影 a l’ombre de Andre・・・
=16=
グレース・ド・ラ・キエラ夫人はただ意味ありげに微笑むだけだった。
「まあ!その表情は、さては・・・。」
貴婦人達の嬌声はますます興奮の色を帯びてくる。ド・ラ・キエラ夫人は取り巻きを
見渡して微笑んだ。
「さあ・・・。何かあったかもしれないし、或いは何も無かったかもしれない・・
・。」
意味深な夫人の言葉に貴婦人たちはますます色めき立った。その声を置き去りに、男
爵夫人は一人その場から身を離し、過ぎてしまった時間を追いかけるように窓際に
立って庭を見詰めた。取り巻きの貴婦人たちは何やらまことしやかに囁きあってい
る。男爵夫人は窓に映る彼女達の様子を見ながら夢見ごこちで思い出していた。
(あの人達には想像つかないでしょうね。私とあの黒髪の若者がともにすごした時間
のことなど・・・。)
男爵夫人の腕がアンドレの首にまとわりつく。彼女は顎をあげて口と目を半開きに
してアンドレを挑発していた。濡れたように紅をさした唇は何かを囁きかけて・・・
やめた。その表情は世の中の男が全て自分の思い通りになるという欺瞞に満ちてい
る。少し強めのジャスミンの香りがアンドレを幻惑させ、体を蔦のように絡まりなが
ら自由を奪おうとしていく。普通の男なら、その状況だけで何も言わず、女の胸元に
顔をうずめるのだろうが、アンドレは誘う女の媚態を平静な目で見ていた。
「マダム、ご挨拶もそこそこに、こういう状況に男を追いこむのは、切羽詰った理由
がおありと思いますが。」
興ざめするほど冷静なアンドレの声に、ド・ラ・キエラ男爵夫人は、官能的な表情か
ら少しばかり怒りを含んだ拗ねたような顔になり、そしてアンドレの首に回していた
腕を放した。
「つまらない男だこと。男女の色事に理由が必要なの?」
男爵夫人は少しやぶにらみ気味の視線をアンドレに投げかけた。だがその視線は、無
表情に目の前に立つ長身の若者には何の効果も与えなかった。夫人は手で自分の髪を
撫でつけながら、眉を少しあげて今度は冷ややかにアンドレを見た。
「言ったでしょう、あなたのお役に立てる情報があるって。」
アンドレは視線だけを男爵夫人に向けた。
「わたしの役に立つ情報・・とは。」
「正しくは、あなたのご主人、オスカル・フランソワ様のお役に立つ情報、といった
ほうがいいかしら。」
夫人は胸元のリボンを片手でもてあそびながらまたも勝ち誇ったような笑いを浮かべ
た。彼女は自分が提供しようとする情報にアンドレが必ず食いつくと自信を持ってい
たのだ。だが、アンドレは慎重に行動していた。いつ罠をかけられるかわからない世
界、ましてやオスカルの名が出たからには、下手なことができない。この状況が示す
真意を探るべく、目の前の媚態を振りまく貴婦人がまずは何者であるのかを確かめる
必要があった。アンドレは彼女との距離を縮めながら、何故その情報を提供しようと
するのかを導き出そうと試みる。
「恐れながら、あなたがオスカルの役に立てるとは思えません。王太子妃付き近衛士
官であるあいつに近づきたいのなら、わたくしを使うのは筋違いかと存じます。」
アンドレはわざと男爵夫人の勝ち誇ったようなプライドを落としめす言葉を投げかけ
た。虚構で飾った人間の素顔を見るには、相手を感情的にするのが一番手っ取り早い
方法だったからだ。案の定、男爵夫人は薄ら笑いを引っ込め、怒りの表情に変えてア
ンドレに近づき、手をあげた。
「わたくしを誰だと思っているの。侮辱すると許しませんよ!!」
アンドレは上げられた男爵夫人の手をがっしりとつかんで彼女の怒りの表情を見詰め
た。
「私が王太子妃殿下に近づきたいが為にこのようなことをやっていると思っているの
!!冗談じゃないわ。」
夫人ははき捨てるように言って、つかまれていた手を振り切った。
「あなた、何様のつもり。平民のくせに私を侮辱すると許しませんよ。」
「侮辱はしておりません。あなた様の真意がつかめないだけでございます。お気に
障ったのなら、わたくしはこれで失礼させていただきます。このことは口外はいたし
ませぬ故、ご安心を。」
