影 a l’ombre de Andre・・・
=15=
グレース・ド・ラ・キエラは次なる獲物“アンドレ・グランディエ”の周辺を自分
の侍女に探らせていた。ベルサイユの宮廷貴族たちは、ルイ14世の時代から夫や妻
がある身でも、自由にラブ・アフェアを楽しむことが当たり前で、色事に長けたルイ
15世の治世になってから、恋愛が宮廷文化の一つに上げられるほど爛熟をむかえて
いた。また、色事を武器に出世を夢見る貴族や貴婦人も多く、心の伴わない愛人関係
を結ぶことも、男女問わず、何の疑問も持たれなかった。
「あの、アンドレ・グランディエさん。」
顔がそばかすだらけの垢抜けない顔をした誰かの侍女と思われる少女に呼びとめられ
て、アンドレは振りかえった。
「あの・・・わたしのご主人様があなたのお耳に入れたいことがあると申しておるの
ですが・・・。」
少女は顔を真っ赤にし、消え入りそうな口調でそう言った。アンドレの前を歩いてい
たオスカルも歩を止めて振りかえった。少女はますます体を硬直させた。当代随一と
いわれる美貌の近衛士官と、美丈夫と称えられるその従者を目の前にして、まともに
2人の姿を見えないほど緊張していた。美は時として人を普通でない精神状態に追い
こむ。
「アンドレ、どうした。」
オスカルが訝しげに尋ねるが、当のアンドレも不可思議そうに首をかしげる。彼らに
してみれば、いきなり見知らぬ侍女が声をかけたにすぎない。
「あなたのご主人の名は?」
アンドレが少女に近づいて尋ねると、少女は後ずさりしながら、さらに顔を紅くし
た。
「グ・・グレース・ド・ラ・キエラ男爵夫人でございます。」
オスカルもアンドレもまったく面識のない貴婦人の名前だった。2人は目を合わせて
不思議そうに顔を横に振った。
「急ぎの用ですか。今から主人のジャルジェ大尉について、王太子妃殿下のお部屋に
伺うところなのですが。」
アンドレが失礼にならないようそう言うと、その侍女は
「わ、わかりました。あの・・・失礼します。」
と言い残して走り去ってしまった。
「な、何なんだ、今のは。」
アンドレはあっけに取られてその侍女の後姿を見送った。
「おい、アンドレ、お安くないぞ。あの侍女は顔を真っ赤にしていたではないか。」
「お前を見て顔を赤らめていたんだろう?最近ではベルサイユ中の貴婦人がお前の噂
をしているというぞ。お前も罪なやつだ。」
からかうように言うアンドレを、オスカルは軽く睨みつけた。
「ふん、私は女だ。」
そういうなり早足で歩き出すオスカルの後姿を、アンドレは多少の苦笑を含めた笑顔
で追いかけた。
子供の頃は、自分のことを男だと思っていたオスカルが、今では「女だ。」と主張す
るところが妙におかしかった。しかし、彼女自身、自分を女であると認めるところか
らオスカルの闘いが始まったのだと思えば、アンドレは彼女の変化をこそ愛しく感じ
ていた。
「おーい、アンドレ、この娘さんがお前に用があるって。」
ジャルジェ家の裏口を通りかかったアンドレは、使用人の一人であるジャンに呼びと
められた。アンドレが裏口に出ると、先日王宮の廊下で自分を呼びとめたくだんのそ
ばかす顔の侍女が待っていた。
「やあ、君は・・・。」
侍女はペコンと頭を下げて、そしてまたも俯いてしまった。ジャンはそのまま自分の
仕事の続きに出かけてしまったため、その場に残されたその侍女はまたも顔を真っ赤
にしながら必死で口を開いた。
「あ、あの・・・あたしのご主人様のド・ラ・キエラの奥様があなたをお連れするよ
うにって。」
