影 a l’ombre de Andre・・・
=12=
「それで、どうだい?宮廷生活は。」
アンヌはアンドレの顔を覗きこむように尋ねた。宮廷での新しい生活が始まって以
来、なかなか訪れることができなかったアルクバインの館で、久しぶりにアンヌに
あったアンドレは、子供のままでいられない状況に取り巻かれている宮廷生活で揉ま
れたせいか、この館でアルクバインに様々な教えを施されていたころより、少しばか
り大人びた風情を帯びるようになっていた。。
「ん・・・。そうだな・・・。まだ3カ月だからなんともいえないけれど、少しず
つ、いろいろなことが見えるようになってきた、ってとこかな。」
アンドレはオスカルとともに初めてベルサイユ宮に伺候したときのことを思い出しな
がら答えていた。あのときのオスカルの輝きを彼は深く、自らの胸に刻み込み、この
館で訓練に勤しんでいた頃よりも尚強く、影として生きる決心を毎日かみ締めながら
生活していた。
「ふふん、で、あんたの姫さんも元気にやってるのかい。」
「また“姫さん”かい。アンヌも一度オスカルを見てみればいい。絶対その姫さんっ
ていうのをやめたくなるって。あいつは・・・、あいつは近衛に入隊して以来、じっ
くりと着実に己の居場所を築いているよ。士官学校での経験もあったから、自分が女
で、それがどんなに特異なことかを理解した上で他の人間に接しているから、学校時
代のような冷たい仕打ちに逢うことも無いようだし・・・。まあ、国王陛下がオスカ
ルが女であることを肯定したから、というのもあるのだけれど・・・。」
「女ながらに近衛士官か・・・。そうだね、一度くらいあんたの姫さんの顔を拝んで
もいいかもねぇ。」
どうやら、アンヌは“姫さん”という呼び方をずっとやめるつもりはないようだっ
た。
「ただ・・・。」
アンドレは何かをいいかけて、そして言葉を切ってしまった。
「ただ?」
アンヌがその先を問いただすと、アンドレは少しばかり言うのを躊躇った。
「・・・いや・・ただ、“影”としてオスカルの身辺に目と気を配っていると、これ
までと違ったあいつの姿が見えるときがあるんだ。」
「ふーん、例えばどんな?」
「一つの重大な任務を与えられると、人間はああも輝けるのかと思うほど、オスカル
は士官学校時代とは比べ物にならないほど精彩を放っている。己の能力と己の責任に
しっかりと向き合って、丁寧に任務をこなしている。まるで才能という花が一つ一つ
開花していくような感じなんだ。側でそれを見ていて身贔屓なくあいつをすごいと思
える。軍人としての素養が生まれながらに備わっていたんだろうな。」
オスカルのことを自慢するアンドレも実にうれしそうで、まるで自分のことを話すよ
うに夢見るようにアンヌにオスカルのすばらしさを語っていた。そのアンドレの様子
をアンヌもまたほほえましく思いながら見ていた。
「だが・・・。」
アンドレの目が今度は優しく微笑んだ。
「俺もそんなオスカルの行動を影として見るようになって、これまでとは違うことが
見えてきた。俺はいつもあいつの言動に神経を集中させている。あいつが何を望んで
いるのか、あいつの瞳が見詰める先にあるものは何なのか。そしてあいつに向けられ
る人々の視線にも目を配っていると・・・いろいろなものが見えるんだ。俺もオスカ
ルを完全無欠だと舌を巻いたこともあったが・・・あいつは、完全無欠なんかじゃな
い。あいつの弱点が前よりはっきりと見えるようになった。」
「それで、その弱点にあんたはがっかりしたのかい?」
アンヌが少しばかりいじわるを込めて尋ねた。
「いいや。あいつの弱点が見え出したら、俺のなすべき道がはっきりと見え出した。
俺はあいつの弱点をカバーするために側にいるんだって。俺が影である意味は、何も
