影 a l’ombre de Andre・・・
=5=
その石の階段は、ひんやりと現世と地底とをつなげている。ろうそくの灯が点さ
れ、ゆらゆらとゆらめき、アンドレを誘っている。
「・・つぅぅ・・・。」
オスカルの手当ての甲斐あって、アンドレの体の痛みも少しは和らいだものの、それ
でも背中と胸に残る紫色の筋が彼の背筋をまっすぐ伸ばすのさえ阻むでいる。昨日の
出来事で、アンドレはある決心をしていた。パリの薄暗い部屋で、体が味わった痛
み、そして・・・。
―私は、お前がいるから生きていけるんだ。―
昨夜のオスカルの言葉をアンドレは反芻していた。思い出しながら、アンドレは唇は
を一文字に結び、決意を込めて地下室に続く扉を睨みつけた。
地下室の扉を開けると、どこかで嗅いだことのある匂いがかすかにアンドレを包ん
だが、すぐさま部屋の中央に置いたテーブルの向こうの座っているアルクバインを見
た途端、アンドレは奇妙な緊張感を感じた。彼は椅子に座り、肩肘をテーブルにつけ
て指を額に当てて、じっと床を見つめている。
「おはようございます、ムッシュウ。」
アンドレが挨拶をすると、彼は焦点をゆっくりアンドレにあてた。
「昨日は、どこに行ったのだ。私は待っていろと命じたはずだ。」
冷ややかな口調の中には、アンドレに逃げ場を作らない厳しさがこもっている。
「連絡できずに申し訳ありませんでした。実は・・・。」
アンドレは、昨日アルクバインを探して馬車を降りたところ、薄暗い部屋に引っ張り
込まれ、そこで自分が今いる館の所在を尋ねられて、拷問にも似た扱いを受けたこと
を話した。それでもアルクバインはその話しを聞いても、表情一つ変えようとしな
い。
「それで・・・?お前はそいつらにここの場所を教えたのか?」
「いいえ、ムッシュウ。」
「何故だ?お前がここを教えて困ることなどあるまい。」
「いいえ、ムッシュウ、あなたのためではありません。ただひたすら、オスカルのた
めに、俺はここを教えることができなかった。」
「ほお?」
アルクバインは初めて、アンドレの話に興味を示したかの如く、達観的だった表情を
変えた。
「ムッシュウ、改めてお願いがあります。俺は、オスカルの影になりたい。これはだ
んな様から言われたからでも何でもありません。オスカルを守れるのは俺しかいな
い。あいつのためなら俺はなんだって、どんなことだってやります。俺は自分から望
んで、あいつの影に徹すると決めました。俺に・・・あなたの影としての能力を授け
てください。」
アンドレの言葉を聞いて、アルクバインは静かに立ちあがった。一途な少年の思いを
受けとめるのに躊躇するように、顔を天井に向け、ゆっくりと歩いては戻り、また椅
子に座ってアンドレを見つめた。冷たい表情は相変わらずだった。
「では、聞こう。お前は影になるということをどう捉えているのだ。」
問われてアンドレはまっすぐとアルクバインを見つめた。
「オスカルはジャルジェ家の跡取りで、美しさも知性も、そして剣の腕、乗馬、すべ
てに人並みはずれたものを持っています。でも、一つだけ、あいつを苦しませること
がある。それはあいつが女だということです。俺は今まで、オスカルが男だろうが女
だろうが、そんなことはどうでもよかった。だが世の中はそうではないらしいという
ことにオスカルも俺も気付きました。オスカルが女である以上、そしてジャルジェ家
の跡取りとして軍人になるという運命を課せられた以上、あいつの苦しみは続く。俺
は自分がオスカルの苦しみを取り除くことも、軽くしてやることもできないとわかっ
ています。でも、あいつを一人にできない。一人であの重荷を負わせられない。俺
は、あいつから離れることができないというのが分かったんです。影のように、俺が
あいつの側にいると決めたんです。影のように。」
アルクバインはアンドレに注いでいた視線を上げ、そして遠くを見つめた。まるでは
るか彼方にある異空間を見るように、懐かしいものでもみるように優しげに輝いた。
彼のそんな表情を目の当たりにしたのはアンドレは初めてだった。
「影・・・。光と影・・・。お前はどちらが優者でどちらが劣者だと思う。」
視線を再びアンドレに戻しながらアルクバインが尋ねた。アンドレは一瞬躊躇った。
優劣などこれまで考えたこともなかったことだ。自分の心に問いかけるように、慎重
に口を開く。
「・・・優劣など・・・そんなことは考えたこともありません。ただ、俺は影になる
ことで、俺の人生をオスカルの人生に重ねることになると思っています。俺はまだ子
供で、この先の人生のことなど、深く考えたことなどなかったけれど、オスカルと二
人で生きるなら、俺の人生も大きな意味を持つような気がするんです。」
