影   a l’ombre de Andre・・・

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 アルクバインの持つ短剣がアンドレの左目に迫った。アンドレはそれから顔を背け

ようとせず、じっと残された右目で目の前の男が何をしようとしているのか見定めよ

うとした。11歳のときに出会ってから、自分に数々の能力を授けた男。だがこれま

でも、この男の考えていることはまったくもって理解できなず、アンドレ自身も、自

分なりの「影」としての生き方をみつけ、この男から離れていった。その男が、今、

自分の傷ついた目に短剣の切っ先をつき付けている。何をしようとしているのか。短

剣がアンドレの左目の前を覆っている前髪を持ち上げた。アルクバインはアンドレの

閉ざされたその目をじっと見詰めていた。

「これが答えか。」

アルクバインの冷ややかな声が問う。アンドレは何も答えず、ただアルクバインを見

上げた。

「お前の光は、所詮お前など使い捨ての人間と思っていたということだ。その証拠が

この左目。お前の目など、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェにとってみれば、

失おうと傷つこうと取るに足らないものだということだ。」

冷ややかな中に、勝ち誇ったような口調のアルクバインを見詰めるアンドレは彼の言

葉に激昂することも反発することもなく、ただ目の前の男を哀れだと思った。

「可哀想な方だ、あなたは。」

一つになったものの、少年の頃と変わらず輝く黒い瞳がアルクバインを捕らえて更に

静かさな光を放つ。意外なアンドレの言葉にアルクバインのほうが感情を高ぶらせ始

めた。

「何だと!」

口をゆがめて言う語尾が俄かに震えていた。

「私の何が可哀想だと言うのだ。」

「俺が左目を失ったことがどんな意味を持つのか、それをそんな風にしか考えられな

いあなたは哀れだ。」

11歳のあのきらきらとした瞳の少年は成長して、今、一人の男として威風堂々とア

ルクバインに対峙していた。アルクバインは、自分が歩いた影としての道を、アンド

レもまた同じように歩くと信じてきた。自分が教えた通りの道を。だが、アンドレは

自らアルクバインとは違った影としての人生を選択した。それがアルクバインを不安

に陥れていったのだった。彼はアンドレに自分の人生を映しだし、その人生が間違い

ではなかったと確認したかった。そのためにはアンドレが自分と同じような生き方を

しなくては意味を持たない。ただ一人の人の影になれる人間など、なかなかいるもの

ではない。彼もアンドレとの出会いを待ち焦がれていたのだ。己の人生を踏襲できる

人間との出会い。しかし様々な知識を注いだアンドレが、自分とはまったく違う方法

で影としての人生を歩き出したことは、アルクバインを真綿で首を締められるような

苦しみに追いやった。そして今、彼は自分と違う選択をしたアンドレが左目の光を

失ったことで、アンドレの選択が間違いだったと証明したかったのだ。

 突然、石の壁のように設えた扉が開いた。

「アンドレ!」

飛びこんできたオスカルにアンドレとアルクバインが降り返った。

「オスカル!!」

オスカルに続いてアンヌとイアンもシャンデリアの光が煌煌とさす地下室に飛び入っ

た。

「お前達!!」

アルクバインはいよいよ眉根を吊り上げて怒りを露にしていた。オスカルはアンドレ

の左目にその切っ先をあてがっているアルクバインが手にしている短剣を見た途端

に、怒りの炎を燃え上がらせた。

「きさま!アンドレに何をする。今すぐその短剣をアンドレから離せ。アンドレを傷

つけるものを、私は何であろうと、誰であろうと許さん!!」

オスカルは手にしていた短銃をアルクバインに向けて構えた。

「ふっふっふっ。許さんだと。ならばこいつのこの左目は何だ。この元凶はお前が

作ったのだろう!!」

不適な笑いを込めたアルクバインの言葉にオスカルは一瞬ひるんだ。

「そ、それは・・・。」

「この目の失明は、誰が原因でもない。オスカル、挑発に乗るな。」

「何故来た、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。貴様にとってアンドレなど、

取るに足らん人間だろう。わざわざ自らここに飛びこんでくる程の存在でもあるま

い。」

短剣を向けていたアンドレからオスカルの方に向かって歩きながらアルクバインは何

かにつかれたように冷ややかな目でオスカルの顔を凝視した。その表情は歪み、どこ

か怯えていた。

「アンドレが私にとって取るにたらん存在だと?どこをどう押せばそのような考えに

なる。これまでもアンドレは私を命がけで守ってくれた。そして必要とあらば、私も

