影   a l’ombre de Andre・・・

=23=

 

―オマエヲ アイシテイル―

オスカルの頭の中で「愛している」という言葉が反響を繰り返していた。

 この一言が、決して変わらないと思っていた二人の関係を違ったものに変えてい

く。秘められた思いが地底から噴出する鉱物のように熱く、激しく流れ出す。アンド

レはオスカルの頭部を捕らえて、彼女の薔薇色の唇に自分の唇を押し付けた。オスカ

ルは何が起こっているのか、自分を身動きを取れないように力を込めて抱きしめてい

るのが誰か、何も考えられないほどの衝撃で身じろぎも出来ない。

 煽られたアンドレの感情の炎は、これまで無理矢理に抑えられていた反動で既に鎮

められることができないほどに、蒼く、激しく、闇に燃え上がる。

「いやーーーっ」

明らかな男の腕力で組敷かれる恐怖に無意識のうちに叫んだオスカルの声。その声

に、オスカル自身が驚いた。それは女の声だった。今まで、自分でも聞いたことのな

い、自分の中の女が叫ぶ声。オスカルの頭の中で何かがはじけた。

 襲いかかる恐怖の向こう側に見え隠れするものがある。オスカルはその姿をはっき

りと知りたくて、恐怖と真っ向から対峙しようと心を決めた。逸らしていた目をゆっ

くりと見上げる。そこには今まで見たこともない「男」がいた。アンドレの手は憎ら

しいほどに揺るぎ無くオスカルの腕の自由を奪い、体を動かすことも許さない。自分

の体とはまったく違う厚い胸を持つ男の体が迫るように圧し掛かり、彼の熱い唇で唇

を塞がれる。

途端にオスカルの瞳に涙が溢れた。恐怖感は未だ去り行く気配はないものの、思わせ

ぶりに見え隠れしていたものの姿を、今はっきりと見ることが出来た。

―そう・・・、アンドレは男で、私は・・・女・・・なのだ―

月に掛かっていた暗雲が引く様に、固く閉ざされた扉の鎖が経ち切られ、彼女の心は

封印していたものから解き放たれていく。同時に、認めてしまった事実が彼女に焼け

つくような苦しみと痛みを与えていた。

 何かが裂ける音がした。それが自分のシャツであることに気付いたとき、オスカル

ははっきりと確認した。目の前の「男」とそして「女」である自分の存在を。

「それで・・・どうしようというのだ・・・。」

この先にあるものが何かは彼女にもわからなかった。涙が止まらない。恐怖のための

涙でもあり、そして今まで目をそらしていた現実を知ってしまったが故の涙でもあ

る。

 目の前の愛しい人の涙が、アンドレの炎を鎮めた。静かな絶望感をも秘めた声が言

う「どうしようというのだ」と。自分は何をしようとしていたのだろうか、とアンド

レは愕然となった。感情にまかせてとうとう己が胸の内を吐露してしまっただけでな

く、力づくでオスカルの体の自由を奪い、唇を奪って・・・。高ぶっていた心に冷や

水が浴びせられ、高揚していた気持ちが谷底に突き落とされた。後悔と絶望だけが後

に残った。長い時間をかけて築き、守ってきた二人の関係を自分の手で壊してしまっ

たことへの恐怖。

「す・・すまなかった・・・。」

やっと声が出た。だがそれ以上何が言えよう。言い訳することもできない。

「こんなことは二度としない。神かけて誓う。」

アンドレは他に何も言えなかった。これで全てを失ってしまうかもしれないという絶

望感に肩を落としながら、オスカルに背を向けて去ろうとしたそのとき、

「なぜだ・・・。」

