひく泣きだした。それを慌ててあやすフィリップ。慣れてや
がるぜ。
 おもしろそうにそれを見ている嫁さん。まだ少女のようだが、そ
のうちどっしり落ちついてしまうのだろうか。
 なんだかんだ言って、こいつ幸せなんだ。俺は急に納得した。考
えてみれば嫁さんは美人だし、居酒屋も繁盛している。
 急に腹立しくなって、フィリップに蹴りをいれてくなった。する
と、フィリップの野郎見事によけやがる。
 昔とった杵柄さ、とばかりフィリップがにやりと笑って、エベー
ルとシモンが呆れ顔に俺を見た。
「アラン、少し大人になれ。まったく10年前と変わってない。
 誰かが羨ましくなると蹴りをいれるのは、悪い癖だぞ」
「本当に。俺なんて差し入れがあるたびにアランに蹴りいれられて、
足が痣だらけだった。まだ残ってる、見るか?」
「シモン、この裏切り野郎」
「おい、よしてくれ。家が潰れてしまう」
 こんな風に顔を合わせるたびにじゃれあったな、あの頃。

 帰り道。ちょっと遠回りして市場によった。
 久しぶりに市場を歩いて、随分物が出回るようになったことに安
心する。
 夕方になってしまっていた。このまま一人の部屋に帰るのはすこ
し淋しい。特にフィリップの温かい家庭を見てしまった後は。
 人恋しいなんて、この俺様らしくない。そう思いながらも押し寄
せる感情を逃れるすべはなかった。
 ベルナールの家に寄せてもらうことにして、奥方の好きなお菓子
をいくつかみつくろう。
 明日はまた戦地だ。今度こそ、生きてかえれるかどうかわからな
い。

深夜、またあの方を思う。
 何度、あいつの代わりに死ねばよかったと思ったことだろう。俺
が代わりに死ねば、あの方が死ぬことはなかった。
 もし俺が代わりに死んだら、あの方は俺を抱いてくれただろうか?
あのピエタの像のように俺を抱いて泣いてくれただろうか。
 あいつにそうしたように。
 あの方のしなやかな腕が俺を抱いて、あの方の唇を間近に感ずる
ことができただろうか。
「かわいそうに」
と言ってくれただろうか?
 あの方は答えてはくださらない。
 だから、決して答えのない問いを、俺は今日も続ける。
 何度も何度も。




fin

 

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