影   a l’ombre de Andre・・・

=24=

 

 オスカルの居間に、窓から茜色の光が差し込んでいる。オスカルは長椅子に座った

まま一人物思いにふけっていた。アンドレから衝撃的な愛の告白をされたあの夜以

来、彼女はずっと自分の中の女というものを見詰めていた。武官としての日々に、無

意識のうちに自分で「女」を追い出していたのかもしれないと、オスカルは過ぎた時

間を胸の痛みとともに思い出していた。自分の「性」をどこかに置き去りにすれば、

人はその根源をなくす。一つの「性」を授けられてこの世に生まれてきた意味を認識

してこそ、自分のすべてを受けとめられるのだということに、オスカルは長い沈黙の

うち気付き始めていた。

 ドアを誰かがノックする音がした。

「誰だ?」

「オスカル様、ばあやでございます。」

「ああ、ドアは開いているよ。」

遠慮がちにドアが開いて、乳母のマロン・グラッセが入ってきた。

「あの・・・オスカル様、アンドレはどこに行ったのでしょう?」

「あいつは頼まれ物があってパリに行くと言っていたが・・・。ばあやの使いではな

かったのか?」

「いいえ、とんでもない。ちょっと用事があって探しているのですが、誰に聞いても

知らないとしか答えなくて。それでオスカル様のご用か何かかと思ったのでございま

すが・・・。」

「午後に出かけるときにはすぐに戻ると言っていたのだが、まだ戻らないのか?」

「はい・・・。まったく、あのとうへんぼくはどこに行ったんでございましょう。あ

あ、申し訳ありませんでした、オスカル様。きっとそのうち戻ってまいりましょう。

失礼いたします。」

乳母はそういって、部屋から出ていったが、オスカルは何故か心がざわついていた。

あの夜以来、表面的にはそれまでと変わらない二人だったが、それぞれの心の中で何

かが変わろうとしているのを感じていた。アンドレは相変わらず男同士のようにオス

カルに接していたが、時折みせる表情に、オスカルへの溢れ出す思いを隠さないよう

になったし、オスカルも、そのアンドレの表情にとまどいながらもこれまでのように

自分と彼の間に存在する「性別」に目を背けることはなかった。

「まさか、あいつが私から離れていくようなことはないだろうが・・・。」

オスカルは窓から夕闇が迫る庭を見詰めながら、広がる不安を抑えられずにいた。そ

してその不安が的中するように、アンドレは夜になっても、次の日になっても戻って

こなかったのだ。

 

 アンドレは目に付き刺さるような強い光で目が覚めた。右目に手を当てて、その光

が何者であるかを確かめようと瞼をゆっくりと開くと、何本ものろうそくが灯された

シャンデリアが天上から自分のすぐ上まで下ろされていた。その光源から目をそらし

て、目を明るさに慣らす。横たわっていた体を起こし、辺りを見まわすと、そこは見

なれた部屋。石に囲まれた壁、大きな机と椅子だけの殺風景な部屋は、かつて毎日の

ように通った、記憶の中の風景で、そして必ずその風景の中には一人の人物がいた。

部屋の奥の薄闇の中からその人物の影がアンドレに近づいていった。

「あなたは・・・。」

「久しぶりだ、アンドレ・グランディエ。」

黒い髪をまっすぐ腰まで下ろし、いつもの無表情な瞳が今はある種の残忍さを湛えて

こちらをみつめている。

「ムッシュウ・アルクバイン!」

 