アンドレが軽くおじぎをして部屋を出て行こうとしたとき、彼の背後から呼びとめる
声があった。
「お待ちなさい。私もこのまま誇りを汚されたままでは口惜しい。話してあげるわ、
本当の目的を。」
男爵夫人はゆっくりアンドレに近づいた。
「わたくしの愛人である、さる方が王太子殿下の弟殿下を王位継承者に擁立しようと
画策しているのよ。」
夫人の言葉にアンドレはさらに緊張した。自分とオスカルが探っている弟殿下擁立の
話だったがために、無用心に食いつくわけにはいかなかった。極力、冷静を装い、夫
人の次の言葉を待った。
「彼はね、弟殿下を擁立しようとしているほかの貴族たちの名前を、寝物語に私は聞
かされたの。王太子妃殿下の警護に当たるオスカル様には欲しい情報でしょう?」
「でも、なぜその情報を、あなたが・・・。」
アンドレのいいかけた言葉を遮るように、男爵夫人はくるりと背中を向けて窓際に身
を寄せた。
「その愛人が、最近になって私に若い貴族の子弟を紹介したのよ。ええ、自分の代わ
りにその若い貴族のお坊ちゃんを私の愛人に、とね。呈の良い別れ話よ。別れたいな
ら別れたいで、きっぱりとそういえば、私も宮廷貴族、彼が寝物語で聞かせた話の内
容など他言しないのに、自分は用なしになった私に見張りをつけるように若い男をあ
てがおうとした、そのやり方が私のプライドをズタズタにしたわ。私は表向きは言わ
れるがままに、その見張り役の青年を愛人にしたけれど、彼らに復讐したかった。だ
から、オスカル様に私の知っている弟殿下擁立の貴族の名前をお知らせしようとした
までのことよ。」
アンドレは目の前の女性を哀しい思いで見つめていた。
「あなたは、その方を愛しておいでではなかったのですか・・・。」
夫人はアンドレの言葉に目を見開いて笑い出した。
「愛ですって?!私達貴族にとって恋愛はゲームの一つ。私は負けを装いながらも、
彼に勝ちたい。ただそれだけよ。」
アンドレは溜息をついた。愛をゲームにすりかえてしまう貴族たちを彼は哀れんでい
た。
「それで・・・あなたのそのゲームにわたくしが協力するための代償は?」
アンドレが夫人に尋ねると、夫人は再び勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あなた自身。」
「マダム・・・。」
「彼への復讐の気持ちと同時に、貴婦人たちの間で噂されているオスカル様の黒髪の
従者を手に入れることが、私の恋の名声を上げてくれるわ。」
「それもゲームの一つですか?」
「当たり前でしょう?私が本気で、平民のあなたを相手にすると思っているの?」
冷たく投げられた言葉に反応するように、アンドレは残酷な気持ちが自分の中に広
がっていくのを自覚していた。だが今はその残酷な気持ちを自制する気にはなれな
い。貴族の傲慢さ、愚かさに吐き気を覚えながらも、それを征服することで身分をか
さにくる愚かな人間に、僅かながらのプライドを見せつけたい衝動にかられた。アン
ドレは長椅子に身を投げたしている男爵夫人に近づく。近づく気配に彼女がアンドレ
を見上げたその瞬間に、アンドレは男爵夫人の手首をつかんで彼女の体の自由を奪
い、彼女の体を押さえつけた。
「あ、あなた・・・。」
突然の出来事に、男爵夫人の顔が一瞬、恐怖でこわばった。しかし自分の上に圧し掛
かってくる若者の体の重みを感じて、彼女はやがて歓喜の声を上げていた。
オスカルは不安になっていた。久々に早くに帰宅したというのに、一緒に遠乗りに
出かけようと思っていたアンドレの姿が見えない。
「おい、だれかアンドレを見なかったか?」
使用人たちに尋ねても、誰も首を横に振るばかり。
「そういや・・・。」
ジャンが思い出したように口を開いた。
「どこかの家の侍女がアンドレを訪ねてきましたけど・・・。俺は用事があったん
で、その後どうしたかはしりやせんが・・・。」
その言葉を聞くとオスカルはカッとなって自室に駆け戻った。自分が呼べば、いつも
そこにいてくれる幼馴染が行き先も告げずに姿を消したことに、彼女は訳も無くいら
ついた。
「アンドレ・・・、どこに行ったのだ。」
