a

 影   a l’ombre de Andre・・・

=3=

 オスカルを仕官学校に送った後、アンドレはジャルジェ家の馬車とは違う馬車に乗

り込んだ。あの男・・・リヒャルト・アルクバインの館に向かうのを誰にも知られな

いよう、馬車は専用に雇った辻馬車で、御者も毎日同じ男がやってくるが、仕官学校

とアルクバインの館を決まった時間に往復するのみで、御者とアンドレが言葉を交わ

すこともない。快活なアンドレは、ジャルジェ家の御者とはしょっちゅう話をして笑

い合うのだが、この辻馬車の御者とは挨拶の言葉さえ交わさない。そのほうがお互い

のためだということを、わずか11歳にして彼は心得るほど老成していた。

 アルクバインの館までの道は、毎日通っていても、どこか異空間に自分を運ぶ道の

りに思えて仕方なかった。アンドレが館に通い出して、早3カ月が経とうとしてい

る。

「おはようございます、ムッシュウ」

地下室には、朝からろうそくの灯が煌煌と揺らめいていた。そのろうそくの灯の中か

ら現れるように、冷たい目をしたアルクバインが歩み寄る。

この男は寝ているのだろうか・・・。アンドレは未だにこの男の存在が現実のものか

どうか掴みきれない感覚でいた。この男は寝るとか食事をとるといった現実的な空気

をまったく感じさせない。それがますます男の存在を夢幻のように思わせていた。こ

れまでの3カ月で、アンドレが教えられたのは、護衛術の基本。危険度の分析やその

評価、危機管理から始まり、もしものときの応急手当、実際の護衛術。素直なアンド

レは、砂が水を吸い込む如くそれらの知識をすぐに我が物としていた。

「今日はこれからパリに行くぞ。」

アルクバインが感情のない声で言った。

 パリに向かう馬車の中でも、アルクバインの講義が行われた。彼の抑揚のないしゃ

べり方は、神経を集中させないと話の内容が頭の中から滑りぬけていくようになる。

だが、簡潔に語る彼の講義は、余計な回り道をせずに、常に核心のみを説く。アルク

バインの知識は、流水のように流れ出て、そしてアンドレの中の知識の壷に貯まって

いく。

「パリまであとどれほどか解るか?」

「ベルサイユからパリまで、通常馬車で2時間弱。ムッシュウの館はベルサイユから

少し離れたところにありますので、それより少しかかるとして、あと1時間くらいで

しょうか。」

「わたしの館がベルサイユよりパリから離れていると、何故思うのだ?」

「ベルサイユからパリへ行くとき、いままでムッシュウの館に行く道を通らなかった

からです。」

「ベルサイユからパリに行く道は何通りもあるぞ。」

「しかしどの道も、沿道には貴族の館はもちろん、人家や商店などをみることができ

ます。ムッシュウの館の周辺にはそのようなものが見当たりませんので、ベルサイユ

からさらに郊外であると判断しました。」

「その読みが間違っていなければよいがな・・・。」

アルクバインの言葉にアンドレは不安になった。自分が間違っているのか・・・彼の

館はもしかしたらベルサイユよりずっとパリに近いのかもしれない。そう思うと己の

判断に自信を失い、アンドレは馬車の窓の外に目をやった。今までベルサイユからパ

リに向かう道では見たこともないような道だった。あまり整備もされておらず、行き

交うのは農民らしき人ばかり。パリに向かうというよりも、さらに郊外に向かってい

るようにさえ思えた。

 馬車が急に坂道を下り始めた。どうやら道なき道を走っているようで、乗り心地は

最悪だ。アルクバインは何も言わず、ただ目を閉じて馬車の揺れに身を任せていた。

アンドレはどこを走っているのか確認したくて馬車の窓からずっと外を眺めていた。

木々が飛ぶように視界の端から端に消えていく。まだ、森の中か・・・と思った途

端、ガタンと平坦な道に戻ったかと思うと、急に辺りが賑々しくなった。

「こ、ここは・・・!!」

「そう、パリだ。残念だったな、お前の読みはまだまだのようだ。パリに向かう道な

ど、お前がお供をする貴族が使う道ばかりではないことをよく頭に叩き込んでおくが

いい。パリとベルサイユを結ぶ道には、貴族が使う道、商人が使う道、農民が使う

道、そして道なき道と数えきれんほどあるのだ。己が知っている世界だけが、この世

