影 a l’ombre de Andre・・・
=4=
「急がなければ・・・。仕官学校の授業が終わる時間だ。オスカルを迎えに行かな
くては・・・。」
アンドレは体の痛みを抑えながら必死にベルサイユに続く道を歩いていた。どこをど
うして、あの小路の薄暗い部屋から逃げ出してきたのかさえも思い出せないほど、彼
の記憶は恐怖と体の痛みで朦朧となっていた。歩いたのでは到底、間に合わない。ア
ンドレはもしものときのためにと、ジャルジェ将軍から渡されていた金で辻馬車を
拾った。
「い、急いで・・・ベルサイユの陸軍仕官学校へ・・・。」
「坊主、金は持っているんだろうな。」
「何だったら前払いしても・・いいですよ・・・。」
アンドレは前払いで運賃を払い、転がり込むように馬車に乗りこんだ。
「ふーーーっ」
大きく息をつく。体の節々が痛んだ。馬車の座席はそれほど乗り心地のいいものでは
なかったが、それでも先ほどまで味わっていた恐怖と痛みから解放されてアンドレは
その馬車が天国のように思えた。
岩のような体躯と顔をもった大男は、鞭をしごきながらアンドレに近づいた。アン
ドレはこれまで味わったことのない恐怖を感じて頭の中が真っ白になっていた。体が
凍り付いたように動かなくなってしまい、逃げることさえ忘れてしまう。男のみにく
い顔がアンドレに近づいてきた。
「坊主、おとなしく吐いちまったほうが身の為だぞ。あの男に何か義理でもあるのか
?」
アンドレは奥歯を噛み締めた。緊張と恐怖で口が自由に動かない。ただ視線だけは大
男からそらさなかった。視線を逸らしたらそれで全てが終わるような気がしていた。
視線を逸らした途端に、アルクバインの家を教えてしまいそうだった。大男がいうよ
うなアルクバインへの義理などないが・・・。アンドレの送り迎えの御者にさえ注意
を払うアルクバインだ。館の所在を人に知られることを避けているのは、聞かずとも
解りきっていること。それをここの連中に教えたら、アンドレはあの館に二度と戻る
ことはないだろう。そのことはつまり、アルクバインから「影」としての能力を受け
継ぐことができなくなるということだ。オスカルの影がいなくなるということは、オ
スカルがさらに苦しむことになる。
仕官学校に通い始めて、オスカルが初めて社会の冷たさを味わっていたことを誰よ
りも近くで見て、心を痛めていたのはアンドレだった。仕官学校で同級生たちとケン
カをしたとき、オスカルは初めてアンドレの前で泣いた。アンドレはそのときの彼女
の涙を思い出していた。蒼い瞳から止めど無く流れたあの涙が、今アンドレの心に染
み入ってくる。
―今以上、オスカルを追い込む事はできない。なんとしても―
アンドレはただオスカルへの思いだけで、アルクバインの館の所在について口を割る
ことができなかった。
大男が口笛を吹くと、部屋でカードに興じていた男たちがあっという間にアンドレ
を立ち上がらせて上半身を裸にし、手を縄で縛って部屋の中央に吊り下げるような形
にしてしまった。
「ガキを痛めつけるのも久々だせ」
大男はにやりと嫌らしい笑いをアンドレに向けた。
「ほら、ガキ、吐いちまいな。そのほうが痛い目をみなくても済むぞ。俺の鞭はそん
じょそこらの鞭使いとは違うぞ。」
男は執拗にアンドレにアルクバインの館の所在を吐けと迫るが、アンドレは頭の中で
鞭の恐怖感を抑え込み、逃げ出す手段だけを考えるように試みた、が、次の瞬間、彼
の理性が吹き飛びそうになった。大男が振り上げた鞭がアンドレの体に巻き付き、鈍
い痛みに責められていた。それはまるで生き物のようにまとわりつき、徐々に体を締
め上げていく。
「あうっ・・・。」
「坊や、やせ我慢も今のうちだよ。早く吐いちまったほうがあんたのためだって。」
アンヌと呼ばれた女が再びアンドレの顔に近づいて言う。痛みでアンドレの息が段々
と荒くなり、何かをいおうにも声さえ出ない。
「おやまあ、この坊やはこのくらいはどうってことないようだよ。イアン、あんたの
腕、鈍ってきたんじゃないのかい?こんなガキにバカにされていいのかい?」
その言葉に刺激されるように、アンドレの体を締め上げていた鞭がするするとその戒
めをとき、次の瞬間、不思議な音を立てて振り上げられ、アンドレの背中に落ちてき