涙に咽びながらもオスカルが尋ねた。

「なぜ・・・今・・・こんなことを・・・。」

オスカルに背を向けたままのアンドレから、苦渋に満ちた声が返ってくる。

「・・・・・今まで言えなかった。女であることを重荷に思っているお前に、俺まで

もお前のことを女とみていることなど。言ってしまえば、お前の居場所がなくなると

思った。だから・・・言えなかった・・・。」

それだけの言葉を残して、アンドレは力なく部屋を出ていった。暗闇の部屋に残され

たオスカルはただ泣いた。突然の出来事に頭の整理がつかなくなっている。ずっと兄

弟であり、親友だと思ってきたアンドレが自分を女として愛していたと知らされた。

男の腕力で征服されようとした恐怖にも未だに体が震えている。だがそれよりも、彼

女の心のどこか片隅で、これまで自分が無理矢理封印していたものが緩やかにその戒

めを解こうとしていることに、オスカル自身驚いていた。破れたシャツを見詰める。

露になった下着の下にそっと息づく胸の膨らみ。オスカルはそのままの姿を鏡に映し

てみた。月明かりだけが僅かな光を鏡の中に与えて幽玄を浮かび上がらせる。そこに

は知らない顔をした「女」がいた。

「これが・・・私の顔か・・?」

毎朝その鏡に映す軍服を着たときの引き締まった顔はそこにはない。涙の後が幾筋も

頬を這い、目は力なく哀しみを映し出している。オスカルはそっと鏡に映る己の頬に

手を当ててみた。

「私は・・・女・・なのだ・・・。」

そこまでいうと、また涙が溢れ出し、両手を顔を覆って一人泣いた。その涙が少しず

つ、彼女の封印をさらに緩めていく。そしてそのことが意外にも一つの安心感を彼女

の中に広げていった。思春期の頃から、幼馴染が「男」になっていくのが怖くて、無

意識のうちにアンドレが男であるということを無理矢理忘れようとしたオスカルの心

の呪縛。そして、生まれたときから自分の性を否定され、次第に彼女自身も否定して

いたオスカルの心の足かせ。それらが解き放たれたときに初めて自由を得るのだとと

いうことに、幼馴染の愛の告白という衝撃の中でオスカルは少しずつ気付き出してい

た。オスカルは大きく溜息をした。涙の跡の残る顔を上げて今度はしっかりと鏡の中

の自分を見た。今、初めて、オスカルは自分が「女」であるという事実に真っ向から

向かい合えると思った。

 翌日、いつものように出勤の支度を整え、オスカルは玄関で手袋を侍女から受け

取った。ふと顔を上げると、馬車の横にアンドレがいた。いつもと変わらない風景の

中で、彼の表情だけがいつもと違っている。毎朝、明るい笑顔で朝の挨拶をするの

に、今日は視線を落としたままだった。睫が影を落とし、伏し目がちの顔を遠慮がち

にあげて、かろうじて

「おはよう」

とだけ言うアンドレの瞳は眠った痕跡がみられないほど、疲労し、狼狽していた。

「おはよう」

オスカルはいつもと変わらない口調を心がけてそういうと、馬車に乗り込んだ。アン

ドレも続いて乗りこむ。いつもなら、朝の軽い冗談を交わしながら笑い合うのだが、

今日はどちらも口を開こうとはしない。重い空気が流れた。オスカルは視線を逸らせ

て窓の外ばかりを見ているアンドレを見詰めていた。決して変わらない存在だと思っ

ていた彼が、昨夜の出来事で自分から離れていったら、と想像する。それは彼女に

とっては恐怖そのものだった。

(お前も、私から離れていくのか・・?フェルゼンのように・・・。)

