影   a l’ombre de Andre・・・

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 リヒャルト・アルクバインは目の前の少年から青年に移ろいでいる真っ只中の黒髪

の若者を不思議な気持ちで見詰めていた。

「マリー・アントワネット様が嫁いでこられて既に3年。そろそろお世継ぎの誕生の

噂が囁かれていますが、ご存知の通り、王太子殿下にはお体に欠陥がおありで、お世

継ぎ誕生は現段階では難しいようです。しかし、それにつけ込んで王太子殿下の弟殿

下を次のお世継ぎにと囁く者もいて、宮廷は今しばらくはこの問題が頭痛の種になり

そうです。」

「それで・・・妃殿下のほうは?」

アルクバインは自分の故国オーストリアから嫁いできた王太子妃がフランス宮廷の権

力争いに巻き込まれないよう、宮廷から離れたところから何かと気を配っていた。

「いやそれが・・・相変わらずおてんばで・・・。当の弟殿下とは特に仲がよくてい

らっしゃるのです。弟殿下たちはアントワネット様を姉のように慕っているというよ

りは、彼らの背後にいる大人たちに炊きつけられて親しくしようと努めているような

気配なのです。」

アルクバインがアンドレと出会ってから7年の月日が流れていた。その間、11歳の

少年が少しずつ“影”の任ということに目覚めていく様を側で見ていたアルクバイン

は、目の前の18歳のアンドレが出会った頃とまったく変わらないまっすぐな瞳でこ

ちらを見詰めているのを不可思議な思いでその理由を探っていた。

(何故、アンドレはこんなにもまっすぐな視線を向けることができるのだ。あの宮廷

での生活がこいつの心を捻じ曲げると思っていた私の予想は見事に覆されたのか?平

民で、女近衛士官の従者。それだけで好奇の目でみられるだろうに。しかも貴族たち

の横柄、媚び、権力争いなど見ていてへどが出そうになるドロドロとした世界にいな

がら何故?私がジャンヌに呼ばれて宮廷に上がったとき、私はすぐにあの世界になじ

んでしまった。なのにアンドレは何故いつまでもあのまっすぐな瞳をしていられるの

だ。)

喉の奥に遮蔽物が閉じ込められたような息苦しさがアルクバインを襲っていた。

「それで、お前の光は妃殿下をお守りできているのか?」

息苦しさから逃れるようにアルクバインは唐突にオスカルのことを話題に挙げた。

「オスカルですか?あいつは絶対王制の今の世の貴族にしては珍しいほど、あの年齢

では生意気と受け取れ兼ねないほど歯に衣きせぬものいいで・・・。」

アンドレはそこまでいうと、思い出し笑いのように小さく笑った。

「横で見ていて平民の俺のほうがはらはらするほどです。国王陛下や王太子殿下、妃

殿下に対して、敬意を表してはいるものの、正しいと思ったことしか口にしない。だ

が不思議なことに、それでも彼らの信頼を得ています。特にアントワネット様はオス

カルを信頼しきっているご様子ですし。俺の口からいうのも何ですが、アントワネッ

ト様はオスカルに対して、自分を警護する近衛士官に対する信頼以外に、何やら友情

めいた感情を抱いておいでだと感じております。オスカルも・・・アントワネット様

のあの素直なご性格を、宮廷の中では危ないと感じながらも、何よりの魅力だと思っ

ていると思います。二人の関係は、王太子妃とその護衛という以外にも、それぞれの

個人的感情での結びつきを感じられます。オスカルも妃殿下が宮廷のさまざまな陰謀

に巻きこまれないよう随分と気を配っているようです。」

アルクバインは、アンドレのまっすぐな視線が変わらないことの理由に対する答えを

またも失い、だまり込んでいた。

「とにかく、弟殿下とその背後、またオルレアン公爵家の動向にはまだ目が離せませ

ん。黒百合の連中の話ではパレ・ロワイヤル周辺でも今はそれほど表立った動きはみ

られないそうですが、パリの貴婦人たちのサロンに姿を変えて妖しげな会合が持たれ

ることもあるようですし。フランスとオーストリアが同盟を結んだところで、太平の

世には程遠いということでしょうか。」

「私のところに新しい情報が入ったら、また連絡をいれよう。」

「はい。今日はこれで失礼します。」

すっかり自分の身長を追い越してしまった長身の後姿を見送りながら、アルクバイン

はまだ喉の奥の遮蔽物を感じていた。

 