 アンドレの行方がわからなくなって2日が経っていたが、オスカルはなす術もな

く、一応は近衛隊の連隊本部に顔を出していた。その間、平静を装いながらもアンド

レの身を案じ、その一方で彼が自ら望んで屋敷を出ていったのではないかという猜疑

心に苛まれていた。居たたまれない思いが彼女のいつもの冷静さを失わさせていた。

「オスカルさまー!」

ジャルジェ家の馬丁が仕事から戻ったオスカルのところに慌てたように走ってきた。

「た、たいへんです。アンドレが乗っていった馬が、戻って参りました。」

「何だと?それで、アンドレは?」

「へぇ、それがアンドレの姿はどこにも。いったいあいつはどうしちまったんでしょ

う。」

常日頃からアンドレが馬の世話を手伝っていたため彼と仲の良い馬丁は、心配でたま

らないといった様子に、唇を噛み締めた。

「その馬は、いつ、どういう状況で戻ってきたのだ?」

オスカルはアンドレを乗せずに戻ってきたという馬の様子から、何か手かがりをさが

そうと、足早に厩舎に向かった。

 馬は鞍をつけたままだった。オスカルはしばらく考え込み、そして馬丁に向かって

「ばあやにしばらく留守にすると伝えてくれ。アンドレは私が必ず連れて戻ると。私

を信じて待っていろと。」

と告げるや否や、自分の馬を駆っていってしまった。オスカルは不安だった。馬が鞍

をつけたまま戻ってきたということは、間違いなくアンドレの身に何かが起こったと

いうことだと確信できる。彼が自分で望んで姿を消したのではないことは確かだ。そ

のことが解ればあとは探し出すしかない。きっと何かに巻き込まれたか何かだと、オ

スカルはパリに向かった。何かあてがあるわけではない。ただ、彼女の頭をかすめる

ある不安が次第に大きくなっていく。アンドレはかつて黒い騎士の姿でパレ・ロワイ

ヤルまでオスカルを救出に乗り込んだことがあるが、あのとき、何かに気付き、アン

ドレの身を拘束することを狙う者がいたとすれば、そう考えられないこともない。黒

い騎士事件が解決してしばらく時がたっていたが、可能性がまったくないともいいき

れないほど、今のパリは何が起こっても不思議ではなかった。もし、パレ・ロワイヤ

ルに捕らわれているのだとすれば、また自分のせいで彼の身を危険に晒すことになる

と、オスカルの心臓がどくどくと脈打ちだした。

「あのときはアンドレが自分の左目を犠牲にしてまで私とロザリーを助けてくれた。

今度は私がお前を助けるぞ。」

オスカルは藁をも掴む気持ちでパリに馬を走らせた。

 アンドレは手かせと足かせを嵌められたまま椅子に座らされ、アルクバインと対峙

していた。アルクバインは何も言わず、アンドレが初めてこの館を訪れたあのときと

まったく同じように短剣を指先で弄びながら無感動で冷ややかな目をアンドレに向け

ている。

「何が・・・望みですか。」

アンドレが尋ねても、アルクバインは片方の唇を持ち上げて皮肉っぽく笑い、すぐさ

ま凍り付いた表情に戻る。そしてゆっくりと立ち上がり、アンドレに近づいた。短剣

の切っ先がアンドレの閉ざされた左目に近づいていった。

 パレ・ロワイヤル。国王の従兄弟、オルレアン公の居城でもあり、当主のルイ・

フィリップが1784年に宮殿の一部をアパルトマンやカフェなど数多くのテナント

に貸し出したことから、真夜中までも多くの人で賑わうパリ随一の歓楽街。そしてそ

の一角には春を売る女たちの嬌声と男たちの戯れる声が毎夜の如く響き渡っていた。

薄闇の中、女たちが“仕事”を始める時間、オスカルは馬を降り立ち周囲を見渡し

た。黒い騎士の捜査のために訪れて以来だが、今はアンドレの行方の手がかりになる

ものなど何もなく、どうしたものかと考えあぐねていた。そんな彼女の視界の端に道

行く男たちを値踏みしながら見詰める女が映った。オスカルは思い出していた。宮廷

で、あるいは貴族の館で、アンドレを見る貴婦人や女の使用人たちの視線を。最初は

オスカルを見ているのかと思っていた視線が、中には彼女を通り越して隣の黒髪の従

者を追いかけていたことが何度かあった。オスカルにとってはあまりに身近で、アン

ドレの容姿などを気にもとめなかったが、彼が女の視線を集めるに充分な容姿である

ことを今更ながらに思い出していた。オスカルは意を決したように、その男を値踏み

