影   a l’ombre de Andre・・・

 

=7=

 パリの街は、ベルサイユとはまた違った様相を呈している。ベルサイユにルイ14

世が住み移るまで、まさにフランスの中心だったこの街には、ルイ15世の治世に

なっても喧騒と享楽がひしめき合っている。ベルサイユとは違う速さで時間が流れて

いるようだった。

 暗い小路に身を滑らせるようにアンドレは入っていった。この界隈もすっかり慣れ

た様子で、最初は彼を動揺させていた道端の物乞いにも、袖をひく娼婦にもまったく

動じずに言葉の一つもかけることができるようになっていた。

「やあ、アンヌ。」

アンドレは古い木で出来た扉をあけ、そこにいる亜麻色の髪の女に笑顔を投げかけな

がら声をかけた。

「おや、アンドレ。早かったじゃないか。もう少し時間がかかるかと思ったよ。」

昼だというのに、薄暗い部屋の中で、アンヌは高い戸棚から、箱を取ろうと椅子の上

に乗って手を伸ばしていたところだった。

「うん、ムッシュウの授業が少し早く終わったんだ。」

アンドレは、今ではアンヌを追い越してしまった背を伸ばして、その箱を取ってやっ

た。

「授業ねぇ・・・。あんた、家に帰っても、あんたの姫さんと勉強してるんだろ?」

「うん、オスカルも俺も、勉強しなくちゃいけないことがたくさんありすぎて。オス

カルは来年お輿入れされる王太子妃マリー・アントワネット様付きの近衛仕官に正式

に決まって、もうすぐ近衛隊に正式入隊することになっているし・・・。それより、

その姫さんっていうのやめてもらえないかな。」

「なんでさ?あんたの姫さんだろうが!」

「いや・・・姫さんなんていわれると、なんかむずがゆくなるよ。あいつは姫なんて

タマじゃないしな。」

「じゃあ、どういうタマなのさ。」

「だって、俺より遥かに強いし・・・。剣術、射撃、馬術、すべてにおいて、仕官学

校では首位の成績なんだ。姫なんていうイメージからは程遠いよ。第一、オスカル自

身が“姫さん”なんて呼ばれていると知ってみろ、烈火の如く怒り出すに決まって

る。」

「ふーん、あんたも面白い姫さんに仕えてるんだねぇ。」

「だから、やめてくれって。」

「あたいはあたいの呼びたいように呼ぶさ。第一、あたいがあんたの姫さんに会うこ

となんかないんだからさ。どう呼んだってかまやしないじゃないのさ。」

アンドレは溜息をついた。どうして女というのは、言い出したら聞かない生き物なん

だろう・・。オスカルだけかと思っていたら、ここにもまた同じように自分の言い分

を通す女がいた。だが、アンドレはアンヌが好きだった。母親に例えるには若すぎた

し、姉というには年上すぎたが、まったく構えずに付き合える不思議な魅力を持った

大人の女で、彼女には安心して何でも話すことができた。当のアンヌもアルクバイン

の館で自己紹介してから、この黒髪の少年が大のお気に入りになっていた。アンヌだ

けではない。秘密結社、黒百合の連中は入れ替わり立ち代りアンドレに己の得意とす

る知識を与えることに嬉々とし、アルクバインの館やパリのアジトでアンドレに会う

ことを楽しみにする者さえいた。ルイ15世の治世に人々が不満を抱き始めた世の中

は、殺伐とした空気を帯びていたが、アンドレの存在が、黒百合の人々に俗世のしが

らみを一瞬なりとも忘れさせていた。

「さて、準備はまだだけど、あんたも来た事だし、始めちまおうか。」

「今日は何の薬の話?」

アンドレは少年期独特の好奇心旺盛といった瞳をきらきらさせながら、アンヌに向け

た。アンヌはしばし、薄暗い部屋の中でもきらきらとぬれたように輝く瞳に見惚れ

た。そしてアルクバインからの指令を思い出していた。今日、彼女がアンドレに教え

る毒薬の話は、この少年のまっすぐな瞳を曇らせるかもしれない。もしかして、あの

整った眉根に皺を寄せて自分を睨みつけるだろうか・・・、アンヌは、これまでアン

ドレに教えていた薬草学のように、ケガや内科的な治療に使う薬草とは違った話をし

なければならないことに、わずかながらに戸惑いを感じた。

(ああ・・・。なんであたいがこんなことでごちゃごちゃ悩まなくちゃならないん

だ。それもこれも、アンドレのこの犬っころみたいな真っ直ぐな目のせいだよ。)

