影   a l’ombre de Andre・・・

 

 

=10=

 北フランスの7月の空は、ベルサイユのそれとは違い、太陽が恥ずかしさに雲の袖

に姿を隠すようにうっすらとした光を地上に届けていた。家々の壁の色、屋根の色も

ベルサイユやパリ近郊のものとはまったく違って、赤土色の力強いたたずまいをみせ

ている。オスカルとアンドレがジャルジェ家の領地であるアラスにやってきて5日が

経っていた。幼馴染の二人きりでこうして旅をするのも初めてで、そのことがオスカ

ルに士官学校時代の鬱積を忘れさせ、アンドレにもアルクバインとの4年間の緊張の

日々から解放させていた。

 二人はアラスに来てからは毎日のように遠乗りに出かけたり、日の光を浴びながら

本を読んだり、何も考えず、そして何にも縛られない、穏やかで自由な日々を過ごし

ていた。

 その朝も、薄青色の空が広がり、優しい風が吹き抜ける爽やかな夏の香りがジャル

ジェ家の領主館の庭を包んでいた。オスカルは今日一日何をしてすごそうかと庭に咲

く遅咲きのバラの香りを楽しみながら考えていた。

「そうだ・・・。」

バラに花のような顔を近づけて香りを嗅いでいたオスカルに、突然ひらめきが舞い降

り、悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女は幼馴染の姿を探しに館のほうに歩き出した。

「アンドレ、アンドレ」

呼べばすぐに姿を現す彼女の幼馴染は、オスカルにとって己の側にいることが当たり

前で、肉親よりも近しい存在だった。

「どうした、オスカル、朝から大きな声を出して。」

今日もやはり呼ばれてすぐにオスカルの前に姿を現したアンドレに、彼女は自分が思

いついたプランを嬉しそうに話した。

「アンドレ、昨日散歩のときに見つけた、あの谷の向こうまで行ってみないか。」

「だが、あそこまではずいぶんとあるぞ。馬の準備をしなければ・・・。」

「いや、今日は歩いて行ってみよう。一日かけて。そういうのもたまにはよいではな

いか。ちょっと冒険気分だ。子供の頃から、一度そうした冒険地味たことをしてみた

かったのだ。ベルサイユではそのような場所もなかったし、父上や母上、ばあやの目

があれば、なかなかその機会もなかったから。昔読んだ、冒険小説のように、谷を超

え、森を抜けて、見知らぬところに行く。なんだかわくわくしないか。」

アンドレはオスカルのこの突飛で子供地味た考えに苦笑しながらも、ベルサイユでは

ついぞ見せない悪戯っ子のような表情をしている彼女のその笑顔をいつまでも見てい

たくて、彼も笑いながら頷いていた。

 

 二人が館を出てから小1時間が経っていた。谷を超えて小さな森の中を二人は歩い

ていた。夏の日差しを、鬱蒼と覆い茂った深緑の葉が遮り、ところどころに楽しげな

木漏れ日を躍らせている。木と木の距離はそれほど迫ったものではなく、道なき道で

はあったが、歩きにくい森ではなかった。植物の匂いと土の匂いが混ざり合い、オス

カルとアンドレの鼻腔をくすぐる。二人は木の幹に寄り添うように葉を伸ばす植物を

楽しみ、鳥たちのさえずりを聞きながら、ベルサイユでの好奇の視線に晒されるがた

めの身構えもなく、ただ小さな子供に戻ったようにはしゃいぎながら歩いていた。

「だが、アンドレ、あんまり深く森に入ると、迷って出られなくなるかもしれない

な。」

ふと、オスカルが不安そうな視線をアンドレに向けた。

「いや、大丈夫だ。森に入ったときから、帰り道の目印にと、植物の枝を折りながら

きたから。」

アンドレは、アルクバインから教わったどんな状況下でも行わなければならない道順

の設定を思い出しながら、心配ないさとオスカルに微笑んだ。オスカルは不思議な感

覚でアンドレを見返していた。アンドレのこのゆるぎない自信は何なのだろうか・・

・、と考えてみた。森の中を歩きながら、アンドレも自分と同じように単純にこの自

然を楽しんでいただけだと思っていたが、もしかして森に入ってからずっと、彼は迷

わないように帰りの道順を頭に刻み付けていたのだろうか・・・。オスカルは目の前

の幼馴染が、単純に冒険小説の真似をして喜ぶ子供でなくなったような気になって、

少しばかり興ざめしていた。

(何だ、こいつ。せっかく子供の気分に戻れたのに。)