する女に近づいていく。男よりもこうした女たちが男をよく見ているもの、しかも見

目のいい男なら記憶にも残るだろうと、アンドレを見た記憶があるかどうかを尋ねよ

うと思い、彼女に声をかけた。

「ちょっと尋ねたいのだが・・・。」

「ひっっっっっ。」

女はオスカルを見て、一瞬怯えた声を出し、そこにへなへなとへたり込んでしまっ

た。

「お、おゆるしください、天使様、あたしは好きでこんな商売やっているわけじゃな

いんだ。」

「何を言っている。私はお前に尋ねたいことがあるのだ。」

「あ、あんた・・・人間?」

「ああ、れっきとしたな。」

「本当に?」

「くどい!それより急いでいるのだ。人を探しているのだが・・・。」

オスカルの言葉にごくりと唾を飲みこんだ女は立ち上がってまじまじと彼女の回りを

回りながら見詰めた。

「・・・・・へぇぇぇ、こんな綺麗な男が世の中にはいるんだねぇ。あたし、あんた

みたいな綺麗な男、生まれて初めて見たよ。へぇぇ。」

どうやらその女はオスカルを男と思い込んでいるようだが、オスカルは敢えて今はそ

れを否定するつもりはなかった。男でいたほうが協力を得られそうな気配だったから

だ。

「お褒めに預かり光栄なのだが、私は急いでいるのだ。人を探している。黒髪に隻

眼、背は私よりこのくらい高く、そして・・・その・・・多分、世間一般でいうと見

目がいい・・・と思う。」

「へぇ、今夜は驚くことばかりだねぇ。あんたみたいに綺麗な男から綺麗といっても

らえる男っていったいどんな男前なんだい?是非拝みたいもんだ、あんたのその探し

人。」

女は目を丸くしながらも、尚もオスカルをじろじろと舐めるように見ていた。

「で、その人はあんたの何?」

「私の兄弟だ。」

「だってその人は黒髪って。あんたはこんなすごい金髪なのに、その兄弟が黒髪なの

かい?まあいいや、今日はあんたを見ちまったから、商売する気になんかならなく

なったよ。あんたを見た後なら、どんな立派な男だってカスに見えるね。いいよ、あ

んたを手伝ってあげるよ。ただ、店のマダムにはあんたが私を買ったってことにして

くれるかい。」

女はそういうと、少し離れたところにある彼女が勤める娼館に誘う。オスカルはその

後に続いた。店の中はオスカルにとっては、初めて目にする世界で、むせ返る白粉と

香水の匂いに人間の欲望そのものを浮かび上がらせている。貴婦人とは違う派手に着

飾った女たちと、それに群がる男がオスカルに好奇の眼差しを注ぐ。彼女はそれに多

少の居心地の悪さを感じながらも、アンドレの手掛かりを掴むことを優先し、男を装

い、さっきの女の客として彼女を外に連れ出すために相応の金を払った。

「あたしはそんないい男をここしばらくみちゃいないけど、仲間に聞いてやるよ。」

女はこの状況を何故か楽しんでるように見えた。

「すまない。私はどこにいればいい?」

「ついておいでよ。あんたがここにいたら、妙な気を起こした男が何をしでかすかわ

かったもんじゃない。そのテの男の好みだからねぇ、あんた。」

「そのテ・・・?」

「あははは、いいからついといで。」

女はそういって、界隈の娼館を手当たり次第尋ねては店の女たちに聞いて回ってくれ

た。だが結局、すべての娼館を当たっても手掛かりはつかめなかった。

「やはり見た者はいないか・・・。」

「そうがっかりするもんじゃないよ。そうだね・・・、あの人なら何か知ってるか

も。」

「まだ何かあるのか?誰だ、その人とは。」

「あたしたちみたいな商売しているとね、ありがたくない病気をもらっちまうことも

あるんだけどね。医者は値踏みして治療代をふっかけやがるんだど、ほとんどタダで

薬を調合してくれる人がいるんだ。その人は何者かは知らないけど、どうやらいろん

な情報を持っているみたいだから・・。こうなったら行ってみるか。ちょっと遠いん

だけど、あんた大丈夫かい?」

「ああ、どこまでも行くぞ。」

「ついといで。」

 夜も更けたジャルジェ家の台所ではマロン・グラッセが眠れない夜を一人座って過

ごしていた。じっと組んだ手を大きなテーブルに乗せたまま、彼女はオスカルとアン

ドレの無事を祈るように目を閉じていた。

「ばあやさん、まだ起きていたの?」

通りかかった若い女中が声をかけた。マロン・グラッセは憔悴しきった顔を上げ、力

なく微笑んだと思ったら、すぐまた目を閉じた。

 

