影 a l’ombre de Andre・・・
=20=
アンドレは訪れるたびに悲惨さを増していくパリの街の様子を目の当たりにして胸
が詰まる思いだった。これが人の暮らしだろうかと、ベルサイユでの貴族たちの暮ら
しが絵空事のように感じた。貴族ばかりではない。貴族の家に暮らす自分達使用人
も、パリの人々と同じ平民でありながら、暖かいベッドと食べ物が当たり前のように
保証されている。しかし、パリの現状はひどいものだった。パッシー地区のように貴
族の屋敷がある界隈と違い、下町はネズミと人間が共存しているような有様で、異臭
が立ち込め、うつろな目をした怪しげな人間が多くうろついている。これが今のフラ
ンスの現実なのだと、アンドレは心を痛めていた。
そんな下町に、黒百合のアジトはあった。アンドレが11歳の少年のとき、初めて
黒百合の連中に引きずり込まれたあの暗い部屋。今まで何度となく通ったその部屋に
は、相変わらず気風のいいアンヌがメンバーを取り仕切っていた。アンドレはアンヌ
に子供の頃から変わらぬ友情を感じていたが、今日は、このまえサライヴァ夫人から
攻め立てられたアルクバインの情緒不安定の原因を探ろうと足を運んだのだった。
「おや、アンドレ。久しぶりじゃないのさ。」
亜麻色の髪のアンヌはアンドレの姿を見るや否や、こぼれるほどの笑顔で彼を迎え
た。
「やあ、アンヌ。久しぶりだな。」
「いい子にしてたかい?」
「いいかげん、俺を子供扱いするのはやめてくれないか?アンヌ。」
「おや、随分大人ぶってるじゃないのさ。」
ああいえばこういう、というのは昔から変わらないと、アンドレは溜息をつきながら
差し出された椅子に座った。
「どうしたんだい?急に来るなんてさ。」
アンヌは酒瓶からきつい酒をグラスに注ぎ、アンドレの前に置いた。ありがとうとい
いながら、アンドレはそのグラスを前に、悩んだときに彼がよくする、机に肘をつい
て顔の前で手を組むポーズで考え込んだ。
「何か、あたいたちの助けが必要なことかい?」
アンヌが神妙にアンドレの顔を覗き込んだ。アンドレが大きく息を吐く。
「ムッシュウ・アルクバインのことだ。」
「アルクバインのだんなの?何?どうしたってのさ。」
「最近、俺はお目にかかってないんだが、聞くところによると、情緒不安定に陥って
いるらしいんだが、あんたたちの目には最近のムッシュウがとう映っているかと思っ
て、それを尋ねにきたんだ。」
「そりゃ、このご時世だ。ことあるごとにあたいたちはだんなのとこに情報を持って
いっているが・・。あたいが見た限りでは、別に変わらないけどねぇ。相変わらず無
感動、無表情でさ。」
「そうか・・・。」
「何、誰だよ、だんなが情緒不安定なんて吹きこんだ奴は。」
「あ、いや。あんたたちが何も感じていないんならいいんだ。」
アンドレはこれ以上ことを複雑にしたくないと思い、最近自分がアルクバインから離
れているのをアンヌに伝えるのをやめた。目の前のグラスの酒をぐっと煽った。
「アンドレ、何かあったのかい?」
アンヌはアンドレを見詰めて尋ねた。
「どうして?」
「ん・・・いい面構えになってきたなと思ってさ。男の顔だねぇ。」
微笑むアンヌに反して、アンドレは目を伏せてしまった。
「さっきは子供扱いしていたくせに。」
アンドレは苦笑しながらも、少しとまどうように机の上に視線を這わせ、静かにアン
ヌの顔を見詰めなおした。少しだけ、口角を引き上げて、無理矢理笑顔をつくる。そ
の複雑な表情の変化をみてアンヌは、アンドレが自分の気持ちを持て余しているのに
気付いた。
「そう・・・あの犬っころのようにまっすぐにあたいたちを見る、あの少年も好き
だったけど、今のあんたの瞳の奥には、血が滾り、焔が燃えているようだ。」
その瞳の奥に隠れる思いを暴くように、アンヌは再びアンドレの瞳を覗きこんだ。
「だが、その焔がいつか俺の全てを焼き尽くしそうで、ときどき怖くなるときがあ
る。」
「・・・誰かに・・惚れたのか・・・。」
二人の間に一瞬の緊張が走り、そして沈黙が二人を隔てた。アンドレは重々しく口を
開く。
「そんな生易しいものなら、こんなに苦しみはしない。俺は・・・俺はあいつを愛し
ている。オスカルの命そのものが愛しい。あいつの全てが欲しい。」
誰にも言わなかったその思いを一気に吐き出した。アンドレは宙に視線を躍らせた。
もう一度大きく息を吸い込んで、吐く。自分の胸に圧し掛かる恋の重圧を体の外に出
すように、深く、深く。
「・・・今ごろ気付いたのかい?あんたの・・姫さんに対する思いを・・。」
アンヌはアンドレの気持ちを聞いてもさほど驚きもせずに聞き返した。
「アンヌ・・・。」
「あたいはとっくに気付いていたんだがねェ・・・。」
「なんであんたが・・・。」
「女を見くびるんじゃないよ。あんたがアルクバインのだんなのとこに来て、自分か
ら影になりたいといったあの日。あんたの影としての人生が始まったあの日から、あ
んたは既に彼女に惚れていたのさ。」
「俺が・・・?11歳のときに、もう?」
アンドレは目を丸くしてアンヌを見ていた。自分で気付かなかった感情を既に彼女は
見抜いていたというのか。
「まったく、あんたも鈍感というか天下泰平というか。誰が見たって解るよ、そんな
こたぁ。」
いつになくしみじみとした口調のアンヌだった。アンドレは驚きのあまり何も言えな
くなっていた。ただ呆然とそのアンヌをまじまじと見るだけだった。
「で、どうすんだい?」
苦笑いしながらアンヌはあきれたように尋ねた。
「どうするって、何を。」
「相手は将軍令嬢だ。かっさらって自分のものにするかい?」
「なんてことを!第一、オスカルが俺のことを男としてみていないんだから。」
「おやまあ、そりゃ前途多難だねぇ。こんないい男を前にしてさ、姫さんはあんたを
男と見てないって?」
言葉遣いはいつもの彼女だが、その口調に包みこむよう優しさを感じさせた。
「オスカルは、オスカルは俺を兄弟としか思っていないだろう。あいつが俺にそれを
望む限り、俺はあいつの前に男として存在することができない。」
「・・・それで、あんたは幸せなのかい?アンドレ。」
その問いがアンドレの胸をさらにえぐった。男としてみられない情けなさはアンドレ
の胸を常に枯渇させていた。
「俺が幸せでいることより、俺はあいつが幸せでいることを望む。」
やっとの思いで搾り出した言葉だった。アンドレはただ唇をかんでアンヌを見詰めて
いた。
「・・・・・・大人に・・・なったんだね、アンドレ。」
感慨深く独り言のようにつぶやくアンヌの瞳は、母のような慈愛に満ちていた。
オスカルは自室の明かりをぼんやりと見詰めていた。あの日、フェルゼン伯にかけ
られた言葉が今も胸にひっかかっていた。
「女の幸せを知らずに・・・。」
あのときの彼を思い出すと、何やら温かい気持ちに満たされていく。
「私は・・・どうしたというのだ・・・。」
初めての感情が沸々と湧き出してくるのを、彼女は躊躇いがちに自覚していた。
A suivre