何故か悔しさがこみ上げて、オスカルはすたすたと一人森の奥にどんどんと歩を進め

ていった。

「おい、待てよ、オスカル。」

アンドレは慌てたようにオスカルの後を追った。

 やがて、森の合間を切るように流れるせせらぎに行き当たった。ごつごつとした岩

の上を水が煌きながら絶え間なく流れ落ちている。その水の瀬の周辺だけは木の枝が

ぱっくりと割れるように空を覗かせていた。オスカルは驚嘆の声を上げた。

「こんなところに・・・。」

靴と靴下を脱いで、彼女はその瀬に入っていこうとした。

「おい、オスカル、あぶないからやめろ。」

アンドレの止める声もむなしく、オスカルは一人その白い足を水に晒してみた。

「冷たい。アンドレ、お前も来てみろ。気持ちいいぞ。」

オスカルの声が明るくアンドレを誘った。当のアンドレはやれやれといわんばかり

に、やはり靴と靴下を脱いでオスカルのいる小川に入っていった。確かに冷たくて気

持ちいい。オスカルがはしゃぐのも無理はない。

「どうだ?」

「確かに気持ちいい。」

「だろ?」

オスカルは表情を子供のときのままに戻した幼馴染を満足そうに見詰めた。だが、水

の流れはさらさらと見た目は優しそうに見えたが、足を入れると思いのほか力強く圧

力を加えてくる。水底の岩も滑りやすく、アンドレはオスカルが足を取られて転びは

しないかはらはらと心配しながらなるべくオスカルに近づこうとしていた。

「ああ、気持ちいい。」

オスカルが眩しそうに、空を見上げた。アンドレもそれにつられるように空を見る。

ふと、アンドレは空の色に目を止めた。

「オスカル・・・空の色が変わった・・・。」

「え?」

アンドレの言葉にオスカルは不思議そうに振り向いた。

「空の色って・・・。どこが?あんなに晴れ渡っているではないか。」

「いや、これは雨が来そうだ。」

アンドレは、黒百合の仲間で空の色で天気を読む力を持つジェラールから教わったこ

とを思い出していた。確かに薄青色の空が広がっているが、微妙に灰色を帯びてきて

いた。しかも雲の流れが雨を呼び込むものだった。この森の中で雨にみまわれたな

ら、大変なことになる。

「オスカル、天気が変わったら、本当に森の中で立ち往生するぞ。今日は引き上げた

ほうがいい。」

アンドレの突然の計画変更の提案に、オスカルはむっとした。

「何故だ。わたしには天気がそんなに急に変わるとは思えない。お前がいかないな

ら、私一人でも行く。」

両親やほかの大人たちのいうことには聞き分けのいいオスカルだが、どうもこの黒髪

の幼馴染の前だけでは甘えが出るようで、わがままをぶつけてしまう。しかも久しぶ

りに全ての緊張から解放されて子供気分に戻ってはしゃいでいたばかりだったことか

ら、それを壊すようなアンドレの発言に子供っぽい憤りさえ感じていた。オスカルは

一人、せせらぎの中をじゃぶじゃぶと歩き出した。

「おい、オスカル。」

アンドレは驚いてオスカルを追った。

「うるさい。帰りたければ帰れ。」

オスカル自身も何故こんなに意固地になっているのかわからないまま、アンドレの追

随を許さないとばかりに大またで尚も水の中を強引に歩いていた。それでもアンドレ

が水飛沫を上げながらオスカルに追いつこうとしたまさにその瞬間、オスカルが水底

の岩に足をとられてバランスを崩した。咄嗟にアンドレはオスカルを助けるために手

を伸ばしたそのとき、オスカルはバランスを保とうと掴んだアンドレの手のおかけで

なんとか転ばすにすんだ一方で、アンドレが無理な体勢からオスカルに手を貸したが

ために、そのまま足を滑らせて水の中に背中から落ちてしまった。

「うわっ。」

「アンドレ!!」