アンドレのまっすぐな瞳がアルクバインを射貫いた。アルクバインは今まで見せたこ
ともなかったような静かな瞳でじっとアンドレを見つめた。
「光と影・・・優劣などない。憶えておけ。影としての人生を歩くと自ら決心したお
前のこれからの指針となろう。この世は全て表裏一体。何が優れていて、何が劣って
いるかなどない。表と裏、陽と陰、昼と夜、男と女、光と影・・・。どちらが欠けて
も完璧は成立しない。双方が存在して、初めて完璧な世界となる。光あるところに影
あり、影あるところに光あり。光が強ければ強いほど、影もまた、くっきりとその姿
を浮かび上がらせることができる。影がはっきりと存在を示すことができるというこ
とは、そこには強い光が満ちているということだ。お前は、お前の光とともに、この
世の完璧をかたどる影となるのだ。」
アルクバインが手を差し出した。いつもの冷たい目など嘘のように、彼の目の奥には
焔が燃え上がっているようだった。
「私がお前を導いてやろう。」
アルクバインのかすれたような低い声に誘われるように、アンドレは差し出された手
にゆっくりと自分の手を重ねた。
アルクバインがパチンと指を鳴らしたかと思うと、地下室の奥の石の壁だと思って
いたところが扉のように開いた。そして中からぞろぞろと人が姿を表した。その人々
をみてアンドレは驚愕した。
「あ、あなたたちは!!」
「ぼうや、昨日は悪かったねェ。」
アンドレを軟禁し、鞭で痛めつけたあの男女十数人がそこに勢ぞろいしていた。さき
ほど、この部屋に入ったときに感じた憶えのある匂いは、昨日アンヌと呼ばれる女か
ら漂っていたものだった。
「ど、どういうことですか!これは!!ムッシュウ!」
「アンヌ、皆を紹介してやれ。」
アルクバインはそう言い残して部屋を出ていってしまった。アルクバインを見送った
後、アンヌは驚きを隠せない様子だった。
「ヒュー。おっどろいたねぇ。アルクバインのだんながあたい達を紹介させるとは。
あんた、えっと・・アンドレ・・・だったね。あんた、よっぽとアルクバインのだん
なに気に入られたんだね。」
「そんなことより、これはどういうことですか!!昨日あなた方はこの館の場所を俺
に尋ねた。あなた方がムッシュウに恨みがあるからとおっしゃっていたじゃないです
か!」
「ああ、だから悪かったって謝っているじゃないのさ。昨日のことはアルクバインの
だんなに頼まれてやったことさ。あんたが、だんなの能力を受け継ぐにふさわしいヤ
ツかどうか、見極めるためにね。」
「なんですって?じゃあ、昨日のあの拷問は・・。」
「おいおい、聞き捨てならんな。」
横から、岩のように体躯の鞭使いが口を挟んだ。
「あれくらいを拷問と思ったら大間違いだぞ、坊主。」
アンヌがその男を少し制するようにして話を続ける。」
「そう、イアンが本気を出したら、今ごろあんたはあの世にいるね。イアンの鞭を受
けても、今日はこうしてちゃんと立って歩いていられるじゃないか。あれを拷問なん
ていっちゃいけない。」
「でも・・。」
アンドレは何がなんだかわからなくなったのと同時に、理不尽な怒りがふつふつと湧
いてきた。昨日味わったあの痛みと恐怖感は、あれは自分を試すためだけのことだっ
たのか。アンドレの目には怒りが映っていた。
「おや、怒っているのかい。まあ、気持ちを落ちつけて話をお聞きよ。いいかい、ア
ルクバインのだんなは、あんたやあんたの雇い主の偉いさんも知らないほどの組織を
持っている。アルクバインのだんなから、本当の意味で影としての能力を受け継ぐと
いうことは、その組織も受け継ぐということだ。」
「組織・・・?」
「そうだよ。いいかい、よくお聞き。アルクバインのだんなの傘下にあるのは、ヨー
ロッパ全土を網羅する情報網、そしてフランス全土に散らばるあたい達の同志。あた
い達はそれぞれ訳ありのモンばかりだが、フランスの将来を考えてのみ生きている秘
密結社を組織している。」
「秘密結社?・・・それはいったい。」
「もともとはルイ14世の宰相マゼラン枢機卿が、ヨーロッパ全土に放った密偵とその
手下たちがあたいたちの源流さ。マゼラン枢機卿が死んじまってから、あたい達の先
代は宿木をなくした鳥のようでね。各地を流浪するうちに、王室への不信感が強ま
り、貴族に対する敵対心が沸いてきた。なんたって、王家のための働いていたのに、
いらなくなったらポイと捨てられたんだから。でもやがて、仲間がフランスに一人帰
りつき、二人辿りついて・・・。自らの組織を作り出した。それがあたいたち“li
liacees de noir”黒百合さ。王家の色である白の反対色の黒、そして王家
の紋章である百合を意味することで、決して王室に迎合しないという意味だよ。だが
