影   a l’ombre de Andre・・・

=19=

1775年6月11日

ルイ・オーギュスト・カペー、フランス国王ルイ16世として即位。

マリー・アントワネットは王妃となる。

 スウェーデン貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン邸からの帰り道、オス

カルはフェルゼン伯の言葉を思い出していた。

「オスカル・・お前、寂しくはないのか。そのような格好をして、女としての幸せも

知らずに青春を送るのか?」

マリー・アントワネットがあの美貌の北欧の騎士に一方ならぬ感心を示していたこと

に不安を抱いたオスカルが、フェルゼン伯に忠告のために訪れた夜、別れ際にオスカ

ルに向けられたその言葉。

「女としての・・・しあわ・・せ・・・?」

そんなことは考えたこともなかった。寂しいなどと感じる暇もないほど、これまで走

りつづけてきた。父であるジャルジェ将軍の跡を継ぐべく課せられた運命に何の疑問

も持たずに、目の前に振りかかる難題を一つずつ消化してきた。自分にとって、男で

あるとか、女であるとかということより、いかに立派な武人となれるかが最大の目標

であり、課題でもあったが、女であることの不利を思い知らされた士官学校時代を経

て、今、どうにか近衛隊の中で、自分なりの姿勢を貫けるようになっていた。しかし

・・・。これまで思ったこともなかったが、自分にも「女としての幸せ」を知る人生

の選択肢があったのだろうかと、今更ながらオスカルは考えた。だがしかし、男とし

て育ち、男としてこれまで生きてきたオスカルには、「女の幸せ」がいったいどんな

意味を持つのかわからず、ただ彼女の頭の中を言葉だけが駆け巡る。

「フェルゼンはいったい何を差して“女の幸せ”などという言葉を私に向けたのだろ

うか・・・。」

オスカルは最近のアントワネットの様子を思い出していた。フランスに嫁いできたば

かりの頃は、おてんばで、目を離すと自由に飛び立ってしまいそうな小鳥のようだっ

たが、2年前のパリ・オペラ座でフェルゼンと出会ってからというもの、相変わらず

おてんばのアントワネットが時折見せるえもいわれぬ甘やかな笑顔。大らかに回りの

人に向けられる大輪の花のような笑顔ではなく、ひっそりと自分の心の内にだけ微笑

みかけるような、まるで匂い立つような笑顔をオスカルはある種の感動を覚えながら

盗み見ることがあった。

「恋・・・。」

近衛士官として決して口にしてはならぬ、王妃の道ならぬ思いを肯定するようなその

言葉に、オスカルは思わず口を押さえた。だが一度出てしまったその言葉が彼女の体

を占領するように熱く響き出した。

「恋が・・女を幸せにするというのか・・・。」

独り言のようにつぶやいたあとに、彼女は自嘲的に笑ってかぶりを振った。

「私が、男に恋をするとでもいうのか。気色の悪い。」

男として生きるうちに、無意識のうちに自分で封印し、まだ誰からも解かれることを

知らないオスカルの中に存在する女の心は固く閉ざされたままだ。しかし・・・。オ

スカルはもう一度フェルゼンの言葉を思い出した。

―寂しくはないのか。女の幸せも知らずに・・・。―

これまで彼女を呪縛していた「女」という言葉がこれほど優しく彼女の胸に響いたこ

とはなかった。

「女のくせに」

「女は黙ってろ」

「女は・・・」

「女は・・・」

これまで攻撃され、傷つけられたのは、この「女」という言葉だったのに、今日はそ

の言葉が心に染み入ってくる。オスカルはふっと肩の力が抜けたような気がした。彼

女の中の女の心が少しだけ、その封印を緩めた。

 ベルサイユ宮の廊下をオスカルは早足で歩いていた。貴族の男性までも化粧を施す

時代にも関わらず、化粧っ気のない、しかしながら大理石のごとく白く艶やかなその

肌を僅かながら上気させ、背中を覆うように豊かに波打つ黄金色の髪を揺らしなが

ら、背中をまっすぐに起こして歩くその姿に、すれ違う貴族や貴婦人たちが目を奪わ

れる。軍服の上着が途切れたところから始まる足は驚異の長さを誇り、白い乗馬ズボ

ンに包まれて伸びやかな姿態をみせている。黒光りする革の乗馬靴が細い膝下をさら

に引き締めている。どこまでも軽やかで、そして一陣の薫風をも思わせる存在が、時

折すれ違うほかの軍人を愚鈍にさえみせてしまうほどだった。夜会といえども、王妃

の警護に当たるオスカルは日常の軍服のまま、華やかな夜会服に身を包んだアントワ

ネットの側に侍るのだが、その姿が一層彼女の颯爽とした魅力を引きたてていた。ご

てごてと飾り立てる必要のない美を備えた近衛隊士に、多くの人が憧憬を抱かずには

いられなかった。

 だが、憧憬だけではすまされない思いを胸に秘めて影ながらオスカルの様子を見詰

める黒い深い瞳があった。アンドレのオスカルへの思いは、時を追ってさらに深ま

り、激しくなっている。灼けつくような、渇きにも似た不毛の愛は、しかしながら彼

の人生そのものをはっきりと照らし出そうとしていた。アンドレは、決して自分の感

情を表面に出さず、オスカル自身が望むように、あくまで男同士として彼女に接する

よう努め、多くを語らず、彼女が必要であるから自分が存在するという姿勢を崩そう

とはしなかった。その強い精神力は、彼本来の素養に加えて、アルクバインを始めと

する多くの人間との関わりで培ったものであった。が、そのあまりに強い精神力のせ

いで、彼は自分自身を追い込むことになる。自分で自分の感情と理性をコントロール

し、自分よりもまず恋しい人のことを第一に考える彼は、感情に翻弄される自分を許

しはしなかった。

 普通の人間なら我慢できずに吐露するであろう己の恋心さえも笑顔の下に隠して、

平静を装いながら思い人の側に存在しつづける、鮮やかな「影」の姿。それはあまり

に優しく、哀しい姿だった。

 