水の深さは浅いため、ころんでもアンドレの顔は水面に出ていたが、咄嗟の出来事

に、二人とも驚いて目を見開いてお互いの顔を見て、そして噴き出してしまった。

「あははは、アンドレ、大丈夫か、あははは・・・。」

「オスカル、笑い事じゃないぞ・・・・ふ・・ははは、あははは・・・。」

今度はオスカルの差し伸べた手にアンドレがつかまって身を起こした。着ていたシャ

ツがアンドレの体に絡み付いている。その袖の部分がみるみるうちに赤く染まり、広

がっていくの見つけたオスカルが叫んだ。

「アンドレ、腕が!」

「あ、水底の石で切ってしまったようだ。」

みるとシャツの袖もざっくりと切れていた。

「大変だ、アンドレ、早く帰って手当てをしなければ。」

「やっと帰る気になってくれたか。」

アンドレは呑気にオスカルの言葉尻を捕らえた。

「バカ野郎、冗談言っている場合じゃない。ほら、アンドレ。」

二人は水から上がり、足を乾かして靴下と靴を履き、元来た道を辿り出した。やがて

晴れ渡っていた空に雨雲がかかり、太陽の光をさえぎって、大地に天からの恵みの滴

りをもたらしだした。二人は慌てて、大木の木の下に逃げこんだ。

「参ったな・・・。」

アンドレが木々の間から垣間見える空を見上げた。

「そうだ、さっきこの近くに森番の小屋を見たのだが・・・。たしかその向こう

に。」

「よし、ひとまずそこで雨宿りとお前のケガの応急手当だ。」

二人は、大粒の雨が降る中、森番の小屋まで走った。

 その小屋には誰もおらず、生活の匂いがないところをみると、廃屋になっているよ

うだった。だがありがたいことに、雨がしのげるほど、小屋そのものの傷みは少な

かった。おそらく森番が去った後、そう時間が経っていないのだろう。

 アンドレは転んだときと雨に打たれてずぶぬれになったシャツを脱ぎ、シャツのボ

ウで傷を縛ろうとしていた。

 窓から外を見ていたオスカルは振りかえったところに上半身裸になったアンドレを

見とめて目を奪われ、野生の獣を思わせるしなやかなアンドレの体に見入ってしまっ

ていた。腕から流れる血が手負いの獣を思わせる。それは獰猛な肉食獣ではなく、し

なやかな筋肉につつまれ、風を切って走る若い牡鹿のような孤高で美しい肉体。あき

らかに己の裸体とは違う、男の体を持つ幼馴染に改めて性の違いを感じざるを得な

かった。引き締まった筋肉、なめらかな肌、窮屈そうに成長のまっさかりの骨格。そ

して・・・何か説明のつかない空気をその肉体が纏っているのに彼女は気付いてい

た。少年から大人の男への前奏曲のように、自分が知っていた子供の頃の彼とは明ら

かに違う空気が彼のまわりにあった。それが女たちによって磨かれ始めた彼の男の色

香だということに彼女は気付く術はもたないが、二人が共に生きた時の流れをいやが

おうでも感じずにはいられなかった。

 オスカルの視線に気付いてアンドレが傷を縛りながら振りかえった。

「ん?」

オスカルは我に返り、あわててアンドレの止血を手伝おうと、アンドレが空いててい

るほうの手と口で縛りかけたボウに手をかけた。

「大丈夫か?」

「ああ、大した傷ではない。」

「・・・アンドレ、すまなかったな。私が意固地になったばかりに・・・。やはり、

お前が正しかったようだ。確かに雨が降り出した。」

「オスカル・・・。」

「お前・・・何故雨が降るとわかったんだ。普通に生きていたら、あの空の色だった

ら雨が降るなどとは思いもよらないぞ。」

アンドレはどう答えていいかわからなかった。

「あ、ああ・・・。誰かに聞いたんだ、雨の降る空の色の話しを・・・。」

「そうか・・・。」

二人の会話は、やがて雨音にかき消されていた。

 

 

 

