影 a l’ombre de Andre・・・
=13=
オスカルがマリー・アントワネット皇女の世話係に決まったノアイユ伯夫人と、婚
礼の段取りを話し合うため、ベルサイユに伺候したときだった。オスカルとアンドレ
がベルサイユの長い廊下を歩いていると向こうから、貴婦人たちが数人、賑々しく
やって来た。彼女たちの嬌声が廊下に響き渡り、粉白粉の匂いがだんだんと濃くなっ
ていく。オスカルは少しばかり眉をひそめた。国王が彼女の美貌を誉めそやかして以
来というもの、ベルサイユ中の貴族という貴族が、オスカルに注目しており、特に暇
を持て余して噂話に余念のない貴婦人たちは、次の王妃となるべく嫁いでくるオース
トリア皇女の護衛を勤める近衛士官の関心を引こうと、最近ではあれやこれやとオス
カルに言い寄るものもあった。オスカルは彼女たちが自分に寄せる媚態がうっとうし
くてならなかった。彼女たちは明らかに、自分の向こうにいる王太子妃の影をみてい
るのだ。今は肖像画でしか見たことのない、14歳の少女の姿を。オスカルはこの貴婦
人たちの集団につかまらないよう、一層足早に廊下を歩いていった。
だがやはり貴婦人たちはオスカルを見つけると、このまま通らせてなるものかとば
かりにあっという間に彼女を取り囲んだ。こうしたとき、アンドレは仕方なく壁際に
身を引いてじっとだまって貴婦人の呑気なおしゃべりが終わるのを待たなければなら
なかった。だが、今日はアンドレは貴婦人の群れの中にオランピア・ド・サライヴァ
侯爵夫人を見つけた。挨拶を交わすでもなく、初対面の者どうしのように無表情のま
ま一瞬見詰め合い、そのままアンドレはわずかに頭を垂れたまま、貴婦人の集団が去
るのをじっとまっていた。
貴婦人たちの一団からやっと解放されると、オスカルは大きく溜息をついてアンド
レと目を合わせた。
「やれやれ、やっと行ってくれた。」
「貴婦人方のお相手も近衛士官の役目だろう。」
「それはわかっていても、どうもまだ慣れぬな。あのように一斉に囲まれたのでは
な。」
「いやいや、なかなかの対応ぶりだったぞ。美しき近衛士官といった感じだ。」
「感じではなく、私はその近衛士官だ。」
二人は小さく笑い合った。
「それよりもオスカル、あの中にヴィルジニー・ド・ロンドゥネ公夫人がいたのに気
付いたか。」
「ああ、なんでも令嬢を王太子様の弟殿下に嫁がせようと画策しているという噂だ
が。」
「小耳に挟んだんだが、どうやら弟殿下を担ぎ出す輩がいるそうだ。そいつらとあの
夫人が繋がっていたとしたら、少々あの夫人の動向に気を配らねばならんな。」
「うむ。私も少し調べてみるが、アンドレ、ロンドゥネ公一家の動きで気がついたこ
とがあれば知らせてくれ。」
「わかった。」
頷くアンドレの顔をオスカルはまじまじと見詰めていた。
「なんだ、オスカル。」
「いや、我が幼馴染殿は、頼りになるなと思ってな。」
アンドレは笑いながら、ふざけるように軽く会釈をしながら答えた。
「おかげさまで、幼き頃より厳しい親友に鍛えられております故。」
「そうか、ではさらに鍛えてやろう。アンドレ、早く用事を済ませて、屋敷に戻る
ぞ。剣の稽古をつけてやろう。」
「やぶへびだ。」
二人は明るい声で笑い合いながら宮殿の廊下を歩いていった。
アンドレはある日、オスカルに付き合っての王宮での夜会でロンドゥネ公爵を見つ
け、その動きにずっと注目していた。ロンドゥネ公爵は人のよさそうな、到底政治に
向くタイプではなく、呑気そうに冗談を言っては周囲の貴婦人を笑わせていた。アン
ドレが公爵の様子をもっとよく見える場所に移ろうとしていたとき、予告もなく彼の
手をがっしりと握る者がいた。振りかえると、かなり年かさの貴婦人で、己の年齢を
悟られないように装ったのであろう無理な厚化粧と派手目のドレスが、余計に年齢を
感じさせていた。アンドレは顔見知りだろうかと思考を巡らせてみたが、彼の記憶に
はまったくひっかからなかった。
「いかがいたしましたか?マダム。」
アンドレはロンドゥネ公爵が見える位置に自分の身を置き換え、目の前の夫人に失礼
のないように向き直った。彼女が掴んだアンドレの腕はつかまれたままで、祖母にお
