影   a l’ombre de Andre・・・

=21=

 

 掻きあげる髪の毛から覗く白い首筋。無防備に仰け反らせる頭、そして薔薇色の唇

から漏れる吐息さえもアンドレを甘く、熱い世界に誘っていく。いつの頃からか、オ

スカルのしぐさの中に、10代の頃は見ることが出来なかった柔らかな“女”が見え隠

れするようになっているのにアンドレは気付いていた。ときどき、目を細めて遠くを

恍惚と見詰める表情の中には、あきらかに恋を知った女の艶が存在する。しかし、そ

の艶はアンドレに向けられることはない。オスカルがそういう表情をするときは決

まって遠くの空を、どこか現の世界から逃避するようにぼんやりと眺めている。

「お前が、そんな表情をするなんて・・・。」

恋する女の顔をしたオスカルに出くわすたびに、アンドレの心の水面はざわざわと小

波立つ。押し殺して、無理矢理押さえ込んできた、オスカルへの恋情が爆発しそうに

なる。いっそのこと、感情のままに思いを打ち明けてしまおうかという誘惑にさえ駆

られる。いつもはその誘惑に抵抗できる力さえも、削がれていくような絶望感。アン

ドレはぎりぎりのところで、自分の感情に溺れることを踏みとどまっていた。

 オスカル自身は、アンドレの思いにまったく気付いておらず、子供の頃とちっとも

変わらない親愛の念がこもった視線を彼に投げかけ、無邪気に笑いかける。そのたび

にアンドレは絶望感を感じながらも、半面、普段の冷静さを取り戻すことができるの

だった。オスカルが自分に望んでいるのは、あくまで幼馴染、兄弟、従者として存在

することなのだと、アンドレは己の役割を冷静に受け止めていた。そしてその役割を

担うことができるのは、オスカルが恋心を抱いている相手ではなく、紛れもない自分

であるのだと、アンドレは己に言い聞かせるのだった。

「どうかしたのか?アンドレ。」

自室のカウチにゆったりと細く締まった足を投げ出して、アンドレが声に出して読む

物語を聞き入っていたオスカルが首をもたげるように尋ねた。

「疲れたか?だったら今日はいいぞ。お前の声でこの物語を聞きたかったのだが、疲

れさせてしまったようだな。」

オスカルが柔らかく微笑む。

「いや、疲れたわけではない。そんな風に聞こえたか?」

アンドレもオスカルに微笑みを返す。

「いつものお前らしくない、ただ文字を声にしているような読み方だったから。」

アンドレは苦笑した。

(お見通しというわけか。)

オスカルへの思いを心の奥にしまい込むための努力に集中していたがために、本を読

むことをおろそかにしてしまっていたが、その声の調子一つで、彼の精神状態や体調

さえもオスカルに読み取られていた。しかも彼女は、それを特別なこととも思わず、

惜しつけがましい優しさなどに摩り替えることもなかった。自然に、幼い頃から二人

の間に当たり前に存在した習慣だった。

「ああ、俺は大丈夫だから、もっと読んでやろう。それともお前が疲れたか?」

「いや・・・、では、もう少し先まで進んでくれるか。この物語の文章は、お前の声

によく似合っている。とても、心地いい・・・。」

自分に対してオスカルが男女間の愛情を持っていなくとも、こうして二人だけの共通

の時間、共通の思い出、そして共通の思いやりが存在することで満足しようとアンド

レは思いながら、物語を読み進めていった。

 カウチの背に持たれかかって物語に聞き入っていたオスカルは、本の文字を追いか

けている幼馴染を眺めていた。10代の一時、彼の存在に対して時折抱いた居心地の

悪さが、今は嘘のように消え去っていた。

(あれは、何だったのだろうか・・・。)