 さらに小一時間ばかり、雨宿りをすると、嘘のようにまたも薄青色の空が戻ってき

た。二人はやっと、森を抜け、領主館への帰り道を歩いていた。すると、この辺りに

住む田舎貴族の娘達だろうか、こぎれいなドレスを纏った若い令嬢らしき2人づれが

向こうからやって来た。二人はオスカルとアンドレを見ると顔を赤らめながらも内緒

話のようにひそひそと言葉を交わしながら微笑んでいる。まるで緑一面の草原にぽっ

と咲いた鮮やかな色の野の花のような笑顔だった。アンドレは咄嗟に道を娘達に譲っ

て、自分は道の端に身を寄せて、娘達が通りすぎるときに、軽く会釈をした。娘達は

アンドレに会釈をされて「きゃっ」と小さな嬌声をあげたかと思うと、小走りに去っ

ていってしまった。オスカルはその様子を大きな目をさらに大きくして見詰めてい

た。幼馴染が今まで見せたこともないような大人びたしぐさで女性に道を譲ったの

が、おかしいようなくすぐったいような、それでいて「どこでそんなことを習ったの

だ」と聞きたくなるほどスマートな身のこなしをいつのまにか付けていることに、彼

女の知らないアンドレの顔を見た思いがしていた。彼がどこか遠くにいってしまうよ

うな、そんな気がしてオスカルはふざけるようにアンドレの背中からはしゃぎながら

飛びついた。

「おい!アンドレ、何なんだ、今のは。お前いつの間にあんなこと憶えたんだ?」

オスカルは無邪気にアンドレの背中におぶさるようにしながら、はしゃいだ声を上げ

ていた。一方のアンドレはいきなりオスカルが背中に飛びついてきたので、体をこわ

ばらせてしまっていた。背中に感じる、小さな、それでいて柔らかい二つの膨らみ。

彼が知っている二人の女の豊満な胸とは明らかに違う熟しきれていない果実のよう

な、しかし紛れもない女の肉体を証明するような優しい感触だった。アンドレはオス

カルがこんなに柔らかい体を持っていることに改めて気付いた。ずっとずっと幼い頃

は、裸同然の格好をしていてもちっとも恥ずかしくなかったし、実際に最近まで、お

互いが男であろうが女であろうがあまり意に介さなかったのだが、オスカルに女の証

明であるような胸の膨らみを感じたとき、どこからみてもアポロンの祝福を受けたよ

うな美少年にしか見えない目の前の幼馴染が、その男装の下に密かに女の肉体を息づ

かせていることをアンドレは初めて認識した。

「・・・オスカル・・・。体を離せ・・・。」

アンドレがうつむき加減で言うと、オスカルは驚いたような表情になった。

「え?」

「俺から体を離せと言っているんだ。」

オスカルはアンドレが何故そのようなことをいきなり言い出したのか理解に苦しんで

いた。いままでも、同じようにじゃれ合うことは数え切れないほどあったし、どちら

からともなく、じゃれあいをしかけるのが、二人だけの関係にだけ成立する何にも変

えがたいほど幸せな時間だったのに・・・。オスカルは何と答えてよいか分からず、

ただアンドレの顔を不思議そうにみつめることしかできなかった。

「お前が離れないなら、俺のほうから離れる。」

そういってアンドレはオスカルの腕を振り解き、オスカルからすばやく体を遠ざけ

た。

「・・・アンドレ・・・?私が何かしたか?」

問われてアンドレは、はっとしたようにオスカルを振りかえった。なんと酷い態度を

取ったのだろう、アンドレの胸が後悔の念で痛んだ。

「あ・・・いや・・・なんでもないんだ。」

オスカルはアンドレの体を周りこみながら尚も不思議そうに彼の顔を覗きこんだ。

「なんでもないんだったら、あまりに失礼だろう、お前。それが幼馴染に対する態度

か?」

「だからすまなかったって・・・。だけど、お前、もう少し自覚しろよな。」

「自覚って・・・何を?」

あまりに自分のことに無頓着なオスカルに、アンドレはどう言っていいのやらわから

ず、眉間に皺をよせて手を額に押し当てだまりこんでしまった。

「あははは・・・、アンドレ、お前なんて顔してるんだ。ニヒルを装っても似合わ

ん、似合わん。やめとけ!」

「お前なぁ・・・、誰がニヒルを装ったんだ。まったく、だいたいお前が・・・。」

「あははは・・・、館まで競争だ。」

オスカルはそう言うなり金髪を翻して走り出した。アンドレもその後を追う。笑いな

がら野道を駆ける二人は、出会った頃となんら変わらないように見えたが、すぐ未来

に待ちうけている世界が、いやがおうでも二人を歴史の波の中に飲み込んでいくの

だった。

 

A suivre

 

 

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