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   影    a l’ombre de Andre・・・ 

=2= 

「おい、アンドレ!」 
オスカルの語尾が強くなって、アンドレはやっとさっきから彼女が自分を呼んでいた 
ことに気付いた。仕官学校からの帰り道、馬車に揺られながらアンドレは窓の風景を 
だまって見つめていた。いつもなら、オスカルの話に耳を傾け、笑い合いながら帰宅 
するのだが、今日は馬車に乗りこんだときから、いつもの彼ではなかった。 
「あ、なんだ、オスカル。」 
「なんだって・・・、お前どうしたのだ。さっきから上の空で、まるで心ここにあら 
ずという感じだぞ。何かあったのか?」 
「あ、いや、木の葉の色が夏の最後を惜しむように輝いているなぁと、ちょっとみと 
れていたんだ。」 
「は!似合わないこと言うな。お前、熱でもあるんじゃないのか。それとも何か悪い 
ものでも食ったか?」 
「・・・そうかもしれない・・・。」 
アンドレは、先ほどまで、自分がいた世界が現実の世界かどうかもわからなくなって 
いた。あれはやはり現世のものではなく、地底の世界だったのか―。 
「おい!いったいどうしたのだ、アンドレ。何かあったのなら言ってみろ。私たちの 
間では隠し事はなしだろう!」 
―隠し事はなし― 
アンドレはオスカルの言葉を反芻していた。自分に課せられた「影」という役目、そ 
してそれを遂行する為に自分に特別な教育が施されていることなど、オスカルの耳に 
入れてはいけないことだった。オスカルが光り輝く道を歩くためには、何があっても 
知られないようにしなければと、ジャルジェ将軍から口止めされずとも、アンドレは 
悟った。これまで隠し事などなかった二人の関係が微妙に変わろうとしている。 
「ああ、すまなかった、オスカル。ちょっと寝不足でぼーっとしていただけだ。」 
アンドレはいつもの笑顔をオスカルに向けながら取り繕った。そのアンドレの笑顔を 
オスカルは不信げに見つめ返していた。 