オスカルのフェルゼンへの思いがそれまでの関係を変えた。ならばアンドレのオスカ

ルへの思いが、二人の関係を変えるというのだろうか。オスカルは耐えられなくなっ

て口を開いた。

「アンドレ。」

思わず彼の名前を呼んだ。その名の持ち主は哀しげな目をオスカルに向けた。瞳の奥

に絶望が見える。オスカルは昨夜の彼の行動を許容したわけではない。彼の思いを受

け入れたわけでもない。だが、たった一つ確信できるその言葉を彼に告げた。

「アンドレ、私たち二人がこれからどんな人生を歩くか私には解らない。だが、これ

だけは言える。子供の頃から何度も言っているが、今また改めてお前に言おう。私

は、お前がいるから、生きていけるんだ。そのことを忘れるな。」

静かな声だった。昨夜のことも、アンドレの思いも、そしてオスカルの苦しみも、す

べてを押し包むような、聞くものの体の中心にズンと響く声だった。アンドレはそれ

だけで充分だった。二人の関係が今後変わるのかもしれない。だが、今のアンドレに

とっては、少なくともオスカルが自分を排除しなかったことだけで充分だった。アン

ドレはそっと瞼を閉じ、ただ頷いた。

 

 

「何?アンドレ・グンディエが左目を失明しただと?!」

リャルト・アルクバインは、まっすぐに下ろした黒髪を振り乱すように振りかえっ

た。オランピア・ド・サライヴァ夫人が愛の行為で乱れた髪にブラシを当てながら鏡

越しにアルクバインに頷いた。

「何でも、オスカル様と例の黒い騎士を追いかけていたときに傷つけられたらしい

わ。黒い騎士の事件以来、宮廷にも姿を見せなくなったから、多分本当の話でしょう

ね。惜しいわ、美しい瞳だったのに・・・。」

サライヴァ夫人が髪を整え終わって振りかえると、背を向けるアルクバインの肩が僅

かに震えていた。

「リヒャルト?」

「影」としての能力を授けたアンドレの怪我に、アルクバインが泣いているのかと、

サライヴァ夫人は驚きを隠せず、近づいた。

「くっくっくっ・・・・。」

彼の肩が震えていたのは、泣いているのではない。不適な笑いを漏らしていたのだ。

そこには、まるでサライヴァ夫人の存在など目に入っていないような、冷たい凍り付

くような瞳があるだけだった。

 

 馬の手綱を引きながら、アンドレがどこかに出かけようとしているところを見つけ

たオスカルは不思議そうに声をかけた。

「アンドレ、どこに行くのだ?」

アンドレが大きく頭を左に回してオスカルを見た。左目を失明してからというもの、

視界が狭くなったため、頭の動きが以前より大きくなっている。左側を見るときは不

自然なほどに頭を左に回す。

「ああ、ちょっと頼まれものがあってパリまで行って来る。」

あれから、二人の間にはそれまでと変わらない空気が戻っていた。しかし二人とも、

心の奥で何かが燻っていた。

「お前、目は大丈夫なのか?」

「ああ、この状態に慣れてきたよ。心配するな。すぐに戻る。」

いつものこぼれる笑顔をオスカルは手をあげて見送った。

 一方のアンドレは馬の背で一人ごちていた。

「ちょっと頼まれもの、か。はん、俺も嘘が上手くなったもんだ。」

アンドレは黒百合のアンヌのところに行くつもりだったのだ。目に効く薬草があるか

教えてもらおうと思っていた。

 黒百合のアジトのある下町に近づくと、たちこめる悪臭がアンドレの鼻をついた。

「パリはますます酷くなっているな・・・。」

馬を下りて、辺りを見ながら、歩き出した。ここに来るたびに物乞いの数が増えてい

るような気がした。道に座りこむ物乞いのうちの一人が、アンドレを見つけるとおも

むろに立ち上がって近づいてきた。

「ダンナ・・・あんたからは貴族の匂いがプンプンするぜ。おいらたちも、お目こぼ

しに預かりたいもんだねぇ。へっへっへっ・・・。」

虚ろな目をした物乞いの瞳が一瞬光ったのをアンドレは見逃さなかった。と、その瞬

間、アンドレの後から口をふさぎ、体を押さえ込まれた。

「な・・・!!」

塞がれた口に当てられた布から、奇妙な匂いがしたと思った途端、アンドレの意識は

途絶えた。

 

 

A suivre

 

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