た。一瞬、息が止まるような衝撃がアンドレの背中を襲った。同じような責め苦が何
度か繰り返され、初めて受ける体の痛みにアンドレは気が遠のいていくのを必死で踏
みとどまり、正気を保つため、さらに奥歯をぎりぎりと噛み締めた。鞭はアンドレの
胸から下しか攻めてこない。シャツを着れば傷跡が見えない位置だけを的確に責めて
いる。加えて、体に血が滲むような打ち方ではなかった。体の中心に響くような衝撃
を与え、表面は内出血程度にとどめる打ち方。アンドレの背中と胸に細長い紫色の線
が幾筋も浮かび上がっていく。アンドレは半分気を失いながらぐったりとなってし
まった。自分はこのまま殺されるのだろうか・・・。恐怖さえも感じられないままア
ンドレはオスカルの名を心の中で必死に呼んでいた。
「おや、なんだい、気をうしなっちまいやがった。」
「ガキにしちゃあよくもったぜ。おい、下ろせ。」
大男の合図でアンドレは床にごろりと横たえられた。
どのくらい時間が経っただろうか。部屋の中にたむろしていた人の気配が少なく
なった気がして、アンドレはうっすらと目を開けた。十数人いた人間が姿を消し、3
人の男たちが居眠りをしている。床に転がされたままの体を向きを変えようと試みる
と、激痛が走った。
「うっ」
思わずうめき声を上げてしまったが、男たちは気付かないままだ。
(無用心な・・・。)
アンドレは思ったが、この千載一遇のチャンスは神が与え給うたのだと、必死で床を
這うように入り口らしきドアに近づき、そのまま脱出に成功した。後から男たちが
追ってきたかどうかも確認しないまま、とにかく走った。人の波を押しのけながら、
アルクバインの馬車を探したが姿形さえない。どうにか朝来た道を辿って辻馬車が拾
えるところまで辿りついた。パリの街は、子供が逃げるように走っていても誰も何も
気を止めるものはおらず、それがかえってアンドレの身を敵から守る目隠しになって
いた。
「坊主、ついたぜ!!陸軍仕官学校。まったく、お前みたいなガキがこんなご立派な
ところにいったい何の用があるんだ。」
辻馬車の御者の言葉に返事もせずに、アンドレは痛む体を押さえて馬車から降りた。
終業時間は過ぎていたが、言い訳ができないほどの遅刻ではない。アンドレはオスカ
ルを迎えに教学室に向かう。だが、そこにはオスカルの姿は見えなかった。
「あいつ、まさか・・・。」
アンドレは思い当たるものがあり、急いで裏庭に行った。
裏庭の木々の葉はすっかり落ち、物寂しい様相だ。葉が生い茂っていた頃は、人を
その枝に包み込むような優しさがあったが、今は・・・。冷たい風が吹き、アンドレ
の髪を乱した。アンドレは木の幹にもたれかかって一人佇むオスカルを見つけた。ア
ンドレの髪を乱した風が今度はオスカルの髪をもてあそぶ。オスカルは顔にかすり傷
をつくって、口を真一文字に結び、じっと地面を見つめていた。
「またケンカしたのか、オスカル。」
アンドレが声をかけると、オスカルは顔をあげ、安心したように心持ち口元をほころ
ばせた。
「ふん、ここには身のほど知らずが多くてな。心配するな、アンドレ、今日もちゃん
と勝ったぞ。2年上の連中だったが、オスカル様の相手じゃない。」
アンドレは苦笑しながら強がるオスカルの肩を抱いてぽんぽんと軽く叩いた。そして
それを合図のように、二人は無言で帰途についた。アンドレは知っていた、ケンカす
るたび、オスカルが傷ついていることを。そしてそんなオスカルを見るたびに、アン
ドレの心も痛んでいた。オスカルの心の傷を思うと、アンドレはいつも何もできない
自分に歯がゆさしか感じられなかったのだ。
(こんな体の痛みくらいなんだ。)
アンドレはオスカルの苦しみに比べたら自分の体の痛みなど大したことはないと言い
聞かせながら馬車に乗りこんだ。
馬車の中で、いつものように二人がいろいろな話をしながら屋敷までの道のりを過
ごしていたとき、何かの拍子に、オスカルが悪ふざけして、アンドレの体をドンと軽
く突き飛ばした。アンドレは鞭の責め苦で痛めつけられた体をオスカルにつかれたこ
とと、馬車の壁に打ちつけられたことで思わず声を出してしまった。
「あ、つぅ・・・。」
驚いたのはオスカルだった。