 ジャルジェ家の屋敷に戻ると、アンドレはジャルジェ将軍の帰宅を待った。オスカ 
ルはもとより、アンドレの祖母であるマロン・グラッセやジャルジェ夫人でさえ知ら 
ない秘密裏に交わされた男同士の約束・・・。その進捗状況を報告することもアンド 
レは義務付けられていた。 
 夜も更けて、当主が帰宅すると、屋敷の中はにわかに賑わう。よほど彼の帰りが遅 
くない限り、当主夫人と娘達・・・といっても既に上4人の娘は嫁いでいたため、今 
は5女のジョゼフィーヌと跡取りであるオスカルの2人だが・・・も晩餐を待ってお 
り、当主とともにテーブルにつくため、使用人たちはその準備と給仕で忙しく立ち働 
く。その賑々しい合間に、アンドレは見つからないように当主の書斎のドアをノック 
した。中から「入れ」と短い返事が返り、アンドレは身を滑らせるように部屋に入っ 
ていった。 
「アンドレ、どうであった、初日は。」 
「はい、旦那様・・・。あの・・・実は今日は、何もなかったのです。ただ、あの方 
・・・あの・・・名前さえ聞かせてもらえませんでしたが・・・あの方がじっと椅子 
に座ったまま、俺を見つづけていただけだったんです。」 
アンドレは今日の出来事を思い出していた。地下の部屋に連れていかれ、鼻先にナイ 
フを投げられた後、あの男はアンドレに近づいたかと思うと、的に刺さったナイフを 
抜き取り、踵を返してアンドレから離れ、椅子に座ってじっと彼のことを見ていた。 
何もしゃべらず、何もせず。 
「それで、お前はどうしたのだ。あの男にただ見つめられて。」 
「こちらが何かを尋ねても何も答えてくださらなかったので、俺も椅子を引きずって 
きて、あの方の前でずっと座ってました。」 
ジャルジェ将軍は高笑いした。 
「はっはっはっ・・・。何もせず、何もしゃべらずか?」 
「はい。」 
「それで?」 
「それで、迎えの馬車が来たので、俺はそのまま仕官学校にオスカルを迎えに行きま 
した。」 
「ふっふっ。アンドレ、お前はやはり私が見込んだだけはあるようだな。あの男と数 
時間、ただにらみ合っていたというのか。」 
「いえ、にらみ合ってなど。ただ、あの方が何か行動を起こすのを待っていただけで 
す。」 
「ふむ・・。あの男はそれを狙っていたのかもしれぬな。」 
「あの・・・旦那様、俺、だまって座っていたなんて、よくなかったのでしょう 
か。」 
「いや、それでよいのだ、アンドレ。多分、お前はあの男に気に入られただろう。お 
前はあの男のあの凍りつくような視線から逃れ様とせず、騒がず、反抗せず、ただ、 
相手の出方を待っていた。あの男・・・まだお前の素養を試したいと見えるな。たい 
ていの子供なら、そうした状況ではいても立ってもいられなくなるだろうに、お前は 
真正面からあの男と対峙したのだ。アンドレ、あの男の独特の気迫に飲まれないよ 
う、明日からも、その調子で励め。」 
ジャルジェ将軍はアンドレの肩に手を置き、自分の選択が間違っていなかったと安堵 
の気持ちをこめて微笑んだ。しかし、アンドレは本当にあれでよかったのか、己の行 
動を顧みていた。外界の音も空気さえも遮断されたようなあの大きな部屋で、数時 
間、ただ冷たい視線の男とじっと座っていた経験は、それを体験したものでしかわか 
らない凍り付くような時間の連続であった。永久にその時間が続くとさえ思えた。だ 
が、アンドレはその時間を自分から壊すことをしなかった。その時間がどのような方 
向に向かうか、見つめたいという好奇心が湧いていたのだ。実際にはどこにも向かわ 
なかったのだが・・・。 
「旦那様、あの方は・・・どういう方なのですか。お名前はなんとおっしゃるので 
しょう?」 
問われて、ジャルジェ将軍は答えるのを躊躇った。アンドレを暗の世界に導く者の正 
体を明かすべきか否か。いや、それよりもあの暗い目をした男の正体について彼自身 
が得ている情報が本物かどうかさえも確認できない。それほど、あの男の正体は謎に 
包まれていた。だが、真摯に向けられたアンドレの黒い瞳を見つめると、この少年な 
ら何もかもを受け止めることができると思えた。正体を明かしても大丈夫だと。 
「あの男は、リヒャルト・アルクバイン。オーストリア人だ。そして恐れ多くも、か 
のマリア・テレジア女帝の不義の子だと言われている。」 
「ええっ!ハプスブルグ家のマリア・テレジア様のですか?!」 
「いや、それも本当かどうかもわからぬ。ただ、あの男を取り巻く噂の一つにすぎ 
ん。あの男、今でこそ宮廷から一切姿を消しているが、かつてはかのポンパドール侯 
夫人の懐刀として、一時はフランス宮廷を席捲したこともあるのだ。かの7年戦争の 
折には、あの男の暗躍でマリア・テレジア女帝とポンパドール夫人がつながっていた 
とさえ言われている。何でも、マリア・テレジア女帝陛下が、夫君のフランツ一世陛 
下の家臣との間にもうけた子だとか。当然、産まれてすぐに庶子に里子に出され、流 
れ流れてフランスの地に辿りついた。ポンパドール夫人がルイ15世陛下の寵姫とな 
られてからは、夫人の行かれる所、いつもあの男がいた。あの男とポンパドール夫人 
がどのように結びついていたのかは我々は知る由もないのだが、革新的だったポンパ 
ドール夫人には保守的な家臣など多くの敵がおったからな。あの男は常に影として、 
ポンパドール夫人の身を守っていたし、彼女の功績の多くはあの男の働きがあっての 
ことだと想像しているのだが。」 
「そんな男が、どうして今はあのような・・・。」 
「うむ・・・。ポンパドール夫人が1763年の7年戦争終結祝賀以降、体を壊して 
宮廷から辞したとともに、あの男も表舞台から姿を消したのだ。わたしはオスカルの 
ために、あの男の助けが欲しいと考えていた。わたしは自分がいかに無謀なことをし 
ようとしているかわかっておる。女を軍隊に入れるなどと。だが、あの男の力があれ 
ばそれが可能だと信じていた。ポンパドール夫人の影として発揮した能力を、わが娘 
のために使ってもらいたいと思っていた。ポンパドール夫人が亡くなって、1年。姿 
を消していたあの男をやっと見つけたときは、かつての輝きを失い、世捨て人同然 
に、世間の一切と縁を切り、人を恨んで生きてきた。そんな男を前にして、わたしは 
自分の一縷の望みが断ち切られた気がした。オスカルを一人前の軍人に育て上げるわ 
たしの夢は、やはり夢で終わるのかと。わたしは正直言って途方にくれたのだ。だ 
が、お前がいた。私は、お前にわたしの最後の望みをつなげたのだ、アンドレ。あの 
男自身は、既に「影」としての仕事ができぬほど、この世に対する情熱も希望も失っ 
ている。だが、彼の影としての能力をいつもオスカルの側にいるお前が受け継ぐこと 
で、お前がオスカルの弱点をカバーすることができるのではないかと考えたのだ。オ 
スカルは、ほかの軍人よりも大きな弱点を背負っている。今の軍隊という男社会の中 
であれが生き残るためには、女であるという弱点をオスカル自身が克服すると共に、 
すべての面で男たちの上に立たねばならない。幸い、オスカルは武術にも勉学にもす 
ばらしい才能を持って生まれた。それに加えてあの生真面目な性格が幸いして、人一 
倍努力もする。女とはいえ、並外れた軍人の要素を備えているようだ。そのオスカル 
に足りないものを補う、それをなし得るのは、アンドレ、お前しかいないのだ。」 
アンドレはことの次第を聞いて、自分が想像する以上に己の身にふりかかっている運 
命の重さを噛み締めた。 


 リヒャルト・アルクバインは、その夜、一人で地下室にこもり、ナイフを研いでい 
た。砥ぎたての刃がろうそくの光に照らされて妖しい光を放つ。その光を見つめて、 
リヒャルト・アルクバインは久々に気持ちの高揚を感じていた。その高揚を抑えるよ 
うに、冷たく光るナイフの研ぎ澄まされた切っ先にスッと指を滑らせる。 
「あの少年・・・アンドレ・グランディエ・・・。なんという少年だ・・・。私の視 
線から目をそらすことなく、長時間じっと私の出方を待っていた。わずか11歳であ 
の肝の据わり方。気に入ったぞ。明日から覚悟をしておけ、アンドレ。」 
指先に滲む血を見つめながら、リヒャルト・アルクバインは不気味な笑いを漏らして 
いた。 


se continuer 

 

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