ね、あたい達はまるっきり反王室というわけじゃないんだ。偏った見方は偏った結果
しか生まない。あたいたちの信条は、常に物事の本質を見極めることなんだ。だか
ら、アルクバインのだんなの傘下にあったとしても、あたいたちは100%あのだん
なの手下じゃないんだよ。お互いに持ちつ持たれつの仲、ってとこかね。」
アンドレはあまりに荒唐無稽な話に、自分がまたからかわれているのかという気持ち
が沸いてきた。思わず眉根に皺を寄せてたずねる。
「あなたたちのことは、なんとなくわかりました。でも、それと昨日のこととどう関
係するんですか。俺は、俺は・・・。」
「ああ、ああ、男が涙ぐむんじゃないよ。」
「涙ぐんでなんかいません!!ただ悔しいんです。何も知らなかったのは俺だけで、
それであんな・・・。」
「まったくねぇ、どうしてこうもまっすぐなんだ。アルクバインのだんなの能力と情
報網を受け継ぐということは、生半可な根性じゃ無理なんだ。だんなは今まで、3カ
月間あんたを見てきた。その根性の座り方、まっすぐな性格、影としての素養は十分
だった。そして最後のテストさ。恐怖を前に、どれだけ耐えられるか、恐怖に打ち勝
つ精神力、何にも負けない生命力をあんたが持っているかどうか、それをあたいたち
が試させてもらったというわけさ。もちろん、あんたを本気でやっちまうわけにいか
ないからねぇ。イアンの鞭で手厚く歓迎したのさ。武器の中で、表面的な責め苦に使
えるのは鞭だけだからねぇ。銃や剣では本当に傷つけちまう。」
「俺は昨日、傷が痛くて眠れませんでした。」
アンドレが責めるような口調でいい、アンヌを睨みつけた。
「そう怒りなさんな。あたいたちは、昨日のあんたを見て、みんなあんたを気に入っ
たんだ。あんた、いくつだい?」
「11歳です。」
アンドレがむすっと答える。
「ふん、普通の11歳のガキなら、小便もらすか、泣き喚くが関の山だよ。それをあ
んたは見事にあたいたち全員に対峙していた。自覚はなかったかもしれないけどね。
あんたなら、あたいたちは歓迎するよ。」
そういわれてアンドレがそこにいる十数人を見渡すと、皆親愛の情を込めてアンドレ
を見つめているような気がした。
「さて、それじゃあ、みんなを紹介するよ。まずはイアン。昨日、あんたの体に鞭を
ふるったこの男。もとは芸人一座の猛獣使いなんだが、事故で顔に火傷を負っちまっ
て、人前に出られなくなっちまった。だが、この鞭の腕を買われてあたい達の仲間に
入ったやつさ。」
「やあ、アンドレ。昨日はすまなかったな。」
岩のような大男は、火傷でみにくくなった顔の中から、それでも精一杯の笑顔を搾り
出してアンドレに握手を求めてきた。昨日のあの猛獣そのものの表情は借り物だった
のかと思える優しさにあふれている。アンドレは思わず自分の手を差し伸べて握手を
してましった。
「こいつはジェラール。空の色で天気を読む天才さ。」
アンドレに次々に差し出される手に、一人一人握手しながら、アンドレは何が何だか
わからないまま、紹介を受けた。
「そしてこの娘はナージャ。名前からもわかるように東欧ジプシーだよ。踊りの名手
だ。踊りと歌と、この異国風の容貌が買われて、よく貴族様の館の宴に招かれる。そ
こで情報を集めてくるのがこの娘の役どころ。」
黒い髪に黒い瞳、情熱的なその娘はアンドレを抱き寄せて頬にキスをした。
「うわっ」
おどろいたアンドレは思わず後ろに飛びのいてしまい、そこにいる連中の笑いを買っ
た。
「あっはっはっ。まったくかわいいヤツだねぇ、あんた。」
そう言われてアンドレは耳まで真っ赤になってしまっていた。
「さて、最後にあたい、アンヌ。この中では唯一、じいさんの代からこの秘密結社育
ち。あたいが得意とするのは毒薬の調合。」
「ど、毒薬?そんな知識、俺には・・・。」
「ばかだね。毒薬と聞いて慌てなさんな。毒薬は使いすぎると人体に影響を及ぼす
し、下手すると命を奪うものだけど、使い方によってはそれは良薬にも変わるんだ。
ものは使い様。そして、アンドレ。あたいたちは、自分の持っている能力を惜しみな
くあんたに授けるよ。あんたの能力を磨くために、あたいたちは最大限の援助をして
やろう。だが、覚えおきな。あんたがあたい達の期待を裏切るようなことをすれば、
あたいたちは間違いなくあんたを亡き者にするということを。アルクバインのだんな
が庇っても、それは無駄なことだ。」
アンドレはまたしても事の大きさにおののいた。影の能力・・。それは想像以上の意
味を持っていた。想像以上の深さがあった。
これからアンドレを待っているのは、いったいどんな試練なのか。彼の闘いはまだ
始まったばかりだった。
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