「まあ!オスカル様、ますます凛々しくおなりになって。」

「本当に、年を追う毎に輝くばかりですわ。」

王太子妃の午後のサロンで、アントワネットの警護についていたオスカルを貴婦人達

が喧しく噂する。そのオスカルの様子をアンドレもまた、離れたところから眩しい思

いで見つめていた。すっかり近衛隊の軍服姿が板につき、背筋を伸ばしてアントワ

ネットに寄りそう姿は、士官学校時代のあの孤独だったオスカルの姿とはだぶらな

い。国王の擁護、王太子妃の信任、そして貴婦人達を夢中にさせる夢のような氷の美

貌が宮廷でのオスカルの存在感を次第に大きくしていく。今もなお「女だから」とい

う蔑みを持つのは、男性貴族や軍人のほうが圧倒的だった。

「こんなところでご主人に見とれていていいの?」

オスカルを見詰めるアンドレの隣に、いきなり年嵩の貴婦人が座った。

「ディラン夫人・・・。」

かつてアンドレを自分のものにしたく、オスカルに譲れと詰め寄り、アンドレ自身に

も迫ったものの、望みが叶えられることがなかった哀しい貴婦人だった。彼女はそれ

以降も何度となくアンドレに近づいたが、どうもいつもアンドレのペースに巻きこま

れて、生々しい話はいつのまにか能天気な世間話に摩り替わっていくことが多く、夫

人はとうとうアンドレを自分の愛人にするという計画を諦めざるを得なかったのだ。

「み、みとれてなど・・・。」

夫人は冷めた顔でアンドレを見つめ、そしてフッと笑った。

「ジャルジェ大佐にしても、あなたにしても、宮廷に出入りするようになってからと

いうもの、浮いた噂一つ聞かないわ。ジャルジェ大佐にしても、普通の貴族の令嬢と

したら、いいお年頃なのに。あなたもよ。まさか女には興味がないとか?」

「な、なにをおっしゃるのです、いきなり。」

アンドレは半ばあきれたように笑ってかわした。

「だって、私の誘いからずっと逃げていたではないの。」

ディラン夫人は扇をゆったりと煽ぎながら遠くを見ながらつぶやいた。

「あなた、不思議な人だわ。あなたと話していると、なんだかとっても気持ちが晴れ

晴れするの。だから私はあなたに断わられても断わられても、あなたを自分のものに

したかったのに。いつもかわされておしまい。不思議ね、色事のかけひきに長けたよ

うには見えないけれど、かといって子供でもない。あなたは自分のその魅力をわかっ

て使っているの?」

ディラン夫人は相変わらず視線をアンドレに合わせることなく、扇を動かしながら尋

ねた。

「そのように評価していただけて光栄です、マダム。だが、わたくしはただオスカル

のために宮廷に出入りしております身ゆえ、自分がどう見られるかなどとは露さえも

考える暇がございません。」

アンドレは明るい笑顔を夫人に向けて答えた。夫人はその笑顔を見てふぅっと小さな

溜息を漏らした。

「その笑顔を向けられるとね、全てを許してしまうわ。あなたの味方をしてしまう。

宮廷内で何か困ったことがあったら、いらっしゃい。私のものになれなどとはもう言

わないから、純粋に、あなたのその笑顔に対するお礼のつもりで、私のもってる情報

を教えてあげるわ。あなたも唯の従者でないことは、この3年間あなたを見ていてわ

かっているわ。」

そう言うとディラン夫人は立ちあがった。

「マダム・・・。」

「あなたといると、若さや美しさや人々の羨望の声に縋り付く自分がどうでもよくな

るくらい、心が癒されるのよ。」

そう言い残してディラン夫人は去っていった。

「奥様、ほら、アンドレ・グランディエが」

「あの情熱的な黒い瞳と黒い髪。黄金色の髪のご主人に寄りそうようなあの姿は、女

心をそそりますこと。」

「あら、私は断然、オスカル様派ですわ。」

「でもオスカル様は女だわ。そういう趣味ではない私は、やはりあの黒髪に惹かれま

してよ。」

「そういう趣味じゃなくても、オスカル様は魅力的すぎますわ。私達が男性に求めて

止まないものを全て兼ね備えていらっしゃるのですもの。」

「グレース様はどちらがお好み?」

尋ねられた貴婦人は答えず、遠巻きにアンドレを見詰めていた。

「私が、あの黒髪の従者を落としたら、あなたが先日つけていらっしゃったあのダイ

ヤの腕輪を下さる?」

その貴婦人はアンドレを見詰めたまま、獲物のねらいをつけてにやりと笑った。貴婦

人たちの間に、好奇が含められた嬌声が沸きあがった。

 当のアンドレは、自分が貴婦人たちの話題の中心になっていることなど思いも寄ら

ず、ただひたすらオスカルを見詰めていた。

 

A suivre




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