命がけでこいつを守る。私達はお互いを守りあいながら一緒に生きてきたのだ。貴様

にはわかるまいが。」

オスカルの言葉にアルクバインは信じられないものを見るような表情に変わった。

「ならば貴様は本当に、アンドレのために命を賭けられると?」

うめくようなアルクバインの声が震えている。思わず問うてみたものの、彼はオスカ

ルの答えが確実に彼を打ちのめすであろうことを咄嗟に予測し、尋ねたことを後悔し

た。

「アンドレを救うためなら、今ここでお前と決闘できる。」

オスカルの答えは予測通りアルクバインを絶望させた。

「この男のために命をかけられるというのか?伯爵令嬢で、王后陛下のご信任も厚い

近衛連隊長が、ただの従卒のために、命を賭けられるというのか?!」

アルクバインがオスカルの周囲を彼女を試すように見詰めながら歩く。そのアルクバ

インから視線を逸らすことなくオスカルは睨みつけていた。

「あいにくだな、リヒャルト・アルクバイン。あなたの望む答えは私からは聞けん

ぞ。」

オスカルの蒼い瞳に一瞬、炎が燃え上がった。

「アンドレのために私は命を賭ける。」

なぜこれほどまでに冷静でいられるかと思うほど、静かな口調。オスカルの揺るがな

い心が彼女の強靭な精神を支えていた。オスカルは短銃を納める代わりにスルリと剣

を鞘から抜いた。

「オスカル、やめろ!この男の剣はお前のような正統な剣術ではない。どんな手をつ

かっても相手の急所を狙う野獣のような剣だ。やめろ!」

アンドレが叫ぶ。オスカルはニヤリと笑ってアルクバインを尚も睨む。そして顔を少

しアンドレに向けた。

「アンドレ、もし私が先に逝ったなら・・・。」

「オスカル!バカなことを・・・。」

「私はお前を待っているぞ。」

アルクバインの短剣がオスカルの剣の刃に交わったその瞬間。アンヌとイアンによっ

て手かせと足かせを解かれたアンドレが二人の間に割って入った。アルクバインの

切っ先がアンドレの胸をかすめた。

「アンドレ!!」

アンドレがアルクバインに対峙する。

「ムッシュウ・アルクバイン。何故あなたが俺をこうやって拘束したのか、やっとわ

かった。あなたはオスカルを試したかったのだ。こうして助けに来るかどうか。あな

たはきっと、こいつが来ないと信じたかったのだろう。それは多分・・・あなたが影

として仕えたポンパドール夫人ならば、あなたを助けに来なかっただろうから。」

アンドレの言葉に、アルクバインは声を荒げた。

「・・・だまれ!だまれ!」

「ムッシュウ・アルクバイン。あなたは俺とオスカルに自分とポンパドール夫人を重

ねていたようだが、俺たちとあなたたちは違う。あなたは本当は影になりたかったの

ではない。あなたは光になりたかったのだ。光になって、ポンパドール夫人と同じ光

の輪の中に入っていきたかったのだ。あなたは、彼女を愛していたのではない。あな

たはあの方に愛されたかっただけだ。いや、ポンパドール夫人でなくとも、あなたは

誰かに愛されたかった。ただ、それだけで影の任に堪えた。」

アルクバインが持っていた短剣は彼の手から滑り落ち、その手が耳をふさいで体全体

が震え出していた。

「俺は違う。俺はオスカル以外の誰の影にもなりたくない。俺はオスカルを愛し、影

になることで自分の人生を照らし出して来た。愛しているから影になれる。愛される

ことを待つだけのあなたは本当の影にはなれなかった。」

「だまれ!!」

アルクバインは震えながら怒鳴るだけだった。

「あなたが最初に俺に教えてくれた通り、光あるところに影があり、影があるところ

にまた光があるように、俺はオスカルなしでは俺でいられなくなる。」

アルクバインが体全体を震わせて、最後の審判を聴くようにふさいでいた耳から手を

離しアンドレにゆっくりと顔を向けた。

「俺は、影だ!」

静かに、そして力強く、誇らしげに響くアンドレの言葉を聞いてアルクバインの正気

は均衡を失っていく。

「・・・出て行け・・・。出て行け!今すぐ、私の前から立ち去れ!!」

声を荒げて乱れるアルクバインの姿を、そこにいたアンヌもイアンも驚いたように見

ていた。アンドレはオスカルとそしてアンヌ、イアンに目で促し、部屋から出て行こ

うとした。そして立ち去り際に背中越しにアルクバインに最後の言葉を残した。

「ムッシュウ。それでも俺は、あなたに感謝しています。あなたは紛れもなく、影と

しての一つの道を示してくださった。それが俺の歩くべき道でなくとも。あなたが示

してくださったからこそ、俺はその中から自分なりの道を探り当てることができたの

です。」

そう言い残して、永久に石の壁のその地下室を後にした。残されたアルクバインはそ

の場に崩れ落ち、いつまでも止まらない震えをどうにか抑えようとうずくまるように

体を抱え込んでいた。

 

