影 a l’ombre de Andre・・・
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オスカルは苛ついていた。その理由が自分でもわからないまま、気持ちを持て余し
気味に一人で剣の稽古に打ち込んでいた。
「どうした、オスカル。一人で剣の稽古など。呼んでくれればいいのに。」
廊下から庭で剣を持って構えているオスカルを見つけたアンドレは、訝しげに声をか
けた。オスカルが一人で剣の稽古をするなどと、これまでなかったことだった。
「いや、いい。」
冷たくオスカルがいい放った。
「オスカル?何を怒っているんだ?」
アンドレにはオスカルの感情のすべてを把握できるようで、彼女のわずかな気持ちの
揺れさえも見逃さない。普段はそれが彼女にとっては心地良いのだが、今日はそれに
対してさえも腹立たしさを覚えた。
「何でもない。余計なことをいうな!」
オスカルの言葉尻が厳しさを帯びてアンドレを攻撃した。幼いときから眠るとき以外
の多くの時間を共にすごした二人にとって多少の感情の行き違いなど大したことでは
なく、こういうときは大概アンドレが黙ってオスカルの前から姿を消すことにしてい
た。必要があれば、彼女は憚ることなくアンドレを呼ぶし、実際に彼女がアンドレを
必要としないときなど、ほとんどなかったからだ。
しかし今日のオスカルは自分が何に対してこのように感情が波立っているのかわか
らなかった。
「ちくしょー!」
剣を振り下ろせば、今日は何故か切っ先が重く感じられる。まるで初めて大人用の剣
を手にしたあのときのように・・・。
「そう・・・あれは12歳のときだった。身長の伸びた私とアンドレは初めて大人用
の剣を持ったのだ。あのときは二人とも剣の重さと長さに振りまわされて、バランス
を崩してどうしてもうまく扱えなかった・・・。」
オスカルは幼い頃のことを思い出していた。その持て余していた剣の重さを最初に克
服したのはアンドレだった。技術ではオスカルにかなうはずもないアンドレだが、剣
を振りかぶって肩の位置で止める動きをオスカルより早く体得した。
「そうだ・・・。」
無心に剣を構え、突く。その動作を繰り返すオスカルの頭の中には二人の体に差異が
生じ始めたあの頃から、彼女の心の奥底に燻りつづけ、そして無理矢理に押し殺して
きたある言葉が浮かんできた。
―アンドレは男で、私は女なのだ―
「違う!!」
その言葉を切りこむようにオスカルは剣を振り下ろした。
「違う、違う。アンドレはアンドレで、私は私なのだ。私達の間に男とか女とか、そ
んな性別による分け隔てはないのだ!!」
オスカルはやみくもに剣を振りまわし、自分の心の奥底に潜む二人の違いに対する戸
惑いを封じこめようとする。その一方で、彼女は最近のアンドレが、以前よりも一層
大人びてきていることに戸惑いを隠しきれないでいた。いくら男として育ったとはい
え、女であることを認めなくては生きて来れなかった彼女にとって、自分の一番近く
にいるアンドレが、自分と違う「男」という生き物であることを認めてしまうと、二
人の関係がこれまでと違うようになってしまいそうで怖かった。アンドレはオスカル
にとって、最も心地良い存在でなければならないし、一番自然でいられる存在でなけ
ればならないのだ。性別など感じさせない、自分の分身のような存在。剣を降ろし、
息を荒げながらオスカルは汗をぬぐった。
「そう、アンドレはアンドレだ・・・。」
寝台の上に座りこむリヒャルト・アルクバインの顔に苦渋の表情を見とめたオラン
ピア・ド・サライヴァ夫人は身を起こして彼の顔を覗き込んだ。
「何か・・・気になることでも?リヒャルト。」
アルクバインはその言葉に振りかえりもせずシーツを跳ね除け、裸の体にシャツを羽
織って窓辺に立つ。オランピアもガウンに袖を通し、彼に近づき、背中にそっと手と
頬を寄せた。
「何か心配事?私にすべておっしゃい。あなたの心配事をなくすために、わたくしが
いるのよ。」
「・・・アンドレ・グランディエ・・・。」
オランピアは顔を上げてアルクバインを見詰めた。
「アンドレが・・・どうかしたの?」
女の問いかけに、アルクバインは表情と言葉を凍りつかせるように口を閉ざした。だ
が、彼には最近のアンドレがあきらかに以前と違ってきていることを感じとってい
た。そしてそのことが、彼をますます不安に陥れていた。しかも、最近ではすっかり
足遠くなっている彼が、久しぶりにアルクバインの館を訪れたときに口にした言葉を
思い出し、アルクバインは苛立ちを募らせていた。
―俺はあなたと違う影としての生き方を見つけました―
あれはどういう意味だったのだろうかと、アルクバインの気持ちはいよいよ暗闇の中
の沼に嵌っていくのだった。
アンドレは、一人で汗を光らせながら剣の稽古に励むオスカルを屋敷の廊下から見
詰めていた。オスカルへの思いに気付いてしまった彼は、日を追うごとにその思いが
自分でも止め様がないほど大きく、深くなっているのにとまどった。冷静に考えれ
ば、大貴族ジャルジェ家の嫡子として育ったオスカルに、自分の思いが通じるなどと
は非現実的な夢物語だったが、彼自身も既に引き返せないほどオスカルを愛している
自分を持て余していた。それまでは、兄弟のように育ったオスカルにそのような感情
を抱くことを自分で無意識のうちに制していたのだが、自分の気持ちに素直になって
みると、彼女を愛することこそが自分にとって自然のように思えていた。アンドレは
オスカルの近寄りがたい美しさを心の底から愛しく思い、冷静を装いながらも滲み出
す彼女の情熱を一人占めしたいと思っていた。
「だが・・・。」
アンドレは独り言のようにつぶやく。
「オスカルは俺を兄弟のように育った幼馴染としかみていないだろう・・な。」
その現実は、アンドレを絶望の淵に追い込んだ。親友、兄弟、そして従者。愛する者
から求められる己の立場があくまで男同士としての存在でしかないことに、アンドレ
の心は針で引掻かれるように痛みを感じていた。自分がオスカルに「愛している」と
告げれば、彼女はどうするだろうか。アンドレは思い巡らせていた。
「あいつは・・・驚くだろうな・・・。そして俺を遠ざけるだろうか・・・。オスカ
ル自身が一番重荷に思っている『女であること』が、俺が思いを告げることで更にあ
いつの重荷になる・・のだろうな。」
情熱に任せて告げてしまいたい自分の思いが、愛する者の一番の負担になることを考
えれば、アンドレはその思いを胸の奥深くにしまい込むことしかできなかった。
「お前は・・・いつか気付いてくれるのだろうか。俺のこの思いを。」
しかしその答えはアンドレにとっては絶望的なものでしかなく、彼はかぶりを振りな
がら、庭先に見えるオスカルの姿から目を背けるように窓辺から身を離した。大きく
溜息を漏らすアンドレの背後からは、剣の稽古をするオスカルの気合を入れる声が聞
こえていた。
A suivre