の全てではないということをよく憶えておけ。」

そう言われてアンドレは何かで頭を殴られた思いがした。彼がベルサイユで生活し始

めて3年が経つが、その間ずっと貴族の社会の中にどっぷりと漬かっていた自分を改

めて思い知った。

 アンドレとアルクバインを乗せた馬車はパリのモンパルナスを通りすぎ、下町の風

情を残す雑多な界隈に入った。馬車が通れるぎりぎりの道幅。そこに人々がひしめき

合っている。道端でモノを売るもの、昼間から客を引く娼婦、うつろな目をして歩く

酔っ払い。ベルサイユでは決して見られない光景だった。そんな界隈から、さらに細

い路地に馬車は入った。昼だというのに、家々の壁が迫って、太陽の光さえ届かない

ような薄ぐらい路地だった。ガタンと馬車が止まったと同時にアルクバインが着てい

た外套を脱いだ。華美ではないにせよ、いつもすっきりとした装いのアルクバインだ

が、今日は質素な洋服を着用している。不思議そうにその装いを見つめるアンドレに

「お前はここで待っていろ。」

と言い残してアルクバインは馬車を降り、路地を歩いてさらにそこから続く小路に消

えた。アンドレはどうしたものかと考えていた。アルクバインは何をしにきたのだろ

うか、いったい何のために自分を伴ってきたのだろうか、そうした思考がぐるぐると

頭の中で駆け巡った。

 

 馬車の中でアルクバインを待って、小1時間が経とうとしていた。まだ彼は戻って

こない。アンドレは馬車を降りて、アルクバインの姿が探して、彼が消えた小路のほ

うに歩き出した。アンドレが小路を除きこんだその瞬間、後から口を手でふさがれ、

抵抗できないほどの力で近くの建物に引きずり込まれた。そしてみぞおちに衝撃が

走った途端、彼の意識は途絶えてしまった。

「ほら起きな!」

頬をぴしゃりと引っ叩かれてアンドレは気を取り戻した。見なれない薄暗い部屋に男

女十数人がいて、自分に視線を向けている。ある者はカードに興じながら、またある

者は壁にかかった的に細い小さなナイフを投げて遊びながら。

「あんた、アルクバインと一緒に来たやつだね。」

中から女がアンドレに近づきながら言った。

「ムッシュウをご存知なんですか。あの、ムッシュウはどこにいるんでしょう?」

アンドレはアルクバインの知り合いかと思い、部屋の中を見渡した。その部屋には彼

の姿は見えない。

「あっはっはっ・・・。ムッシュウときたもんだ!あたいらは、あの男にうらみがあ

るのさ。さっきあの男が歩いているのを見かけたから、どうにか仕返しをと考えてい

たんだが・・・。あの男が乗ってきた馬車にはあんたが乗っていて、あんたを拉致し

てあの男の居場所を尋ね様とおもったのさ。だが、馬車から引きずり出すわけにもい

かずに、チャンスを計っていたんだけど、そこにあんた自らここに飛び込んできてく

れた。歓迎するよ、坊や。」

部屋の中の妖しげな人々が大笑いした。

「さて、坊や、教えとくれよ、あの男の館の在り処をさ。」

女はアンドレに顔を近づける。今まで嗅いだことのない匂いが女から漂い、アンドレ

の鼻をついた。彼らが味方ではないことは日を見るより明らかだ。

「はいそうですか、と俺が教えると思うんですか?」

アンドレの答えを聞いた女は一瞬驚いた表情をし、そして高らかに笑った。

「あっはっはっ・・・。おもしろい子だねぇ。度胸据わってるじゃないのさ。」

女はその部屋にいる者たちに振り返りながら

「おい、みんな、この坊やは素直には教えてくれないらしいよ。」

と声高らかに言った。

「俺に任せな、アンヌ。」

それまで部屋の奥で長椅子の上に横になって、眠っていたのかと思った男がむっくり

と起きあがった。その男は岩のような体躯と野太い声の持ち主で、顔の半分がやけど

の跡でただれて、目を伏せたくなるような形相をしていた。

「いい度胸だ、坊ず。だが、俺の鞭の責め苦にどれたけ耐えられるかな。ここんとこ

しばらく、獲物がなくって、俺の腕がむずむずしていたとこだ。久しぶりに鞭を振る

える獲物が飛びこんできた。腕がなるぜ。」

岩のような男は、壁にかかっていた鞭を取り、両手でしごきながらのっしのっしと

ゆっくりとアンドレに近づいていった。

 

se continuer

 

BACK            HOME