アンヌは溜息をついた。

「アンドレ、あんたいくつになったんだい?」

「14。あと3ヶ月で15になるよ。」

「あんたもいつまでも、子供のままじゃいられないねぇ。」

アンドレはアンヌが突然問いただした己の年齢と毒草の話がどう関係するのかわから

ず口を閉じてしまった。

「あああ、もう!なんて目であたいを見るんだい。」

「・・・アンヌ、今日は様子がおかしいぞ。いいから、ゆっくり訳を話してみろよ」

アンドレの背伸びした言い様に、アンヌは先ほどとは打って変わって、むすっとして

アンドレを斜に構えてみつめた。

「アンドレ・・・あんた好きな女はいないのかい?」

アンヌにいれてもらったコップの水を飲もうとしていたアンドレは突然の質問に噴出

しかけた。

「ぶぶっ。な・・なんだ、いきなり!!」

アンヌはにやりと笑い

「ふふん。その様子じゃ初恋もまだと見たね。」

と、アンドレをからかうように指先で彼の顎をなで上げた。

「お、大きなお世話だ!」

アンドレは顔を真っ赤にしてアンヌを睨みつけた。

「ふふふっ。じゃあ、そんなあんたに、今日は恋の媚薬の話をしてやろう。」

「恋の媚薬ぅ?そんなもん、御伽噺か伝説の中だけのもんじゃないのか?!」

「あんた今まであたいから何を習ってきたんだい。世の中、どんな薬だって作りだせ

るさ。知識と技術さえあれば。」

「そ、それで、その恋の媚薬とやらは、効き目はあるのか?」

「おや、興味を持ったね。恋の媚薬とは、まあ伝説の中ではそれを飲めばたちまち恋

に落ちる、ってやつだけど、これから教えるのはそんな生易しいものじゃないよ。

えっと・・・ちょっとその箱をとっておくれよ。」

アンドレはさきほどアンヌが取ろうとしていた箱をアンヌの前においてやった。彼女

はその中から、幾種類かのビンを取りだし説明を始める。

「これはベラドンナ。イタリア語で『美しい貴婦人』を意味する。その名の通り、こ

の果実の汁を目に点すと瞳が大きくなって輝き、美人に見える。」

アンドレは乾いた小さな丸い実をビンの外から覗きこんだ。

「じゃあ、毒じゃないのか。」

「慌てないで人の話はゆっくりとお聞き。このベラドンナは13世紀から15世紀に

掛けてフランスはもちろん、ヨーロッパ全土で流行し、そして誤った使い方をしたが

ために命を落とした女も少なくない。女たちは目を大きくして男たちの関心を引き、

恋を勝ち得ようと、こぞってベランドナの液を用いたのさ。だが、この実、葉、花、

種子、根などすべて幻覚や精神錯乱を起こさせるほか、摂取しすぎると死に至る。だ

がね、使い方によっては医療にも仕えるんだよ。」

「恋を得るために命を掛ける女たち・・・か。」

アンドレは不思議そうにビンの中を見つめてつぶやいた。

「おや、分かったようなこと言うじゃないのさ。ふふふ。さて、次はこっち。」

と、アンヌが持ち上げた別のビンには乾いた花と葉が入っていた。これではどんな植

物か判断がつかないが、そのビンにはその植物の絵が描いてあった。どうやらアンヌ

自身が描いたようだが、紫にクリーム色がかかった古式然とした花と、葉先がいくつ

にも分かれている葉のその植物の横には「Hyoscyamus niger」と

あった。

「ヒヨチアムス・・・?」

「通称、ヒヨス。この植物の不思議な力に賞賛をもって取り入れていたのはギリシャ

人だ。ホメロスの『オデッセイア』にも出てくる。魔女キルケーがオデッセウスを誘

惑する際に使ったと言われているのさ。いわゆる幻覚作用、睡眠作用、沈静作用のほ

かに・・・性欲刺激作用がある・・・。」

最後の言葉にアンドレは思わずアンヌの顔を見つめた。アンヌはにやりと笑って

「どう?試してみる?」

とアンドレをからかった。

「な、な、な、なにを!!」

あせるアンドレがおかしく、アンヌは声をたてて笑った。

「あっはっはっはっ。この薬草の力はすごいよ。オデッセウスはキルケーの魅力に屈

し、1夜のつもりが1年もの間、自分の妻を忘れて忘我の日々を過ごしたんだ。女が

男を手に入れようとするとき、こうした薬を用いることもあるというわけさ。」

アンヌは説明しながら、これまでと違って色事につかう毒草の話を、気詰まりなく話

していることに胸を撫で下ろしていた。

 一方のアンドレは内心、かなり焦っていたのだ。アンヌがこれまでと違っていて、

かなり色っぽい話をするのに戸惑いさえ覚えた。この話に自分が過剰に反応していな

いか心配になっていた。自分は顔色を変えていないだろうか、アンヌに何かを感づか

れていないだろうか・・・、そんな考えが頭の中で葛藤を繰り返しながらも、彼はア

ルクバインの言葉を思い出した。

―どんなときにも動揺は見せてはならない。己の心のうちを見せてしまうと、敵では

なく己の弱さに負けることになる。―

影は影であるからこそ、一歩引いた視点から物事を見よとアルクバインはしつこいく

らいアンドレに言っていた。

 アンドレは心の中で一つ深呼吸をした。耳ではちゃんとアンヌの話を聞いていた

が、己の動揺を散らすために自分の感情に向き合い、余計な感情を追い出すことを試

みていた。

(ただ薬草の話に神経を集中させればいい。)