あいつの護衛とか、補佐役のような働きばかりではないんだ。俺は影として光をより
強く輝かせるために、影である俺自身の色をより濃く、深くしてゆきたい。俺の働き
で、オスカルという光をさらに輝かせることこそ、俺に課せられた役目なんだと、実
感しているよ。」
アンヌは何も言わず、ただ静かに微笑んでアンドレを見詰めていた。そこに黒百合の
ナージャが入ってきた。
「あら?アルクバイン様はまだなの?」
黒い巻き毛を背中一杯に散らして、マジャール人独特の歯切れのいい発音が異国の不
思議な雰囲気を醸し出すこの娘は、アンドレに気がつくとにっこりと笑いかけた。
「あら、アンドレ。来ていたの。久しぶりね。」
「やあ、ナージャ、元気かい。」
アンドレも笑顔で答えた。二人の様子を見ていたアンヌはアンドレをまじまじと見て
ため息をついた。
「なーんだ、おもしろくない。」
「何が?」
アンドレは不思議そうにアンヌを見た。
「だって、あたいちょっと楽しみにしていたのに。アンドレがナージャを見てどんな
反応するかって。」
「なんでだ?どういう意味だ?」
「ちょっとおぼこく顔を赤らめるあんたを想像していたからさ。」
「生憎だったな、アンヌ。俺もいつまでも子供じゃいられないっていったのはあんた
だよ。」
アンドレはどこからみても平静で、ナージャと床を共にしたことのある素振りなどは
露ともみせていなかった。だが、次のナージャの言葉で、その平静はいともあっさり
と崩れ去るのだった。
「そうよ、アンヌ。アンドレはもうヒヨスは必要ないんだから。立派な男よ。」
その言葉の意味するところにアンドレは顔を真っ赤にして焦った。
「な、な、な・・・。」
喜んだのはアンヌだった。
「あっはっはっ・・・。そうだよ、アンドレ、あたいはあんたのその顔が見たかった
んだ。」
アンヌが笑い転げているところに、黒百合のほかの連中も集まってきた。鞭使いの名
人イアンや空の色を読む天才のジェラール、そのほか、見知った顔が館の地下室に集
まってきた。
そして、アルクバインは、旅から戻ったばかりの格好で、部屋に入ってきた。
「みんな、集まっているか。」
「ああ、だんな、今帰ったのい?」
「ムッシュウ、オーストリアはどんな様子でしたか?」
アンドレが早速口を開いた。アルクバインは、マリー・アントワネット輿入れの準備
の様子を探るため、故国オーストリアに戻り、当地でさまざまな情報を集めていたの
だった。
「表面上はアントワネット殿の話題でお祭り騒ぎだ。だが・・・。」
アルクバインは首もとのタイを緩めた。
「わたしが話を聞いてまわったところでは、今回の婚儀に対する反対分子もいる。ど
うやらフランス側のある人物がオーストリアの反王室派を煽動しているようなのだが
・・・。」
「それは俺が集めた情報の中にも同じことがいえるな。オーストリアだけではない。
アントワネット様の父君、フランツ一世陛下の生まれ故郷ロートリンゲンでは今回の
政略結婚に異様に敏感になっているし、バイエルンではフランスとオーストリアが手
を結ぶことに戦々恐々としている。」
ジェラールも国外で集めてきた情報を披露し始めた。
「ハプスブルグの支配を恐れているハンガリーでも、オーストリアが敵国だったフラ
ンスと手を組むことで、オーストリアの国力の増大を恐れているわ。軍がオーストリ
アの進行に備えて準備を始めたっていうから。」
故国の様子を伝えたのはナージャだった。
「パリでも不穏な動きがないとはいえないよ。ただ、水面下で目立たない動きだか
ら、誰がそれを煽動しているのかはまだつかみきれていないけどね。」
「この動きをお前はどう見る?アンドレ」
アルクバインがアンドレに尋ねた。