「アンドレ・グランディエ。」

鈴のような声でアンドレを呼びとめる者がいた。オランピア・ド・サライヴァ夫人が

いつものように寂しげな笑顔で立っていた。

「あなたの時間、少しだけ私に頂戴。」

二人が知り合った頃はオランピアが少しだけ顔を上げればアンドレと目を合わせられ

たが、今は完全に見上げている。

「何でしょうか?」

「馬車で、私のパリの館まで来てもらいたいの。」

「パリの?それはいったい・・・。」

「いいから、一緒に来て頂戴。」

「しかし、俺はオスカルから離れるわけには。」

このように自分から行動を起こすサライヴァ夫人をアンドレは初めて見て戸惑った。

いつもアルクバインのいうがままになり、都合のいい女でいることで自分の存在価値

を見出す女。その人が少しばかり強引とも言える物言いでアンドレを連れ出そうとし

ている。何かあるのかと、アンドレは迷った。王妃の警護中のオスカルから離れるわ

けにはいかない。王妃を守るオスカルの身にも常に危険がついてまわっている。もし

彼女に危険が迫ったときに、楯になれるのは自分しかいないと、アンドレはその場か

ら離れられずにいた。

「来て。さもないとここで声を上げるわよ。王妃様付き近衛連隊長の従者が侯爵夫人

に無礼を働いたと。」

サライヴァ夫人が自分の身分を利用するなど初めてのことだったため、アンドレは余

程の理由があるのだろうと、後ろ髪を曳かれる思いでオスカルから目を離し、サライ

ヴァ夫人に付き従った。

 馬車の中で、サライヴァ夫人は厳しい目でじっとアンドレを見詰めていた。

「何があったの?アンドレ。」

突然夫人が尋ねた。

「何がとは?」

「とぼけないで。最近、リヒャルトから遠のいているそうじゃないの。」

いつもは寂しそうにつぶやくような口調の夫人がいつになく語気を強めていた。

「お目にかかる・・・特別な理由がありませんので。」

アンドレは素直に答えたつもりだった。アルクバインから教えられた影としての任。

それをこなすための様々な知識や技術。確かにそれらがアンドレの宮廷での生活や、

オスカルの従者としての役割に役立っていた。だが、影であることの意味を、アンド

レは自分なりの答えを出し始めているため、アルクバインに教えられた通りの任を遂

行することに彼自身が意味を見出せなくなっていたのだった。

「リヒャルトは・・・彼は何故か苦しんでいるのよ。何に苦しんでいるかは私には見

当もつかないけれど、原因があなたであることは間違いはないわ。あなたの足が遠ざ

かってからというもの、リヒャルとの様子もおかしくなっていったもの。」

「ムッシュウが・・・?俺がお目に掛からなくなったからといって、何故ムッシュウ

が?」

「私もそれがわからないから。だからあなたから理由を聞こうとしているのじゃない

!」

そういうことだったのだ、とアンドレは理解した、サライヴァ夫人がアンドレを半ば

強制的に連れ出した理由は、彼女の愛するアルクバインの情緒不安定の理由が自分に

あるかと推測したからなのだと。しかし、アンドレ自身にその答えはわからなかっ

た。

「しばらくお目に掛かっていない俺が、どうしてムッシュウの不安材料になりうるん

です?」

サライヴァ夫人とアンドレの間に緊張した空気が張り詰めた。

 

 オスカルはアンドレの姿が見えないのが気になって、王宮のテラスに出ていた。夜

会の日は庭にもかがり火が焚かれている。その灯りに照らし出されて広大な庭園が妖

艶さを増していた。木立の向こうで、恋人達の愛を囁く声が聞こえてくる。オスカル

は夜空を見上げて大きく息をついた。夜会の席の貴婦人たちの白粉の匂いと熱気が混

ざって息苦しくなっていた。オスカルは軍服の襟をわずかに緩めながらつぶやいた。

「アンドレ・・・。どこに消えたのだ。」

オスカルはアンドレのことを考えていた。子供の頃から決して賑やかな子供ではな

かったが、いつの頃からか、静かに、多くを語らずに常に自分の側にいたアンドレ。

子犬のように転げまわって遊んだ子供時代。苦しかった士官学校時代。そして近衛士

官として王宮に伺候するようになってからも、ずっとアンドレが側で支えてくれてい

た。

 テラスから見える宮殿の中は、何か別世界のように光と笑い声が溢れている。その

様子はどこか現実味を帯びずに虚構のようだとオスカルは思った。今の自分はあの虚

構の世界の住人の一人なのだと思うと、何故か心が冷めていく。こんなにとき、アン

ドレがいてくれれば・・・。オスカルは思っていた。彼女にとって、アンドレは唯一

の現実のように思えていた。決して変わることのない、確かな存在。

「アンドレ、まったくあいつは、肝心なときにいない。一体どこに行ったのだ。」

オスカルは再び大きく息をついて、緩めていた襟元を引き締め、虚構の笑いがさんざ

めく夜会の席に戻っていった。

 

A suivre

 

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