影 a l’ombre de Andre・・・
=6=
テーブルの上のグラスにワインが注がれる。アルクバインはその赤い色に見惚れ
ていた、久しぶりにこの赤に酔いそうだった。情熱の赤、血潮の赤、そして・・・。
「どうなさいました、リヒャルト様」
アルクバインの館の唯一の召使である年老いた執事がワインを注ぎ終わって珍しく口
を開いた。いつもなら、余計な言葉を交わさないのだが、長年見てきた者の勘でこの
館の主の様子が今日はこれまでと違うことを感じとったのだった。
「何だ。」
アルクバインはいつもとかわらぬ無感情な口調で答える。
「・・・私は久方ぶりにあなたのそのように目を拝見しました。ジャンヌ様が亡くな
られてからというもの、あなたの時と生命の息吹は凍り付いてしまっておいででした
が・・・。今日は何やら、あなたからかつての情熱が漂ってまいりますぞ。」
アルクバインはその言葉に答えず、わずかに微笑んでワインを口に運んだ。血のよう
に赤い液体は、彼の喉をとおり、一気に体中を駆け巡った。まるで人の心と体を縛り
付け、動けなくする毒薬のように・・・。しかし、今日の毒薬は、いつも彼を苛む後
悔の念ではなく、わずかながらの希望の光を与える良薬にすりかわっていく。心地よ
い酔いが彼を満たした。黒い瞳を妖しく輝かせ、まっすぐに垂らされた黒い髪を揺ら
してワインを堪能する主の姿を執事は満足そうに見つめ、部屋を出ていった。ワイン
の赤が暖炉の火を受けて美しく輝いていた。
アルクバインはアンヌが帰り際に尋ねた言葉を思い出していた。
―アンドレという少年のどこがそんなにあんたのお眼鏡にかなったんだい。頭のいい
度胸の据わった少年なら、何も彼じゃなくってもいいだろう?―
アンヌはきっと答えをわかっている、わかっていて敢えて自分に質問を投げかけたこ
とをアルクバインは知っていた。
―自分だけでは輝けない光の存在。彼がその光を見つめているからだ、あのまっすぐ
な瞳で・・・・・。光と影。私とあの方のように・・・―
「ああ・・・ジャンヌ・・・。」
=リヒャルト・アルクバインの回想=
私が、私の光、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンに初めて会ったのは、あの方
がまだ結婚する前、彼女の養父であるル・ノルマン・ド・トゥルネーム様の屋敷に引
き取られたときだった。元スウェーデン大使だったトゥルネーム様が、スウェーデン
人の養父の慰み者にされていた私を助け出し、フランスに引きとってくださって、初
めてあの屋敷を訪れた、あの時・・・。あの時の私はまったくもって酷い状態だっ
た。生まれて間もなく、生みの母親の元を離され、オーストリアからイタリアへ、イ
タリアからドイツへ、そしてスウェーデンと、わずか数年でヨーロッパ中をあちらか
らこちらに流れていった。まったく私自身が望まぬままに。私は自分を呪っていた。
何故生まれてきたのかと・・。生みの親にさえ捨てられた子供は、自分に温かい寝床
と食事を与える大人には、何でもした。どこの国のものか一見するとわからない風貌
が珍しがられ、スウェーデン人の養父のように、倒錯の対象にしか見ない者もいた。
自分は、こうして人の慰み者として一生を終えるしかないのかと、わずか7歳の私は
自分の人生にも、世の中にも何の希望も抱けなかった。そう、ジャンヌに出会うまで
は・・・。
初めて会ったジャンヌは、17歳の若さとあふれ出る才気に輝いていた。私には、
己の暗い人生とはまったく対極の位置にある彼女がまぶしく、また妬ましさの対象で
もあった。彼女の実の父親は借金を重ねて夜逃げ同然で、彼女をトゥルネーム様の元
に置き去りにしたという。同じ、親に見捨てられたもの同士なのに、彼女は神の祝福
を受けてそこだけ光が当たっているような幸福と生命力に溢れていた。
いつまでも打ち解けない私に対して、ジャンヌは無理にでも私をどこにでも連れま
わした。私に馬の乗り方、フランス語、文字、さまざまなことを教えたのは彼女だ。
まったく・・・今にして思えば・・・。フランス宮廷を席捲した、かの才女を教育係
にしていた幸せ者だったのだ、私は。
人の愛を知らずに育った私は、ジャンヌから人間らしい愛を初めて注がれた。それ