 アルクバインの館から出てきた4人はお互いを見詰め合って、かすかに安堵の微笑

みを漏らした。

「アンヌ、イアン、すまなかった。助かったよ。あんたたちがオスカルを連れてきて

くれて。」

アンドレがほっと小さく息を吐きながら言った言葉に対して、アンヌは首を振った。

「あたいたちは何もしちゃいない。この人が、何のツテもないあたいのところに辿り

ついた。きっと神様があんたたち二人を断ち切る事をなさらなかったのさ。」

アンヌが微笑んでアンドレを見上げた。

「アンヌ・・・。だが、この場所をオスカルに知られると、あんたたちにとって都合

が悪いだろう。」

アンドレの問いにアンヌは再びかぶりを振った。

「いいや、もうあたいたちも、そしてアルクバインのだんなもお互いを必要としなく

なっただろう。」

アンヌの隣でイアンが頷いた。

「あなた、オスカル様。あたいはずっとあなたにお目にかかりたかったんだ。こんな

形ではあったけれど、会えて嬉しかったよ。」

アンヌはオスカルに向かってにこやかに笑いかけた。

「私も、会えて嬉しかった。感謝する。あなた方のおかげで、アンドレを取り戻すこ

とが出来た。私はまったく見当違いの所を探していたのだから。」

アンヌは改めてオスカルの美しさに見惚れていた。姿形の造形だけでない、潔く、や

さしい魂の美しさに。その美しさを心に刻み込むように頷きながら、アンヌはアンド

レにも笑顔を向けた。

「アンドレ、また気が向いたら、いつでもおいで。あたいたちはあんたのことが大好

きなんだから。」

「ありがとう、アンヌ。」

「ああ、それから・・・あんたの口から直接話した方がいいと思って、あんたとあた

い達とのつながりをオスカル様には言ってないからね。」

そう言って片目を瞑るアンヌにアンドレも静かな笑みを返した。

「イアン、あんたも。ありがとう。」

アンドレが差し出した手を大男のイアンががっしりと握り返した。そしてアンヌとイ

アンは二人してパリのあの掃き溜めのような一角に帰っていった。その二人を見送る

オスカルの顔にかかる金色の髪が風に揺れている。その様子を見てアンドレは胸が痛

くなった。自分のためなら命を賭けることも惜しまないと言いきったオスカル。それ

だけでアンドレはこれからの人生を生きて行けると思った。

「オスカル・・・俺はお前にずっと隠していたことがある。」

アルクバインや黒百合の連中との関係を説明しようとしたアンドレの言葉をオスカル

が止めた。

「アンドレ、言わなくていい。何もかも、見当はつく。お前がどういう経緯で彼らと

つながったのかは知らない。だが、もしもお前が誰かに強制され、その義務感から今

までずっと私を守ってくれていたのなら、私はきっと傷ついただろう。しかしお前

は、自分で選んで私の影でいると言ってくれた。そのことが、どれほど私を救った

か。」

「オスカル。」

「アンドレ、これからもよろしく頼むぞ。私はお前なしでは何もできないのだか

ら。」

「オスカル。」

「・・・空が白み出した。アンドレ、家に帰ろう。ばあやが心配しているぞ。」

「ああ・・・。」

既に二人に余計な会話は必要なかった。これまで共に歩いてきたように、これからも

こうして肩を並べて一緒に歩いていくのだと、二人は無意識のうちに確信していた。

オスカルは、いなくなったアンドレを探し、こうして奇跡のように彼に辿りついたこ

とに思いを馳せる。もしかしたら、自分の行き着くところには、必ずアンドレがいる

のではないだろうかと考える。それが運命なのだと。そして、アンドレが自分は影だ

と言いきったあの瞬間、強烈に目の前のアンドレが欲しいと思ったことを思い返して

いた。今まで、ほかの誰にも感じたことのないあの焼けつくような思いは、偽りない

彼女の心の声だった。しかし今はその心の声が静かになりをひそめている。それで

も、予感がしていた。

「いつか・・・。」

オスカルの小さな声にアンドレが彼女を見た。

「ん?」

「いや・・なんでもない。」

そう言いながらもオスカルは自分の心の中で静かに自分の声に耳を傾けていた。

(いつか・・・私はお前に告げるのだろうか、お前を・・・愛していると・・・。だ

が・・・今ではない。そう、今では。まだだ・・・。)

ジャルジェ家の屋敷に続く道を並んで歩く二人の頬に朝焼けの輝かしい光が差してい

た。

 

A suivre

 

 

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