影   a l’ombre de Andre・・・

 

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 ベルサイユ宮―パリの南西およそ11キロのへんぴな土地に建てられていた狩猟用

の離宮を改造して、ルイ14世が26年の歳月と情熱をかけて作り上げたヨーロッパ一の

壮麗な宮殿。その広さは2473ヘクタールにおよび、大小の離宮を含めて王族と貴

族の生活の中心となっている。

 オスカルはベルサイユ宮の控えの間で緊張の面持ちで座っていた。真新しい近衛士

官の白い軍服の金モールに金色の髪が連なり、その姿は戦絵に描かれる物語の英雄の

ようだった。士官学校を終えないまま、国王ルイ15世の命により、近衛隊に特別入

隊したオスカルは、今日初めて近衛士官として国王に謁見する。来年、オーストリア

から嫁いでくるマリー・アントワネット王太子妃付きの士官として、そのマリー・ア

ントワネットを迎える準備にとりかかるためだ。

 そのオスカルに付き添い、アンドレも同じ控えの間にいた。彼は初めて目にする宮

殿の部屋にこれが人間の作ったものかと驚愕にも似た思いを抱きながら、それでも幼

馴染がいつになくその蒼い瞳の奥に緊張と不安の影を映し出しているのをすばやく見

抜いていた。冷静に考えれば、彼のほうこそ緊張してもおかしくない状況ではある

が、いつもはアンドレ以外の人間の前では可愛げがないほど落ちついているオスカル

の今の精神状態を思いやれば、彼も一緒になって緊張するわけにはいかないと思う

と、彼は冷静にその場の状況を受け入れようとしていた。アンドレはオスカルにだけ

神経を集中させていた。余計なことを考えず、彼女のために自分がどう動かなければ

ならないのか、彼女の欲しているものが何なのかを見極めていこうと決心していた。

 