結果、アンドレは冷静さを取り戻し、いつものまっすぐな視線をアンヌに向けること

に成功した。その視線を受けて、アンヌは少しばかりの落胆を感じていた。

(かわいくないわ、もう少し動揺してくれたっていいじゃないのさ。それにしてもア

ルクバインのだんなも手の込んだことをするねぇ。あたいにこんな話をさせて、それ

から・・・。)

お互いの心の動きを知らず、二人の薬草学の授業は続いた。

 次の日、アンドレはいつものようにオスカルを仕官学校に送った後、一人アルクバ

インの館に向かっていた。この生活もあと僅かだった。オスカルが近衛隊に正式入隊

すれば、アンドレもオスカルと行動を共にする予定で、そのことはつまり、宮廷へも

出入りするようになるということだった。通常なら平民の身分で宮廷に出入りするこ

となど難しいが、オスカル自身が特別な存在であったがために、アンドレが宮廷に出

入りすることは、国王自らが許したことだった。

 長い間、争いを繰り返してきたオーストリア・ハプスブルグ家との縁組は、フラン

スに平和をもたらすばかりでなく、ヨーロッパ全土に強国同士が手を組むことを宣言

することで、ルイ15世としても、ハプスブルク家から嫁いでくるマリー・アントワ

ネットを万全の体制で迎えることはフランス王家にとって必至のことと考えていた。

国王は、年若い王太子妃の護衛に、当初はベテラン中のベテランの近衛隊士を付けよ

うと考えていたのだが、かつて外国から嫁いできた妃たちの中には、己の警護に当た

る近衛隊士と抜き差しならぬ関係になる者もおり、もしマリー・アントワネットにも

懸想するような護衛がつけば、両国間の同盟も危うくなる。ましてや、マリー・アン

トワネットはまだ14歳。物事の分別もつかない年齢で一人見知らぬ国にやってくる

のだ。近衛隊士といえば、容姿の優れた者ばかりであるため、マリー・アントワネッ

トがいつも身近に仕える近衛隊士に恋をしない可能性がないとはいえない。ましてや

彼女の夫となるルイ・オーギュスト・カペーは太っている上に女性を喜ばせる気の聞

いた会話の一つもできない木偶の棒だ。ルイ15世は孫の王太子の容貌を嘆きながら

も、マリー・アントワネットが間違っても恋に落ちない相手、としてジャルジェ家の

跡取りに白羽の矢を立てた。オスカルが仕官学校に入学したときは、宮廷中がジャル

ジェ将軍の行動を影で笑っていたのだが、国王にとってみれば、オスカルの存在は

願ったり叶ったりだった。ましてや、仕官学校でも並み居る貴族の子弟の追随も許さ

ないほどの優秀な成績を修めているという。国王は「よくぞ娘を軍人として育てた」

とジャルジェ将軍を褒めちぎらんばかりに、仕官学校も追えないまま、オスカルの特

別入隊を命じたのだ。そしてジャルジェ将軍のたっての希望である、オスカルの専属

従者の宮廷伺候も難なく許可したのだった。

  

 アルクバインの館についたアンドレはいつものように地下室につながる客間に案内

なしに入っていった。するとそこには、いつもは地下室でアンドレを待っているアル

クバインと見たことのない婦人が座って小声で何かを話していた。アンドレは驚き、

突然部屋に入った非礼を詫びた。

「も、申し訳ありません。廊下に話し声が聞こえなかったので、そのまま入ってきて

しまいました。」

するとその婦人が振りかえり、アンドレに笑いかけた。結い上げたプラチナブロンド

の髪に縁取られたその顔は、美しく優しい笑顔をたおやかさの中にたたえ、しっとり

とした雰囲気を醸し出していた。何故か悲しい目をしたその婦人はアンドレの非礼に

対して何も責める様子もない。傍らのアルクバインはその婦人の手をとってくちづけ

をし、アンドレに向き直った。

「アンドレ、この方がこれからお前の宮廷での生活について助言をしてくださるオラ

ンピア・ド・サライヴァ侯爵夫人だ。」

紹介された婦人は手をアンドレに差し出した。アンドレがどうしていいかわからず立

ち往生していると、サライヴァ侯夫人が微笑を崩さず口を開いた。

「女性が手を差し出したら、おもむろにその手を取り、腰を屈めながらキスをするの

ですよ。さあ、アンドレ。」

言われるままにアンドレはその貴婦人の手を取り、ぎこちなさそうに唇をあてた。

ジャルジェ家でもアンドレが宮廷に出入りすることが決まってから、オスカルと共に

基本的な礼儀作法は習っていたが、実際に貴婦人にキスをするなど初めてのことだっ

た。サライヴァ夫人は20代後半の、アンドレから見れば大人の女だが、ジャルジェ

家のサロンに来る貴婦人のように俗物的なギラギラさがない。

 サライヴァ侯夫人の手からくちびるを離すと、彼女の甘い香りに包まれて、アンド

レはこれまで経験したことのないような軽い眩暈にも似たものを感じていた。

 

 

se continuer

 

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