オスカルは思い出していた。自分の背後に感じるアンドレの胸板の厚さにどきりとし

たことがあった。差し出される腕の引き締まった筋肉が動くたびに、目の前の「幼馴

染」が「男」という別の生き物に変身しそうで思わず目を閉じてしまったこともあっ

た。だが、当の本人は、あくまで男同士の親友として、または一緒に育った兄弟のよ

うに、子供のころと変わらぬ笑顔を向けてくれていた。それがどれほどオスカル自身

に安心感を与えていたことか。今、静かに響く声で本を朗読するアンドレの存在にオ

スカルは限りない幸福感を見出すことができる。いつの頃からか、少年は大人の男の

顔になり、瞳の奥に憂いと慈しみを備えるようになっていたが、相変わらず、明るく

て優しく、そして以前よりもより近く、自分に添ってくれている安心感にオスカルは

ただただほっとするものを感じるのだった。

 しかし・・・、彼女はフェルゼン伯爵への気持ちを持て余して、それを自分でどう

処理していいのかさえもわからないでいた。

(こんなことははじめてだ・・・。)

フェルゼンが彼女の心をかき乱す。フェルゼンのことを考えると、オスカルは自然と

溜息が漏れ、やり場のない気持ちが彼女の胸の中で揺れる。自分で自分の気持ちを律

することができないのが恋というのなら、恋など知らぬほうがよかったとオスカルは

思っていた。ただ辛い。そして、どうすればいいのか、自分が何がほしいのかさえも

わからない。そんな不安定な精神状態に対して、オスカルは自身で苛立たしさを覚え

ながら、それでもどうすることもできないでいた。

(アントワネット様は・・・どうやって飛び越えられたのだろうか・・・。どうやっ

てご自分の気持ちを伝えられたのだろうか・・・。)

普通に女性として育ってこなかった自分は、やはり女性として欠けたところがあるの

かと自信を失いかける。

(私はフェルゼンにどうしてほしいというのだ・・・。)

そうなのだ、オスカルはいつもこの問いを繰り返すが、その答えは濃い霧に遮られる

ようにつかみたいのにつかめず、その状態がますます彼女を情緒不安定にしていっ

た。

 

「おい、おばあちゃん、何をそんなに慌しくしてるんだ?」

いつにも増して張り切っている祖母の嬉しそうな顔を、アンドレは腰を折るように覗

き込んだ。

「うるさい!!おどき、この大男。あたしゃ忙しいんだ。」

「ひどいなぁ、それがたった一人の孫に対する言葉かい?」

「オスカル様が、やっと、やっとドレスを着て舞踏会に行くとおっしゃってくださっ

たんだ。しつこくドレスを作ってあきらめずに待っていた甲斐があったというもんだ

よ。さー、忙しい、忙しい。」

マロン・グラッセは呆然とするアンドレをその場に残して踊るように走り去った。

「オ・・オスカルがドレスゥ??!!」

アンドレは悪い冗談を聞いたように、思考が止まり、体が動かなくなって立ち尽くす

だけだった。

 