「アンヌ、ちょっといいかい?」

「おや、どうしたんだい、今はあんたのかきいれどきだろうに。」

黒百合のアンヌは突然姿を現した娼婦を見て驚いた。以前に何度か薬を調合してやっ

たことがあり、それ以降、何かとそのときの礼だといっては客からもらったものを

持っては尋ねてきていたが、彼女達の仕事の時間である夜に来たことはかつて無く、

何事が起こったのかとアンヌは目を丸くした。

「ああああ、今夜はね、いいんだよ。あたしのもとに天使様が舞い降りたから。それ

より、人探しの手助けをしてるんだが、あんたなら何か知っているかと思って連れて

きたんだけど。」

「誰を?」

「ちょいと、あんた、入りなよ。」

その娼婦が促すように外に声をかけた。入ってきた黄金の髪に近衛隊の将校の軍服を

来た人物の姿をみて、アンヌは息が止まるかと思った。まさに大天使が羽を隠してこ

の掃き溜めに舞い降りたかのようだったからだ。

「この人がね、兄弟を探してるんだって。」

「突然お尋ねして申し訳ない。急いでいるので、このような夜分に不躾に伺ったこと

を許して欲しい。実は私の兄弟を探しているのだ。黒髪に隻眼、背はこのくらいで・

・・。」

「で、かなりの男前・・・だろ?」

オスカルの説明の途中で娼婦が茶々をいれる。

「かなりなどとは言っておらん。いや、どの程度かは私にはわからんが、とにかくあ

いつのことを目で追いかける女をよく見たから・・・。」

アンヌは居合わせた、同じく黒百合のイアンと顔を見合わせた。そしておずおずとオ

スカルに尋ねた。

「あんた、もしかして、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ様?」

オスカルは驚いた。こんなパリの下町の下町で、しかも掃き溜めのような路地裏にあ

る小さな部屋の住人が自分のフルネームを言い当てたことに。

「なぜ私の名前を知っている?!・・・アンドレ・・・アンドレを知っているのだな

?!どこだ、あいつをどこにやった??!!」

思わず激昂して声を荒げたオスカルをアンヌが制した。

「ちょっとまっておくれよ。あたいたちはアンドレがどこに行ったかなんて知らな

い。確かにあたいたちはアンドレを知っているよ。あの子がこんな小さなときから

ね。事情を話してはくれないだろうか、オスカル・フランソワ・ド・シャルジェ

様。」

オスカルはわずかに躊躇った。こんなパリの片隅にアンドレを知っているという人達

がいる。果たしてこの状況を彼らに教えていいものかどうか。黒い騎士に関わりのあ

る人間ならば、と思ったものの、今はどんな小さなことでもアンドレに近づくための

手掛かりのほうが欲しかった。オスカルは2日前からアンドレが忽然と姿を消したこ

とを話し出した。

「ふ・・・ん。」

話を聞き終わってアンヌとイアンは少し顔を見合わせた。

「オスカル様。あたいたちに手掛かりがないわけじゃない。」

「ならば・・。」

身を乗り出すオスカルの手にアンヌが手を重ねて抑えた。

「でもこれは絶対じゃないんだ。もしかしたら・・・という程度なんだけど。ただあ

たいたちはそれをあなたに教えることで、相当のリスクを負うことになる。」

アンヌは試すようにオスカルを見詰めた。

「どうすれば教えてもらえる。」

オスカルは真剣な眼差しを返しながら

「アンドレを取り戻すためなら、私は何でもするぞ。」

と言った。オスカルの真摯な瞳の輝きと、意を決した口調を確認したアンヌはイアン

を見て、頷きあった。

「ある人が、数日前にあたいのところを尋ねてきた。普段はあまり向こうから出向か

ない人なんだが、珍しく突然やってきて、あたいに麻酔作用の薬を調合するよう依頼

した。常日頃から普通じゃない行動をする人だから、あたいも特に気を留めずお望み

の薬品を作ってやったのさ。時期的にいっても、その人があたいの薬を使ってアンド

レを拘束した可能性がある。もし、それが事実だとすれば、あたいはその人を許さな

い。あたいの薬をそんなことに使うなんて。」

「その人の居場所はわかるのか。」

「ああ。」

アンヌは頷いた。頷きながらも大貴族の跡取りがこうしてアンドレのために必死に

なっていることを不思議に思っていた。

(あたいは今まで、アンドレの姫さんとしか思ってなかったけど、この人は唯の姫さ

んじゃないようだ。姫というよりは、高潔な魂に守られた騎士。なるほどね。アンド

レ、あんたの女の趣味は相当いいよ。ただのお飾りの女じゃなく、こんなすごい女に

惚れたんだから。)

「今はどんな手掛かりにでも賭けたい。アンヌ、私をその人のところに連れていって

くれ。」

オスカルのこの言葉に、アンヌも意を決した。アルクバインの館を他人に教えること

は、自分たちの活動にも支障を来すことは目に見えて明らかだが、それでもアンヌ

は、こうしてまったくツテのないオスカルがアンドレを探して自分のところに来たこ

とを神の意志だと思い、オスカルを伴って、イアンと一緒に真夜中の道をアルクバイ

ンの館に急いだのだった。

 

A suivre

 

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