影   a l’ombre de Andre・・・

=17= 

 薄闇の中、アンドレの黒い瞳が伏し目がちになったことに、オスカルの心のざわつ

きが一層激しくなった。探していたアンドレの姿を見つけても、こんな目をされたの

ではオスカルの不安をさらに深めるだけだった。ド・ラ・キエラ男爵邸に行っていた

ことを聞いても、何故遅くなったのか、何故こんな時間に裏庭の池のほとりにいる

か、オスカルの頭の中をいろいろな想像が駆け巡る。本当のところを尋ねたい言葉を

心の中で封をし、彼女はくちびるを噛んだ。

「お前は、まだここにいるのか?」

オスカルはやっとの思いで尋ねた。

「ああ、まだ少し、夜風に当たっていたい。」

アンドレの顔にかかる黒い髪の端が夜風に揺れている。

「・・・そうか、だが長居はするな。風邪をひくぞ。」

「お前は?」

「私は、すこし池のほとりを歩いてから部屋に戻る。」

「ん・・・。」

「おやすみ、アンドレ。」

「おやすみ、オスカル。」

2人の間にわずかながらの気持ちのわだかまりを残して、アンドレはその場に残り、

オスカルは後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。オスカルはもっとアンドレ

と話をしていたかったが、今日はアンドレの様子が素っ気無い風で、どこか近寄りが

たい雰囲気が彼女との距離を広げていた。

 