「王太子殿下とマリー・アントワネット様の婚儀を邪魔するものが、余計な波紋をわ
ざと投げかけているように見えますが・・・。宮廷内でも王太子殿下の弟殿下一派が
どうにか婚儀を阻止しようとしているとの噂がまことしやかに囁かれています。」
「ふむ。それでお前の見解は。」
「・・・今、国王陛下が細心の注意を払われている今回の婚儀を、例え弟殿下一派の
力が強くても、そう表立った動きは彼らの命取りになるでしょう。ただでさえ、そう
した噂があるのですから。俺は・・・ベルサイユから少し離れたところに黒幕がいる
ように思います。例えば・・・。」
「例えば?」
「例えば、オルレアン公爵家。」
アルクバインは黙り込んだ。黒百合のメンバーもじっとアルクバインに視線を集め
た。
「ナージャ、パレ・ロワイヤル周辺を探れるか?」
「やってみるわ。」
「アンドレ、お前は宮廷の中の動きをさらに探れ。お前の光はアントワネット様を迎
えるための準備メンバーの一人であろう。万全の状態でアントワネット様をお迎えで
きるよう、お前の光にとってもこの任が役立とう。」
アンドレは頷いて、そのまま席を立ち、アルクバインの館を後にした。
「だんな・・・、いい影に育っているじゃないのさ、アンドレのやつ。」
アンヌがアンドレの後姿を見送りながらしみじみと言った。だが、アルクバインはそ
れには答えず、暗い瞳の奥に不可解な感情を映して、ただじっとアンドレの去って
いった扉を見詰めるだけだった。
オスカルは顎を引き眉間に皺を寄せんばかりに目の前の貴婦人を睨みつけていた。
貴婦人といっても女の盛りをすっかり過ぎてしまった、オスカルにとっては母親以上
の年齢の女性だったが、その貴婦人がオスカルにとんでもない話を持ちかけていたの
だった。
「おっしゃっている意味が私にはわかりかねるのですが、マダム。」
オスカルは冷ややかな口調で言った。
「ですから、あなたがお持ちの、あのすばらしい装身具を私にお譲りくださいと申し
上げているのですわ。」
「生憎でございますな、私は軍務に就く身ゆえ、装身具の類は一切身につけておりま
せん。いったいマダムは何の幻をご覧になってそのようなことをおっしゃっているの
か、測り兼ねますな。」
オスカルは精一杯の冷静さと、最大の慇懃さで答えた。
「あら、ジャルジェ様、あなた様はお持ちですわ、すばらしい装身具を。かたときも
離さずに。あなたのあの黒髪の従者。私、一目であの黒髪の従者が気に入りました
の。あれほど見事な黒髪は目を引きますわ。しかもあの容貌。彼は私の側にはべるこ
とで、より一層美しい装身具になってくれますわ。彼を私に譲ってくださいませな。
お礼はたっぷりといたしますわ。」
その女の食虫花のように開閉を繰り返す口元にオスカルは吐き気さえ覚え、怒りで唇
が自然に震え始めた。やっとの思いでオスカルは言葉を搾り出していた。
「あなたは多分、私の母より長く生きていらっしゃる方だ。年長者への礼儀として、
今ここで私はあなたに何もせずに立ち去りましょう。だが覚えておかれよ。私の従者
であるとともに親友であるアンドレを辱めるようなことを言う奴を、このオスカル・
フランソワは決して許さぬことを。今後そのようなことをおっしゃられた場合は、国
王陛下から直々に宮廷への伺候を許可されたアンドレと彼の主人であるオスカル・フ
ランソワがジャルジェ家の名においてあなたを糾弾いたしましょうぞ。恥を書かれる
のはあなただ。」
オスカルは軽蔑を込めた視線をその貴婦人に投げつけ、踵を返してその場を立ち去っ
た。
宮殿の中を歩いていると、いろいろなことを耳打ちする輩がいる。また街の娼婦よ
ろしく男たちの袖を引く貴婦人も多い。上辺の美しさに紛れて、最初は見えなかった