アンドレは困惑していた。王宮の廊下で呼びとめられたときも、そして今も、ド・ラ
・キエラ夫人と称する貴婦人に呼びつけられる理由がまったくわからなかった。
「申し訳ないが、俺はそのド・ラ・キエラ夫人とまったく面識もないのだが・・
・。」
アンドレは少女をおびえさせないように優しく答えた。
「でも・・・とにかく、あなたをお連れするように言われましたので。あなたをお連
れしなければあたしが叱られます。」
今度は少女は必死の形相で訴える。アンドレは見ず知らずの貴婦人からの誘いにどん
な意味があるのか思い巡らしながら、それでも目の前の少女の必死の様子を見てしま
うと、とりあえずはド・ラ・キエラ夫人に会わねばなるまいと覚悟を決めた。
「わかった。とにかくちょっと待っていてくれ。すぐ準備をするから。」
そう言い残してアンドレは少女の前から立ち去った。
そばかす顔の少女に連れられてアンドレはド・ラ・キエラ邸に来た。通された部屋
には、初めて見る、グレース・ド・ラ・キエラ夫人が緩やかな部屋着のままカウチに
足を投げ出して、微笑む姿があった。
「来たわね、アンドレ・グンディエ。」
警戒心のない夫人のいでたちに戸惑いを覚えたアンドレはあたりの気配をうかがっ
た。何かの罠か、それとも・・・。
「警戒することはないわ、アンドレ・グランディエ。私はあなたのお役に立つ情報を
提供しようと思っただけなのですから。」
夫人はカウチから足を下ろしてゆっくりと立ちあがり、アンドレに近づきながら言っ
た。
「あなた、最近の弟殿下の周辺をどうご覧になって?」
アンドレはひやっとした。自分が情報を集めていたのを感づかれたか、やはり誰かの
差し金か。いろいろな考えが頭を一気に駆け巡った。
「私、あなたのお役に立ててよ。」
ド・ラ・キエラ夫人はアンドレの肩に手を回して妖しげに笑った。
「ふふふ・・・・・。」
オスカルはざらついた己の感情を鎮めるために、自宅の裏庭にある池のほとりに来
ていた。不安になったり、気持ちが不安定になったときはきまってこの池のほとりを
歩く。昼下がりから姿を見せなかったアンドレが気になり、使用人たちに尋ねたとこ
ろ、ジャンからどこかの侍女がアンドレを誘いにきたと聞き、それ以降彼の姿が見え
なくなったのはその侍女と出かけたとだと、それがずっと頭から離れなかった。今も
姿を見せないアンドレに訳のわからないいらつきを覚えていた。
「アンドレのバカ野郎。どこに行ったんだ。」
オスカルが思わず大きな声で独り言を言った。
「・・・オスカル・・・。」
一人だと思っていたが、暗闇の中から自分の名が聞こえたため、オスカルは小さく飛
びあがって驚いた。
「だ、誰だ!」
「俺だ。」
アンドレが木の影から姿を見せた。
「アンドレ・・・。」
オスカルは心のどこかでほっとしたものを感じながらも、それでも今まで姿を消して
いた彼に対する猜疑心が彼女の心を占領していった。
「お前、どこに消えていた。ジャンからお前がどこかの侍女と出かけたと聞いた
が。」
オスカルは本当のことを聞きたい半面、それが怖いと思う気持ちに苛まれ、声がうわ
ずっていた。
「ああ、ほら、この前王宮の廊下で俺を呼びとめた侍女がいただろう?」
「ド・ラ・キエラ男爵夫人とやらの侍女か?」
「ああ、その男爵夫人がどうしても耳に入れたいことがあるとかで、今日は例の侍女
がジャルジェ家に直接俺を訪ねてきたんだ。」
オスカルはどこかでほっとする己の内心に驚きながらも、それでも尚もこんな時間ま
で姿を消していた理由を追及したかった。
「それで?」
アンドレの表情はいつもと何も変わらない。