 アンドレの視線は、空を見上げたり池の水面に視線を落としたりしながら池のほと

りをゆったりと歩くオスカルの姿を追っていた。知らず知らずのうちに、彼の頬は涙

の筋が流れていた。

「オスカル・・・愛している・・。」

慟哭ともいえる嗚咽の下から無意識に出た言葉・・・。その言葉を発した本人がそれ

に驚いた。

「愛している・・・だって?、俺がオスカルをか?」

静かに問いかける己に対する答えは彷徨を繰り返し、答えを紡ぎ出すのを躊躇ってい

た。しかし一度流れ出た感情は堰きとめることが出来ず、訳もなく涙が頬を伝わる。

アンドレは星さえも出ていない夜空を映す池の黒い水面に、無意識のうちに押し殺し

ていた自分の内なる感情を映し出してしまったのだ。

 アンドレが心を通わせない女を抱くことはこれまでにも何度もあった。自分がどう

なろうとかまわない、すべてオスカルのためだと言い聞かせながら、軍人のオスカル

に役立つ情報を入手するため、貴婦人やその侍女たちと体を重ねた。アルクバインに

言われた通りに。だがその度に説明のつかない何か重苦しいものが彼の心に圧し掛か

るのを感じていた。喉の奥を誰かに閉めつけられるような。いくら心に仮面を付けた

ままで不本意な関係をもったとしても、女たちの匂いが体に染み込んでいくようで、

その匂いを風に晒して消すために、いつもこの池のほとりでアンドレは一人その心の

重しに耐えていたのだった。

 だが今日は、何かが違っていた。ド・ラ・キエラ男爵夫人との出来事も、いつもの

心を伴わない逢瀬。ただそれだけのはずだったのだが・・・。男たちに傷つけられた

一方で別の男に虚勢を張る男爵夫人に、アンドレは自分自身を映し出してしまったの

だった。

「恋はゲーム」

と割り切りながら、いろいろな男たちとの関係をもつ男爵夫人の、恋人によって与え

られた心の小さな傷は、手当てをしないまま化膿して、今は血が吹き出ている。その

傷に自分が塩を刷り込むようなことはできないとアンドレは思った。彼も同じなのだ

から。アルクバインに言われたからとはいえ、何の感情も伴わない体の繋がりを繰り

返す自分に対する嫌悪感さえも無理矢理押しこめて、知らず知らずのうちに自分で傷

つけていた。

「俺の心も・・・知らない間に血がにじみ出ていたのか・・・。」

人の心の底に潜む小さな傷は、その人の本当に欲している物でしか癒されない。彼の

傷はもう血が噴き出す寸前まできていた。そしてその傷がオスカルに癒されるのを

待っていた。アンドレはオスカルを求めていた。オスカルのあの清冽な心を、あの激

しい情熱を。他に何もほしいものがないと言い切れるほど欲するものが彼のすぐ目の

前にあった。しかしそれは届きそうで、永遠に届くことのない癒しの手なのだ。それ

が解っていても求めることをやめられない。アンドレは涙でぼんやりとしか見えなく

なったオスカルの姿を尚も追い続けた。月が雲から顔をのぞかせ、薄い光を地上に届

けている。その月を仰いで、アンドレはあふれ出て止まらない涙を止めようと試みた

が、月の青白い光が何故か物悲しさを誘い出し、アンドレの心の傷をその光のもとに

さらけ出して、さらに涙を流させた。その涙の熱さが徐々に彼の心の傷を浄化しよう

としていた。

―お前のためなら、なんでもしてやるさ。―

これまでアンドレは何度もオスカルにそう言ってきた。しかしその言葉は、オスカル

にではなく、彼自身に言い聞かせるために言っていたのだと気付いた。

「なんと押しつけがましいことを・・・。」

アンドレは自己嫌悪に陥った。「なんでもしてやる」と言葉にして伝えることは自己

顕示欲と見返りを求める卑しい心の裏返しだとアンドレは思った。

「俺はお前を求めている。お前も俺を求めてくれるかどうかはわからない。だが、俺

はお前を求めることをやめることは出来ないだろう。理由などない。俺のこの心はい

つも、お前を追いつづけてきたのだから。出会った、あの瞬間から。」

心の底に密かに息づいてきた思いは、一度溢れ出したらとどまることを知らない。

「ムッシュウ・アルクバインに教え込まれた“影”としての任など、俺には必要がな

い。俺は、この自分の気持ち一つで、俺の素っ裸の心のまま、お前に添おう。それが

何も持たない俺がお前に示すことの出来る、唯一示す事が出来る真実なのだから。・

・・俺の・・本当の影としての新たな人生が始まるのだ・・・。」

風が木々の間を通りぬけた。木の葉の擦れ合う音が響き、水面を乱した。しかしアン

ドレの心はもう乱れていない。彼は遠ざかる金色の髪を見ながら、自覚したばかりの

胸の痛みを、甘美を伴いつつしっかりと体中に刻み込んでいた。

 