仕置きを受けるときのような格好だと、アンドレはどうにもばつが悪く、その腕を早
く解きたいと思った。このような姿を晒したくない。
「あの、マダム、わたくしに何かご用でしょうか?」
尋ねても答えが返らず、ただその女はにんまり笑いかけるだけだった。アンドレは困
り果てて、目の端ではくだんの公爵の姿を追いながら、夫人に口だけで微笑んだ。す
るとその夫人は強引にアンドレを廊下に引っ張っていった。
「マダム・・・あの・・・お手をお離しください。」
人気のないところに連れていかれたかと思うと、その夫人は急にアンドレに向き直り
「わたくしのものになりなさい。」
と言った。アンドレは何のことかわからず
「は?」
聞き返すしか術がなかった。
「わたくしの所有物になれば、あなたのその美しさにさらに磨きが掛かるわ。」
「マダム、恐れ入りますが、おっしゃっていることがわたくしにはわかりかねるので
すが・・・。」
「いい声だこと。それに平民とは思えない美しい発音、言葉遣い、身のこなし。ます
ますあなたがほしくなったわ。」
「あの・・・マダム?」
「わたくしはジョゼフィン・ド・ディラン伯爵夫人です。あなたはわたくしのところ
にくれば、今よりずっと幸せになれてよ。」
女がにんまりした笑みを相変わらずアンドレに向けているが、当のアンドレは夫人の
言葉に冷え冷えとしていく自分の心を感じていた。以前オスカルにアンドレを譲って
欲しいと迫った貴婦人の名前だった。アンドレは慇懃なまでに丁寧に腰を屈め、冷静
を装った。
「奥様、どなたかとお人違いなされたようでございます。わたくしはまだそのように
一人前に扱っていただくほどの人間ではございません。」
精一杯の嫌味だったが、彼女はそれに気付かず、アンドレにあっさりとかわされたこ
とで息消沈したのか、嫌味のある笑いをやめてアンドレをじっと見詰めた。その表情
はさきほどまでの生々しい表情と打って変わり、初恋の相手に冷たくされた少女のよ
うに寂しそうだった。その貴婦人はそのまま何も言わず、広間に派手なドレスを引き
ずるように戻っていった。
「参ったな・・・。」
アンドレはふぅっと大きく息をついて、改めて伯爵夫人の言葉を反芻した。
「所有物・・・ね・・・。」
貴族の奥様からみれは、所詮自分などは犬や猫・・・いや、もしかしたら彼女の首に
まとわりつくように光っていた宝石と同じなのかもしれないなと、アンドレは考えて
いた。ベルサイユでの生活の中で、今まで実感しなかった己の身分を身をもって感じ
るとともに、貴族社会の中における平民というものに対する意識を垣間見た思いだっ
た。アンドレの心の中に自分ではどうしようもない暗雲のような疑問が広がってい
く。身分とはいったい何なのだろう・・・、と。
それにしてもなぜあの夫人はあのように急に表情を変えたのだろうとアンドレは考
えながら、広間に戻ろうとしたそのときだった。
「くくくく・・・っ」
廊下の柱の影から押し殺すような笑いが聞こえ、アンドレは振りかえった。みるとオ
ランピア・ド・サライヴァ夫人が扇で笑い顔を半分隠しながら立っていた。
「サライヴァ夫人!」
アンドレは驚いて思わず彼女の名前を口走り、しまったとばかりにそのまま立ち去ろ
うとした。
「お待ちなさいな、アンドレ・グランディエ。」
サライヴァ侯夫人は楽しそうな鈴を転がすような声で彼を呼びとめた。アンドレは足
を止めゆっくりと夫人を振りかえった。アンドレがサライヴァ夫人に対して持つ感情
は、自分の初めての女性などといった感傷的なものはまったくなく、無理矢理に男女
の睦み事を交わさねばならない相手というだけだった。だがいつもベッドの中では悲
しい目をするこの女性が、今は虚飾のように着飾っているのが、余計にその人の寂し
い魂を浮き彫りにしているとアンドレは感じいていた。
「大丈夫、誰もいないわ。少しぐらいおしゃべりしてもいいでしょう。」
サライヴァ夫人はそういうと、去っていったディラン伯夫人の後を視線で追いながら
アンドレに近づいてきた。
「やっぱりね・・・思ったとおり・・・。」
サライヴァ夫人は含みのある言いかたをした。
「何が・・でございますか。」