いろいろなことがオスカルにも徐徐に見えていた。
オスカルは依然、はらわたが煮え繰り返るような思いで廊下を早足で歩いていた。
すると前方から、貴族の若者数人が談笑しながら歩いてきた。そしてその後方にアン
ドレの黒い頭が見え隠れしていた。アンドレはオスカルを見とめると、笑いかけ目で
合図をした。オスカルはその場に立ち止まってしまった。無性に腹が立っていた。貴
族の若者達がオスカルに軽く会釈して通りすぎると、今度はアンドレが尚も笑いかけ
ながらオスカルに近づいてくる。
「どうした、オスカル。そんな怒ったような顔をして。」
「どうしたではない。怒っているのだ、私は。」
オスカルのご機嫌がかなり悪いことを察したアンドレは彼女の怒りの原因に思いを巡
らせてみたが思い当たらず困惑していた。
「お前のその黒い髪は目立ちすぎる。明日から布っきれでもかぶって来い。」
オスカルのむちゃくちゃな言いぐさにアンドレは笑い出した。
「どうしたんだ、オスカル。俺のこの髪がどうかしたのか。」
問われてオスカルは先ほどまであの年嵩のいった貴婦人と自分に交わされた会話を思
いだし、アンドレを睨みつけていた。彼に何の責任もないのはオスカルも解っていた
が、訳もなく能天気に笑いかけてくるアンドレにも腹を立てていた。
「ある貴婦人がお前をゆずってほしいと言ってきた。まるでお前をモノのようにあつ
かって。ゆるせん!!あの女!」
履き捨てるように言うオスカルに対して、当のアンドレは驚いた表情を一瞬見せたも
のの、笑顔に戻しながらオスカルに言い聞かせるように言った。
「オスカル、この宮廷の中・・・いや、貴族のほとんどが、俺達平民をモノとしてし
か見ていないだろう。」
「お前はそれで悔しくないのか、もっと人間らしく怒れ!」
「怒ってみたところで、彼らの考えが変わるわけではない。オスカル、俺は彼らの考
えを変えるよりも、俺自身が自分に恥ずかしくない生き方をすれば、決して辱められ
ることはないと思っている。」
「アンドレ・・・。」
「それに・・・。」
「それに?」
「・・・・・それに、もしお前が必要とするのなら、貴婦人のお相手くらい・・・」
バシッ!
オスカルの手がアンドレの頬に飛んでいた。
「私がそのようなことを望むはずがないだろう!二度とそんなことを言ってみろ、絶
交だからな。」
オスカルは真剣に眉根を吊り上げてアンドレを睨みつけていた。
「いててて。お前場所をわきまえろよ。人がいなかったからいいようなものを。ここ
は王宮の廊下だぞ。」
「お前が変なことをいうからだ!!」
オスカルは真剣に怒ってアンドレを睨みつけていた。
「例えばの話だろう。俺はお前のためならなんだってしてやろう、と言っているの
だ。」
「アン・・ドレ・・・。」
オスカルは眉を吊り上げて怒っていた表情をふと緩めた。
「私は、お前を辱めるようなことはさせない。お前が辱められたら、それは私自身を
も辱められたことになるのだから。」
「お前にそう言ってもらうだけで俺には十分だ。オスカル、どこかの貴婦人が俺のこ
とをモノ扱いしたとしても、お前が一々怒ることではない。お前が俺をそうして大切
に思ってくれるだけで俺は胸を張って生きていけるさ。それより、お前の耳に入れた
いことがあるんだ。マリー・アントワネット様のことだ。ここではまずい。」
「よし、馬車の中で聞こう。」
黄金色の髪の近衛士官とそれに影のように寄りそう黒髪の従者の姿は、上辺の華や
かさに隠れて見えないドロドロとした人間の腹黒さが渦巻く宮廷の中で、1枚の絵の
ような輝きに満ちている。そしてその2人を廊下の柱の影からみつめる瞳があった。
「あの黒い髪、黒い瞳・・・手に入れる・・・。」
そうつぶやく唇は食虫花のように生々しく動いていた。
A suivre