 王太子妃、マリー・アントワネットがフランスに嫁いで来て3年が過ぎていたが、

その間、国王ルイ15世の愛妾、デュ・バリー夫人は未だアントワネットから声をか

けてもらっていなかった。今日も王宮の庭園で開催されている午後のサロンで、王太

子妃は完全にデュ・バリー夫人を無視していた。

 そんな王太子妃と国王の愛妾の確執をよそに、ベルサイユの庭園は輝くような緑に

色とりどりの花々の美しいコントラストを披露している。王太子妃から無視されてほ

ぞを噛むような表情のデュ・バリー夫人を、木陰のベンチに座って嘲笑するような笑

みを浮かべて見詰める貴婦人がいた。その貴婦人、ディラン夫人に、ド・ラ・キエラ

男爵夫人が近づき、何気なく隣に腰を下ろした。相変わらず厚化粧をしたディラン夫

人は浮かべていた嘲笑を引っ込め、ちらりと男爵夫人に視線をやった。

「国王の寵姫といえども、一介の娼婦が思いあがったなれの果ての姿ね。」

ディラン婦人は冷ややかにそう言った。ド・ラ・キエラ男爵夫人は、顎を少し持ち上

げ遠巻きにデュ・バリー夫人を蔑むような視線で見た。

「あなたにお願いがありますの・・・」

と、男爵夫人胸元から小さな封書を取り出し、ディラン夫人の前に差し出した。

「これを、アンドレ・グランディエに渡してくださらない?」

ディラン夫人は、ちらりとその封書と男爵夫人の顔を見比べた。

「ディラン夫人、あなたが彼を追い掛け回していたのは皆も承知していてよ。かつて

美貌で宮廷を席捲した貴婦人が、あのオスカル様の従者を追いかけていたら、嫌がお

うでも目に付くわ。」

男爵夫人はずっとディラン夫人と視線を合わせることなく、遠くのデュ・バリー夫人

に視線を向けたままだ。ディラン夫人は小さく自嘲気味に笑った。

「私が何故、彼を自分のものにしたかったか、あなた方にはお解りにならないでしょ

うね。」

ディラン夫人の視線はデュ・バリー夫人を通り越して、忘却の彼方を見詰めるように

遠くに送られた。

「昔・・・そう、ポンパドール夫人がご存命だった頃、私は彼女に影のように寄りそ

う黒髪の異邦人に恋をしたことがあったわ。」

男爵夫人から差し出された封書をディラン夫人はだまって受け取りながらも、昔語り

をやめようとしなかった。

「彼は神秘的で謎めいていて、でも決して他人に迎合しない冷ややかな目をしてい

た。まだ若かった私は、その非現実的な空気を醸し出す彼に夢中になった。どうにか

彼を自分のものにしようとしたけれど、彼は決して誰にも心を開かなかったわ。そ

う、ポンパドール夫人以外には。最初、アンドレ・グランティエを見たとき、昔の夢

が蘇った。あの美しい黒い髪と瞳が、昔のあの恋を思い出させた。欲しいと思った

わ。今度こそ手に入れたいと。」

ディラン夫人は独り言のように続けながら、ふふふと小さく笑った。

「でもね、彼は、昔私を夢中にしたあの異邦人とはまったく違っていたのよ。あな

た、間近で彼の笑顔を見たことがあって?」

その問いに男爵夫人も小さく口の端を上げるだけだった。ディラン夫人は深く溜息を

ついた。

「時に神は、一人の人間にあのような力をお授けになるのだわ。彼自身も気付いてい

ないようだけれど。いるだけで人を癒すという力。静かで、目立たないけれど、それ

はものすごく大きな力。あの黒い瞳からこぼれ出すような優しさ、そしてその奥に燃

える情熱。その輝きが私の心を癒す。私の憧れた、あの冷たい黒い瞳とはまったく対

極にある、人の肌の温かさを感じさせるあの瞳。あの瞳を見ると、私は安心して、た

だ隣にいるだけでいいと思えてしまう・・・。」

「1週間前の私だったら、その話を笑い話としてしか受け取らなかったでしょう

ね。」

男爵夫人が、まるで天気の話をするようにさらりと答えたその言葉の奥にある意味を

探ろうと、ディラン夫人が視線を男爵夫人に向けた。だが、男爵夫人は相変わらず視

線を外したままにうっすらと笑った。

「私も、彼のその力を見たわ。」

ディラン夫人が微笑み、再び視線を遠くにいる王太子妃と、その警護に当たるオスカ

ルに向けた。二人は溜息とも思えるような“ほう”とした吐息を吐きながらそのオス

カルの後方に控える黒髪を見詰めた。

「まったく、なんという組み合わせなんでしょう。ほとんど奇跡をみるように、私は

驚嘆せずにはいられない。」

「黄金色の髪に奇跡のような美貌の近衛士官、そしてそれに寄りそう黒髪の従者。」

「外見はもとより、鋭くて豪奢な空気を纏うオスカル様に、柔らかくしなやかな存在

感を示すアンドレ。正反対に見えても、お互いがお互いの長所をより際立たせ、短所

を補い合う。何もかもが完璧なる一対を思わせるわ。」

二人は何か別世界のものをみるようにうっとりとした表情を浮かべていた。

「これ・・・は?」

ディラン夫人が手にした封書をまじまじと見詰めた。

「アンドレ・グランディエと彼のご主人に役立つもの、とだけ申しておきましょ

う。」

「どうしてご自分でお渡しにならないの?」

ディラン夫人の問いかけに、男爵夫人はゆっくりと視線を向けた。

「表立った行動がとれない事情がわたしにはあるの。」

その一言でディラン夫人は全てを理解したかのように視線を落とした。

「間違いなく、彼に渡しましょう。」

ディラン夫人が封書を胸元にしまい込むのを確認したド・ラ・キエラ夫人は立ちあが

りながら言った。

「一言だけ、彼に伝えていただけて?・・・ありがとう・・と。」

そう言い残して男爵夫人はその場を去った。

 

「これ・・は?」

ディラン夫人から差し出された一通の封書を前に、アンドレはとまどうような表情を

見せた。

「あなたとオスカル様に役立つものだそうよ。」

「どなたがこれを?」

「余計なことは尋ねないほうが皆のため・・ね。」

ディラン夫人は無理矢理アンドレの手に封書を押しつけた。

「その封書を私に託した方からのあなたへの伝言。『ありがとう』」

アンドレは一瞬困惑したものの、すぐに微笑みを浮かべて目を伏せた。その笑みに満

足したように、ディラン夫人は身を翻してその場を立ち去った。

 封書の中身は弟殿下を擁立しようとする貴族の名前が書き連ねられていた。その信

憑性がどれほどのものかはアンドレにもわからなかった。だが、この名簿を渡してく

れたのはド・ラ・キエラ夫人であることは間違いがなく、その心にアンドレは感謝し

た。この名簿にあがる名前の貴族を調べる膨大で、緻密な仕事がまた始まる。だが、

これまで彼の心の奥底に無意識に燻っていた影としての任に対する一縷の翳りは跡形

もなく消え去っていた。

「俺は決めた。金輪際、好きでもない女性と関係を持たない。影としての任に、そん

なものが必要がないと、やっと解った。俺は俺の心に素直にオスカルの影に徹する。

ムッシュウ・アルクバインと俺は違うのだから。」

影として歩くアンドレの人生に、いくつかの転機があった。だが、今、等身大の彼自

身を光であるオスカルに投影させようとアンドレは新たな決心を固めていた。

 

 

A suivre

 

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