「どうしのだアンドレ。私はそんなに強く押したか?」
「い・・や・・。すまなかった、なんでもないんだ。」
アンドレの様子がいつもと違うことを感じ取ったオスカルは訝しそうにアンドレを見
つめていた。
その夜、屋敷の中が寝静まった頃、アンドレは体の痛みに寝つけなく、かといって
誰かに言うわけにもいかずに、七転八倒の苦しみを味わっていた。
―トントン―
ドアを誰かがノックする。
「誰?」
「アンドレ、私だ。」
「オスカル?!」
アンドレは寝台から起きてドアを開けた。
「どうしたんだ、オスカル。」
「アンドレ、お前、大丈夫か?」
「大丈夫って、何が?」
オスカルはアンドレを押し入って部屋に入った。
「アンドレ、お前、私に何か隠していないか?」
オスカルの青い瞳に見つめられてそう尋ねられると、つい本当のことを言ってしまい
そうになる。何もかもをしゃべって、体の傷を癒して欲しくなる。だが・・・・・。
あまつさえ、仕官学校では、女ということで、まだまだ陰険な目でみられているオス
カルにこれ以上負担をかけてはいけない。アンドレは喋りそうになる己の弱い心に封
印をし、作り笑顔をオスカルに向けた。
「・・・別に・・・なにもないよ・・・。」
アンドレのその言葉を聞き終わらないうちに、オスカルはいきなりアンドレの夜着の
胸をはだけてしまった。そしてそこにくっきりと残る紫色の行く筋もの傷跡を目の当
たりにして、彼女は青ざめ、口をつぐんだ。しばらくの沈黙のあと、彼女の瞳が小さ
な怒りの色を帯びてきたのが見て取れた。その瞳でアンドレを睨みつけたオスカル
は、そのまま怒ったように部屋を飛び出て行ってしまった。
「オスカル!」
呼びとめても戻ってこない。オスカルは何かに気付いてしまったのか。アンドレは困
り果てて寝台の上に座りこんでしまった。体の痛みもさることながら、オスカルに嘘
をつき通さねばならないことが彼の心をも痛めていた。
―バン―
再び扉が開いた。振りかえるとオスカルが少し息を荒げて立っている。
「オスカル・・。」
オスカルは怒ったような表情のままアンドレを乱暴に寝台にうつぶせに押さえつけ
た。
「おい、オスカル!!何をする・・・」
オスカルはアンドレの夜着の上半身脱がせて背中の傷跡を指でそっとなぞり出した。
オスカルの柔らく暖かい手が背中に当てられると、アンドレは涙が出そうになった。
そして次に冷たい感触がアンドレの背中にもたらされ、その感触に驚いた。オスカル
が、ゆっくりとアンドレの背中に何かを塗っている。彼女は薬を取りに行ったのだ。
オスカルが何も聞かないことが、かえってアンドレの心を締め付けた。心と体の痛み
にアンドレはがまんしていた涙が滲んできた。すると、今度は背中に柔らかい感触。
オスカルがアンドレの背中に自分の体を重ねてきた。アンドレの傷跡にオスカルの息
がかかる。
「アンドレ、何がお前の身に降りかかっているのか私は聞かない。だが、憶えてお
け。お前は私のかけがえのない友だ。私の涙を知っているのはお前だけだ。仕官学校
に通い出して、周囲の好奇の目に晒されていると、私にとってどんなにお前が大切な
存在かということがわかったんだ。お前は私を男とか女とかそんなことで区別しな
い。お前は私を私として受け入れてくれている。」
オスカルの静かな声がアンドレの背中から体中に染みこむようだった。
「アンドレ・・・私はお前がいるから耐えられるんだ。お前がいてくれるから、生き
ていられるんだ。」
オスカルのその言葉を聞いてアンドレは涙を止められることができなかった。そして
大きく深呼吸して、唇をかみしめた。
―俺が、オスカルの影になる―
アンドレは、改めて決心した。
「オスカル、俺だって、お前がいるから生きていられる。両親のいない俺は、お前が
いるから寂しくなかった。お前といることが一番楽しいんだ。オスカル、お前の為な
ら、俺は何でもしてやるよ。」
アンドレはうつぶせのまま、背中にオスカルの温かさを感じて拳を握り締めた。こん
なことでへこたれてはいけないのだ。
(もう、二度と体の痛みを理由に泣かないと誓う。)
わずか10歳と11歳。生きていくことの厳しさを二人は体を重ねたまましみじみと
感じ取っていた。
se continuer