はまるで姉から弟に向けられるような愛情だった。私はその愛に縋り付いた。愛に餓
えていた私は、どこに行くにも彼女の後を追った。そんな私を彼女もまた大切に慈し
んでくれ、そして、時間が許す限り、彼女は私にいろいろな話を聞かせた。その話の
内容といったら、幼い私には夢物語か冒険小説のようにしか思えなかったのだが、
後々、ジャンヌはそのとき私に語った夢を全て実現させてしまう。
彼女の女らしい容姿に隠れて誰も気付かなかったが、ジャンヌの頭の中は、実に現
実的で、冷静な目を持つ、どちらかといえば男性的な思考力に支配されていた。国家
を支える産業の重要性、王室を守る軍隊の必要性を常に私に説いていた。そして、彼
女は己の美貌を知り尽くし、それを武器にすることで自分の夢がかなうことを知って
いたのだ。女性の特性である「情緒」より、非常に男性的な「現実」を重んじる―そ
れがジャンヌという女。彼女が養父のル・ノルマン・ド・トゥルネームから、彼の甥
ル・ノルマン・テディオールと結婚することを条件に財産の相続の話を持ち出された
とき、彼女があっさりとその結婚話を受けたことを知ったとき、彼女と結婚するテ
ディオールに私は深い嫉妬を覚えたものだ。あの時、ジャンヌ20歳、私は10歳に
なったばかりで、私には彼女が望むものを与えることなど不可能だったのだから。
結婚によってジャンヌは様々なものを得た。トゥルネーム家の財産はもちろんだ
が、それで彼女を縛っていた「居候」という立場から解き放たれ、晴れてトゥルネー
ム家に嫁した者として、堂々と振る舞いだし、己の思ったままの行動を取れる精神的
「自由」を得た。彼女は思う存分自由を謳歌し、さまざまな文人たちとの交流を深め
ることに邁進した。ボォルテールなどは彼女の熱心な崇拝者だったし、彼女と議論を
交わすことを楽しみにする学者や作家、音楽家がいつも彼女を取りまいていた。彼女
のサロンはいつも盛況で、しかもよくある貴婦人のサロンのように、噂話に花を咲か
せるくだらないおしゃべりで終わるものではなく、多くの才気溢れる人たちが集った
ために、彼女の噂は瞬く間に国王の耳にも届いたのだ。あれは・・・国王に自分の噂
を届けるための彼女の策略だったのだろうか・・・。今となっては真実は永遠の眠り
の中にある。
テディオール夫人としてのサロン時代に、彼女はあらゆる知識と教養を身につけて
いったのが、子供の私にも見て取れるほどだった。日に日に彼女は知性の輝きを纏い
始める。それは彼女の女性らしい容姿に一種の気品を与え、若いながらも落ちつきを
漂わせることになる。そんな彼女に向けられる賞賛の言葉を、彼女は躍起することな
く見事に冷静に受け止め、自分の美貌を武器にさらなる高みへと登りたいという野心
を燻らせていった。彼女は一人、走りつづけた、私を置いて・・・。私はまた孤独を
味わっていた。やっと手に入れた、自分に愛情を注いでくれる人、それを失いたくな
かった。私は必死で、彼女の話題についていけるよう勉強もしたし、自分を磨きもし
た。そんな私の努力など、彼女は知ってか知らずか、自分の命運を、より大きなうね
りの中に投入するための策略を思い巡らせていたのだ。
1744年。ジャンヌの運命を大きく変えたあの日・・・。国王、ルイ15世が、
「狩猟」という名目で、文人たちの間で噂に上る「ジャンヌ・アントワネット」とい
う女性に会うためセナールの森に出かけた。ジャンヌもまた、国王の目に留まるよう
に、入念に化粧を施し、あらかじめ調べてあった国王の好みの装いをしてセナールの
森の猟場に出かけた、あの日・・・。あの日から、私達の運命は、歴史の腕に絡め取
られるように怒涛のように動き出した。
1745年に、国王ルイ15世はジャンヌを公認愛妾とすることを決め、高等法院
に彼女の離婚を認めさせてから、彼女にポンバドール侯爵領を与えた。それより後、
ジャンヌは、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンという名前の、才気溢れる女性と
してではなく、ルイ15世の愛妾、ポンパドール夫人として、世に名を馳せていくこ
とになる。私はまた一人になった。ジャンヌとの楽しかった日々、明るい笑い声、交
わされる言葉、私の髪を愛撫するあの白い手・・・。それらがすべて遠いところに