 オスカルは、彼女が生まれて初めてのドレスを着て舞踏会に行ったあの夜以降、ベ

ルサイユの貴族の屋敷ばかりを狙う盗賊、黒い騎士の捜査のため、アンドレを伴い毎

夜のように夜会に顔を出していた。連日連夜、行きたくもない夜会に出席するとさす

がにオスカルも疲れきっていた。その夜も、夜会からの帰り道、ジャルジェ家への馬

車の中でオスカルはじっと目を閉じたまま馬車の心地いい揺れに身を任せていた。そ

んな彼女を、向かいの席に座ったアンドレがじっと見詰める。あの日の目が眩むほど

の美しいオスカルのドレス姿がアンドレの瞼の奥に焼き付いて離れず、目の前の近衛

連隊長の軍服を着た幼馴染と、あの夜の見事なまでの貴婦人が同一人物であること

に、アンドレは未だ心の整理がつかないでいた。

「オスカル・・・眠っているのか?」

アンドレの呼びかけに、オスカルは閉じていた瞼を開いた。

「いや・・・夜会の灯りが眩しすぎたので、目を閉じて休めていた。アンドレ、お前

も疲れただろう。」

そういうオスカルの顔にこそ披露の色が広がっている。

「いや、俺は大丈夫だ。」

「そうか、ならよいのだが・・・。」

オスカルは口を開くのさえも疲れるのか、そのまま黙ってしまった。しばらくの沈黙

が重くアンドレに圧し掛かる。

「オスカル、聞いてもいいか?」

その沈黙をわざと破って、アンドレが静かな声で尋ねた。彼の声は馬車の外の闇に紛

れて流れ出るようだった。

「何だ?」

「この前の夜・・・お前がドレスを着て舞踏会に行った日・・・。」

そこまで言うと、後の言葉を出すのを躊躇った。オスカルも何も言わず、ただじっと

アンドレを見つめた。二人はそれぞれの胸に複雑な思いを秘めて、次の言葉までの沈

黙の中に再び身を沈めた。

「・・・・・・あの日、何故お前はドレスを着ようなどと考えたのだ。」

「言っただろう?一生に一度くらい、あのような格好もよいかと思っただけだ。」

「例えばお前が、誰かに自分のことを女であるということを認識させたくて着たのな

ら・・・。」

「アンドレ!」

アンドレの言葉をオスカルが語気を強めて遮った。

「何が言いたい?」

疲労の色を映した青い瞳が少し哀しげにアンドレを見詰めた。

「お前は・・・。俺はお前に、いつでもお前らしくいてほしいんだ。」

「言っている意味がわからん。」

「ドレスを着なければ、お前を女と見ないような男を、俺は許さない。」

いつになくぎらぎらとした瞳が何かに対して挑みかかっているようだった。オスカル

はふっと笑って、二人の間の緊張した空気を緩めた。

「何を言い出すのかと思ったら。お前、何か先走りしていないか?それとも、私のド

レス姿がそんなに変だったか?」

「・・・・・茶化すなよ、オスカル。お前のドレス姿は美しすぎた。これまで見たど

んな貴婦人もお前にはかなわない。王妃様でさえも。」

「これは、これは光栄だな。ロココの女王といわれるあの方より美しいとは、何より

の賛辞。ふふふ。」

オスカルが軽くかわそうとする言葉にさえも、アンドレは真剣な表情でいた。

「オスカル、お前は生まれたときから、ずっと男として育った。男のなりをして、男

のように行動する、それがお前だ。だが、お前は男ではない。ドレスを着たお前は確

かにすばらしく美しい。だが、俺には何か本当のお前ではないような気がしたんだ。

化粧をして、髪を結い上げ、ドレスのすそをさばくだけが女らしさではないぞ。」

「・・・では、お前は・・・軍服を着て、剣を構え、こうして世の平安を乱す盗賊退

治に乗り出している私が、女らしいとでもいうのか。」

「オスカル、例えお前がどんな格好をしていても、お前はお前なんだ。女性にしか持

てない特性を、お前がきちんと持っていることを俺は知っている。ドレスを着て別人

のような煌びやかさを装うお前より、いつもお前らしくいるほうが、俺は数倍美しい

と思う。」

そう言ってしまって、アンドレは頬を上気させて顔を窓のほうに向けてしまった。

「アンドレ・・・。」

オスカルは言葉を失っていた。何故、アンドレが急にこんなことを言い出したのか。

多分、彼には自分の淡い恋心が判ってしまっているのだろうと、オスカルは静かに目

を伏せた。不思議と、怒りも恥ずかしさも湧いてこなかった。ただアンドレの言葉が

しみじみとオスカルの心を温かくしていた。

―どんな格好をしていても、お前はお前だ―

オスカルはふっと微笑んだ。

「アンドレ、隣に来い。」

「え?」

オスカルの言葉に窓の外の暗闇を見詰めていたアンドレが驚いた。

「何をしている。肩を貸せと言っているのだ。屋敷に着くまで、少し眠る。お前の肩

を枕代わりにな。」

その言葉を聞いて、アンドレもふっと笑みを漏らし、何も言わずにオスカルの隣に

移った。アンドレの肩にもたれるやいなや、すぐに寝息を立て出したオスカルの前髪

が優しく揺れて、彼の心を甘い思いで満たすために誘っているようだった。

 

 

A suivre

 

 

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