アンドレは無用心に話しかける夫人に困惑しながらも、それを表情におくびにも出さ
ず、端から見れば貴婦人が戯れで近衛士官殿の従者に声をかけているように装ってい
た。
「あなたがベルサイユに出入りし始めたら、あなたを誘惑しようとする貴婦人がたく
さん出てくるとは思っていたけれど・・・くくく・・・その1号があのディラン夫人
だなんて・・・。」
「サライヴァ夫人・・・。」
「・・・・・でも・・・わたくしはあの方を笑う資格などないのだわ・・・。」
悪戯をする少女のような笑いを漏らしていた侯爵夫人が、急に瞳に影を落とし、寂し
そうに笑った。
「あのディラン夫人というのはね、お若い頃はあれでも美貌で宮廷を席捲した方なの
よ。ポンパドール夫人さえ現れなければ、もしかしたらあの方が国王陛下のご寵愛を
受けていたかもしれない・・・。」
サライヴァ夫人が語り出した、ディラン伯夫人の話はこうだった。
若い頃にその美貌をもてはやされた彼女は、年齢を重ねるのに伴い、自分の美貌と
若さが失われていくのにある時、心の均衡を失うほどだったという。彼女はあらゆる
美容法や医学にすがって、どうにか己の老いというものを取り除くように、あれやこ
れやと時には東方より伝来の妖しげな美容法まで手に染めていった。しかし、老いは
誰にも平等にやってくるもので、彼女の努力空しく、どんなに取り繕っても実際の老
いを防ぐことは出来なかった。それでも彼女は自分の美貌に縋り付いた。若く見られ
ることをこの上もなく喜びとし、生きがいとしていた。しかし美貌が誉められること
がなくなってからは、彼女は身分に関係なく若く美しい男性を側に侍らせることで、
人々の羨望と注目を浴びようとしていたのだ。同時に若い男たちと共にいることで、
己の年齢を忘れ去ろうとしているのだという。若い頃は美貌に、年老いてしまってか
らは自分の“所有物”にすがることしかできなかった女性。アンドレの心の暗雲はさ
らに色濃くなっていく。
(そんな生きかたしか出来ないのか・・・。なぜ・・・。)
そんなアンドレの心を見抜いたかのように、サライヴァ夫人は
「誰も彼も、自信に満ち溢れて生きることなんかできないのよ。特に女は・・・。」
と自分に語りかけるようにつぶやいた。
「あの人を悲しい女という人は多いでしょう。でも私はあの人を笑うことなんかでき
ない。私も、ディラン夫人と同じなのですもの。自分の存在価値を、リヒャルトに
とって都合のいい女でいることでしか示す事ができない愚かな女なのよ、私は・・
・。」
アンドレはサライヴァ夫人をあらためてまじまじと見詰めていた。
(女性はこんなにも悲しさを背負って生きているのか。華やかに着飾られたその心の
内には、みなそれぞれ、傷を抱えて生きている。)
サライヴァ夫人はうっすら悲しい微笑みを残り香と共に残してアンドレの前から立ち
去った。
(サライヴァ夫人も、そしてディラン夫人も、多分、今、広間で笑っている貴婦人の
ほとんどが、悲しみを隠して生きている・・・。オスカルだけには、あんな悲しい影
を背負わせない。)
アンドレは広間に戻りながら、貴婦人たちに囲まれて固い表情をしているオスカルを
見詰めた。
(貴婦人たちがオスカルに向ける憧憬の眼差し。オスカルはその眼差しが自分に向け
られたものではなく、まだ見ぬマリー・アントワネット様に対する畏敬のものだとい
うが、そうではないのだろう。彼女たちがオスカルに対して抱いているのは、自分の
能力を発揮できる場を与えられたことに対する憧れ。自分たちが一生得られないであ
ろう、自身の内なるところから発している輝きにこそ、彼女たちは憧れの眼差しを向
けるのではないだろうか・・・。)
アンドレは、一見すると華やかさを撒き散らしている数多の貴婦人達を見渡しなが
ら、これまで、オスカルと自分と、そしてそれに関わる人間の間だけで生きてきた中
では感じることがなかった人間の悲しさを垣間見ていた。多くの人間との関わりが、
彼を少しずつ少しずつ、大人に変えていこうとしている、アンドレ・グンディエ、1
5歳の春の宵だった。
A suivre
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