行ってしまったのかと絶望に打ちひしがれる毎日を過ごしていたとき、ジャンヌから
の1通の手紙が私のもとに届けられた。
より自由に、自分の夢を実現するべく美しさを武器に国王に取り入った彼女だった
が、宮廷の暮らしは思っていた以上に、不自由で、かえって行動を制限され、気まま
に外出することさえままならない状態だというのだ。だから、彼女の目となり、様々
な情報を集めるために、私に彼女の側に来るようにとしたためられた手紙の内容に私
は、またジャンヌと一緒に過ごせると舞いあがった。私にとっては千載一遇のチャン
ス。ジャンヌは私を自分専属の従者として王宮に住まわせることを国王に認めさせた
のだ。私と彼女の年齢差が10歳あったことが幸いし、国王は愛妾の弟のような従者
の存在など、気にもかけぬようにあっさりと認めた。
その時から、私達二人の闘いが始まった。ジャンヌは私を、「わたしの影」と呼
び、様々なことを教え込んだ。情報収集の方法、情報網の張り巡らせ方、宮廷での立
居振舞い、マナー。“黒百合”とのつながりも、ジャンヌから受け継いだものだっ
た。なんと、驚くべきことに、彼女は、まだ国王の寵愛を頂く前に開いていたサロン
で、黒百合とのつながりを既に作っていたのだ。黒百合にとっても、彼女が宮廷に上
がったのは、大きなチャンスだった。彼らはもともと宰相マゼランが放った、密偵の
残党。そしてマゼラン亡き後、王室とのつながりは断絶されたままだったため、ジャ
ンヌが国王の愛妾になったことは、彼らにとっても願ったり叶ったりのことだっただ
ろう。
常に革新的なアイデアを出し、それを実行に移そうとするジャンヌに対して、侍従
長のリシュリュー公、陸軍大臣のダルジャンソン伯爵、海軍大臣のモープラ伯爵など
は、真っ向から彼女の行動を阻もうとしていた。私は彼らの懐柔策を講じるため、貴
族の世界の在り方や行動、嗜好などのパターンを学んだ。さらに、貴族に仕える従
者、小間使い、果ては貴婦人や令嬢たちに近づき、あらゆる手段を使って情報を集め
た。幸いにも、私の容姿が独特なものだったことから、多くの人間が私に興味を示
し、褥を共にするのを条件にたくさんの情報を流してくれたものだ。褥の相手は男で
も女でも。身分も問わなかった。私はジャンヌに倣い、自分の容姿を武器に欲しいも
のを確実に獲得していった。そういった意味で、ジャンヌと私は似たもの同士だった
のかもしれない・・・。
そんな私の働きに、ジャンヌは満足気な表情を湛えて微笑んでくれる。あの花のよ
うな微笑・・。その笑顔の下には、男も顔負けするほどの、野心と、才気と、実行力
を備えているのを知りながらも、私はあの花のような笑顔を向けられることを至上の
歓びとしていた。愛を知らぬ私に、唯一の愛を注いでくれた女。私は、彼女の影でい
ることで、己の存在価値を見出し、初めて生まれてきてよかったと思ったのだ。そう
思わせてくれた人間は、後にも先にもジャンヌ唯一人。私に「影」としての任を与え
てくれた私の光。そう・・・彼女は私なくして、あれだけの偉業をやってのけられな
かっただろうし、私もまた、彼女がいなければ、愛のない人生を送っていたことだろ
う。
だが・・・ジャンヌが私を置いて一人逝ってしまってから、私の中に僅かな懐疑心
が生まれては消え、消えては生まれてくる。ジャンヌは私を「影」と呼んだ。だが・
・・本当に彼女は私自身を必要としていたのだろうか・・・。影の任をできる者な
ら、私でなくても良かったのだろうか・・・。光と影のつながり・・・。ジャンヌが
いたころは確信できていた彼女と私のつながりが、果たしてどのようなものだったの
か、私は、その答えを探したくて、今も尚、こうして光ないこの世で生き長らえてい
るのだ。
リヒャルト・アルクバインは、最後のワインを飲み干した。
「やっと、見つけた・・・。光持つ影、アンドレ・グランディエ・・・。お前はお前
の光のために、私の歩いた道を辿るがいい。そして私は・・・お前を通して、私自身
の問いの答えを探し出そう。」
赤い液体の残り香がアルクバインを包んだ。その心地よさに誘われて、彼はそのまま
夢の世界へとおちていく・・・。かすかな記憶の向こうから、懐かしい彼の女の声が
聞こえたような気がした。
―わたしの影・・・・。―
se continuer