「それが、いささか話が複雑なんだが、かいつまんで話すとだな、男爵夫人が親しく
している、つまり愛人なんだが、ある貴族が、実は弟殿下に王位継承権を継承させよ
うとしているメンバーの一人らしいのだ。ところがその愛人殿が男爵夫人に別れ話を
持ち込んだため、彼女は報復として、これまで寝物語で聞いていた弟殿下を担ぎ出す
輩の話を、王太子妃の警護に当たる近衛士官の耳に入れようとしたらしいのだ。」
「ならば私に直接言えばいいではないか。」
オスカルは眉間に小さな皺を寄せて詰め寄った。それは子供の頃から変わらない彼女
の不満の表情であった。
「表立った動きを取れば、男爵夫人とて何をされるかわからない。だからお前の従者
である俺の耳に入れたかったいうのだ。」
アンドレは静かに言ったが、オスカルの眉間の皺は尚も消えていなかった。
「それで、何かつかめたのか?」
「いや、これといっては。俺がこれまで集めた情報とほとんど変わらなかったな。」
「それでは無駄骨だったというわけか。」
オスカルは少し溜息をつきながら言うとともに、アンドレの姿がなかったがため苛立
たしさは時間の無駄だったかといささか拍子抜けした気持ちだった。
「今日のところはな。だが・・・。」
しかしアンドレの含みのある言いかたが又もオスカルを過敏に反応させていた。
「なんだ。」
「これは別のところから聞いた話なんだが、まだ確かな情報かどうか確認していない
ので、お前の耳に入れるべきかどうか迷ったんだが・・。」
「何だ?」
「実は・・・弟殿下派が出方を変えようとしているようなんだ。」
「どういうことだ?」
「つまり・・・国王陛下が重視していらっしゃるのは、フランス・オーストリアの2
国同盟だ。その同盟は、アントワネット様がお世継ぎをお生みになって初めて完璧な
ものになる。ところが、王太子殿下はお子様を作れないお体で、今しばらくはお世継
ぎが生まれないとみた弟殿下派が、弟殿下とアントワネット様の間に子供を作らせよ
うとしているとの話なのだ。」
「何だとッ!」
「そうすれば王太子殿下は必然的に王位継承者として失格、弟殿下に継承権が回って
くるという話だ。」
「誰がそんな馬鹿げた計画を。アントワネット様は子を産むだけの道具かっ!!」
オスカルは声を荒立てた。
「落ちつけ、オスカル。」
「落ち着けだとっ。こんな人を馬鹿にした話があるか。妃殿下は既に王太子殿下とご
夫婦なのだぞ。それを・・・。」
「だからまだ確認した話ではないと言っているだろう。」
「早く確認しろ、アンドレ。ことと次第によっては、オーストリア大使を交えて早急
に手を打つ策を講じておかねばならない。」
「わかっている。」
静かな声で答えるアンドレに、オスカルは我に返ったように訪ねた。
「ところで、お前、何故ここにいたのだ。」
アンドレは一瞬答えに窮したように見えたが、すぐに空を見詰めて言った。
「いや・・・ちょっと気分転換だ。」
グレース・ド・ラ・キエラ男爵夫人は、彼女のサロンで貴婦人たちに取り巻かれて
微笑んでいた。
「それで?どうなさったの、男爵夫人。」
一人の取り巻きが訪ねると、男爵夫人は勝者のような笑みを勿体つけたように扇で隠
した。
「まあ!!これは只ならぬ表情だわ。」
貴婦人たちの間から嬌声が上がった。
「さあ、白状なさい、男爵夫人。」
「そうよ、わたくしのダイヤのブレスレットがかかっているのですから、早くおっ
しゃって!!」
夫人達が矢継ぎ早に訪ねると、男爵夫人はますます口を閉ざして、ただ小さく笑うの
みだった。
「うふふふふ・・・・・・。」
A suivre