茜色の光が部屋の中に差し込んでいた。アンドレはジレのボタンを嵌めながら、冷
え冷えとした心の中に、オスカルに対する背徳の罪を感じていた。胸が訳もなく痛
かった。
(この痛みは・・・いったい何なのだ。)
アンドレは、自分の存在を消したいほど酷くおち込んでいた。
一方、女はまだ夢見心地の世界をさまよっていた。身繕いをするしなやかな肉体の
若者の姿にあらためて見惚れながら深く息をついた。嵐のように自分の体を征服した
この若者に、女はある種の驚嘆を抱かずにはいられない。今まで彼女の上を通りすぎ
ていった数々の逢瀬とは違う高まりを感じたことに彼女自身が驚きと深い感動を持っ
て若者の姿を見詰めていた。そして肌もあらわな姿のまま、女は若者に未だ消えやら
ぬ官能の視線を投げかけた。
「もう行くの?今夜は泊まっていらっしゃいな。」
女の媚態を含んだ声に、アンドレは無感動な視線を向けた。その視線を向けられた女
はプライドを傷つけられた気がした。
「べ、べつに引き止めるわけじゃないわ。」
女は頬を赤らめ、ぷいと横を向きながら慌てたように言い訳した。男爵夫人という肩
書きのその女が、途端に少女のような弱々しい存在にアンドレには見えた。肌を合わ
せて感じることもある。
(この人は、知らず知らずに自分を傷つけているのか・・・。そしてその傷を誰かに
癒してもらいたがっている・・・。俺と同じように、この人の心も痛みに悲鳴を上げ
ているのだろうか・・・。)
アンドレが、自分の胸の痛みと背徳の思いの先にある真実を、男爵夫人の中に探そう
とじっと見詰めると、その視線を誤解した男爵夫人は、途端に高飛車な口調になっ
た。
「約束通り、弟殿下擁立派の名前を書きとめたものを持ってお行きなさい。そのテー
ブルの上に置いてある、本の間に挟んだ封筒の中に入っているわ。」
アンドレは躊躇いながら静かにテーブルに近づいた。そして置かれている本に手をか
けて、動きを止めた。
「どうしたの?その本の中にあるはずよ。持っていきなさいよ。」
女が投げやりな言い方をする。アンドレは躊躇するように本から手を離し、そして男
爵夫人に振りかえりながら目を伏せた。
「これは、頂くわけには参りません、マダム。」
「何故?!あなたはそのために私と・・・」
男爵夫人はわずかに声を荒げて尋ねた。
「最初は、そのつもりでした。私にとって、この名簿は喉から手が出るほどほしいも
のです。」
アンドレが本を見詰めながら答えた。
「だったら何故?!」
「確かにあなたとわたくしの間には何の感情もありません。しかし、男女の交わりを
ゲームとは考えたくないのです。」
「何を青臭いことを・・・。」
「確かにそうかもしれません。最初は、身分のない私を蔑むあなたの体を征服するこ
とで、自分の存在を示したかった。だが、それがどれほど無意味なことであるか、
今、わかりました。例え感情が存在しなかったとはいえ、一人の女性とともに過ごし
た時間はわたくしにとって現実です。そしてそれを大切にしたいと思います。何故な
ら、それがわたくしの男としてのプライドだからです。男は、女性を道具にしてはい
けない、男は、女性を玩んではいけない、男は、女性を蔑んではいけないと思うから
です。あなたの恋人のように、自分の都合で女性を左から右に動かそうとする男ばか
りではない。あなたは、恋に憧れながらも、色事に手馴れた風を装っている。だが、
本当にそれを望んでいるのでしょうか・・・。わたくしにはそうは思えないので
す。」
男爵夫人は何も言わずじっとアンドレを見詰めた。
「こんな青臭いことをいう男が、一人くらいいてもいいではありませんか。」
そういうと、それまでの無感動に凍り付いていた表情が、彼本来の柔らかさを取り戻
した。
「それに・・・あなたは、わたくし自身の姿なのかもしれないのですから・・・。」
「え?」
「マダム、どうか・・・自分をご自身で傷つけることはおやめ下さい。」
そういうと、挨拶の言葉を置き土産にアンドレはその場を立ち去った。残された男爵
夫人は遠ざかる足音を聞きながら、堰を切ったように溢れる涙を押さえることができ
ないでいた。
A suivre