 国王付きの侍従がオスカルを呼びに来た。

「ジャルジェ様、どうぞ・・・。」

慇懃にお辞儀をするその侍従は、目の前の近衛士官に見惚れながら、王の謁見の間に

オスカルとアンドレを導いた。

 オスカルは真新しい軍服の襟元をくいっと引き締めた。そして一歩を進める。この

一歩が彼女にとって引き返すことの出来ない、運命の一歩となる。この一歩の行く手

に待ちうけるもの。それが何か、彼女が傷つき、涙しながら行き着くところが何なの

かは、このときのオスカルには想像もつかない運命の第一歩であった。

 ベルサイユの長い廊下をオスカルの乗馬靴の踵が足早に歩く。周囲からは案の定、

好奇の視線がオスカルとアンドレに注がれていた。だが、アンドレは前を歩くオスカ

ルに目を奪われていた。好奇の目を集めながらも、緊張という名の衣をまとい、彼女

のまわりの空気を凍りつかせるかのように、何者も彼女に触れることができない孤高

の姿。すべての者がその姿の前ではひれ伏すであろう圧倒的な存在感。誰もが目と心

を奪われるであろうその姿を、より鮮やかなものにするように、窓からさす外光が露

を払うようなオスカルの周囲に沸き立つような光の幕を作り出していた。アンドレは

目の前の幼馴染の存在感に圧倒され、心が震えるのを感じていた。彼の視界には、も

はやオスカルしか見えない。

―俺は・・・俺は今まで、オスカルの何を見ていたのだ。この圧倒的な輝き。・・・

・・・これが貴族の血のなせる技なのか・・・。いや・・・違う。周りの貴族たちを

見てみろ、明らかに彼らとは違う次元でオスカルは生きている。お前のこの輝きが、

お前自身の内なるところから発せられているのが分かる。自ら光輝ける人間がこの世

に何人いるのだ。俺はオスカルの影になると頭で理解していたつもりだったが・・

・。俺は見てしまった・・・。まさにお前は光なのだ。ああ・・・俺は今こそ願う。

お前の影になろうと。その光をさらに輝かせるため、俺は、俺の人生を賭けよう。俺

は・・・お前の前ではこの頭を深く垂れよう。お前が貴族だからではない、お前のそ

の命の輝きの前にこそ、俺はよろこんで深く膝を折ろう。オスカル・・・お前こそ、

お前こそ俺の光なのだ・・。

アンドレは眩暈にも似た感覚を覚え、これから二人を待ちうけている世界に何が待っ

ていようと、決してオスカルの光を消しはしないと改めて強く心に誓っていた。

 廊下をまっすぐ歩いていたオスカルはふと足を止めた。右斜め後のアンドレを見や

ると彼はいつもの微笑みでかすかに頷いた。

「アンドレ・・・何故私の斜め後ろにいる。いつものように肩を並べて歩いてく

れ。」

アンドレの黒い瞳に深い色味がさし、優しい笑みを湛えてオスカルに注がれた。

「俺は、お前の従者だから。これからはいつもこうして後からお前のことを見てい

る。心配するな、オスカル。お前はまっすぐ、前を向いて歩けばいい。」

そう言われて、オスカルは最初驚いた表情をしたものの、決心を固めたかのように唇

をギュッと噛み締めて、コクンと頷いた。ゆっくりと前を見据えて国王の謁見室に向

けて再び歩を進め始める。宮廷に伺候するということで、こうして自分と幼馴染の間

にこれまでとは違う「主従」という関係を作り出したことに、寂しさを憶えながら

も、それでも自分の後ろにいてくれるのが、他でもない、誰よりも信頼している黒髪

の幼馴染であることにオスカルは感謝さえもし、アンドレに守られていることにこの

上もない安堵感を見出していた。

―アンドレが一緒だ。心配はない。アンドレ、見ていてくれ、私が惑わされることな

く、まっすぐ歩いていけるように・・・。お前と一緒なら、私は怖くはない。

 アンドレの視線を背中に感じたオスカルはスッと肩の力が抜ける感覚を憶え、緊張

で見えていなかった周囲の風景に対する視野が広がったようだった。いつもの彼女ら

しさを取り戻すと、余裕の笑みさえその花のような顔に浮かべて一歩、一歩、大理石

の廊下を踏みしめていた。まるで光の粉を撒き散らすように、王宮の廊下を行き来す

る貴族たちの好奇の目を憧憬の眼差しに変え、紅潮した頬が貴婦人たちを虜にし、サ

ファイヤの瞳をこの上もなく輝かせてまっすぐと歩を進めていた。

 

「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ殿」

名を呼ばれてオスカルは謁見室で国王の前に進み出た。生まれて初めて目にする「国

王」という人。いつも父から嫌というほど聞かされていたフランスの絶対的な君主。

オスカルはこれから自分が仕えるべき、この神から選ばれし人物の前に頭を垂れて跪

いた。

「顔を上げよ、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ」

国王に名を呼ばれて、オスカルは屈めていた腰をゆっくりと伸ばした。目の前の国王

は、既に壮年を過ぎ、老年にさしかかりつつあるが、今だ若さをどこかに残す大きな

瞳をもっていた。その瞳の奥に映るものは自信と威厳。オスカルは初めて見た絶対君

主の姿をただただ感動をもって瞳の中に焼き付けようとしていた。

 一方のルイ15世は、前に進み出たまだ子供の面影を残す近衛士官がゆっくりとそ

の顔を上げたとき、小さな声を上げるほどだった。

「これは・・・。」

黄金色の髪に囲まれた小さな白い顔に、サファイアのような瞳を輝かせて自分を見詰

める目の前の近衛仕官のあまりの美しさに、国王はしばらく言葉を失っていた。そし

て咄嗟に、自分の年齢があと20歳若ければとあらぬことを考えた。それでもこの男

のなりに身を固めた少女の、屈強の男たちの世界に身を投じる覚悟を秘めたその視線

を浴びて、彼は多少なりとも胸の痛みを覚えていた。これほどの美貌なら、貴婦人と

して一世を風靡できたであろうに・・・。己の決定で、彼女から永遠に女として生き

る選択肢を奪ってしまったことに、国王は僅かばかりの呵責を覚えていた。

「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。そなたには来年わがフランスに嫁いでく

るオーストリア・ハクスブルグ家のマリー・アントワネット姫の警護を任ずる。知っ

てのとおり、わがフランスとオーストリアはヨーロッパ列強国同士としてこれまで争

いを繰り返してきた。だが、その争いにより、両国間はいうに及ばず、ヨーロッパ全

土を巻き込んで無駄な血と財力が費やされてきた。我々は争うより、お互い、己の懐

の中にいれることが肝要であるという結論に達したのだ。両国間歩み寄っての今回の

婚儀は、両国だけでなく、ヨーロッパ全土においても重要なことなのだ。ブルボン家

とハプスブルグ家のつながりだけではない意味を持つ。その鍵を握るマリー・アント

ワネットという少女にもしものことがあれば、ヨーロッパ全土の願いが水の泡と化す

のだ。そなたの役目は重大だぞ。心して勤めるように。」

「国王陛下からの直々のお言葉、オスカル・フランソワ、感激の至りにございます。

我がフランスとそしてオーストリアの友好のため、果てはこのヨーロッパ全体の平和

のため、この身を賭してお仕え申し上げる所存でございます。」

大の大人でも、国王を前にすると、緊張のあまりしどろもどろになる者が多い中、あ

まりに見事な、一分の隙もないオスカルの挨拶に、国王は再び新たな感動を覚え、そ

して己の選択が間違っていなかったと確信していた。

「それにしても、よくぞ女であってくれだぞ、オスカル・フランソワ。それだけの美

貌を前にすれば、オーストリア皇女だろうが女帝だろうが、女は皆骨抜きになろうか

らな。我が孫の王太子は日ごと夜毎、心配で眠れなかっただろうて。はっはっはっ・

・・。」

豪快に笑う国王の前で、オスカルは頬を赤らめながら深深と再び頭を垂れていた。そ

の様子を他の貴族の影に隠れながらアンドレは誇らしさにはちきれんばかりに胸を熱

くして見詰めていた。

 こうして、オスカルが女であることを国王自ら肯定したことで、オスカルの宮廷で

の生活は、彼女が懸念していたほど居心地の悪いものではなくなっていくのだった。

A suivre

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