影   a l’ombre de Andre・・・

 

=9=

 

 アンドレは一人ジャルジェ家の裏庭にある小さな池のほとりのベンチに腰掛けて、

前かがみに手を組んで物思いにふけっていた。「影の任」のためとはいえ、自分の意

思とはまったく関係なく踏み込んでしまった世界に戸惑い、愛のない男女の行為に及

んだ己に自己嫌悪を感じていた。彼と同い年の王太子に結婚話が決まるほどだし、い

らぬ話を吹きこむジャルジェ家の使用人の男たちのおかげで、男女の睦み合いがどの

ようなものかは、アンドレも知識だけは持っていた。しかし、心通わせない女との交

わりをしてしまった自分が何か汚いものになってしまったように思え、アンドレを落

ちこませていた。

「みんなが言うようによくなんかない。何がいいんだ、あんな・・・。」

アンドレは手を顔で覆って大きな溜息をついた。

「何を溜息をついている、アンドレ」

知らない間にオスカルがアンドレの斜め後に立っていた。突然声を掛けられ、アンド

レは驚いてオスカルを見上げた。一番会いたくない相手だった。アンドレはまともに

彼女の顔が見れず、すぐに視線を池のほうに向けてしまった。

「アンドレ、何かあったのか?昨日は迎えに来なかったし、今日もいつものお前らし

くなかった。」

オスカルがアンドレの隣に腰掛けながら普段と変わらぬ口調で尋ねる。アンドレはオ

スカルに側によってほしくなかった。何故か後ろめたい気持ちが広がり、彼の心を冷

たくしていく。答えないアンドレにもオスカルは激することなく落ちついた声で尚も

尋ねる。

「どこか・・・からだの具合が悪いのか?」

「いや・・・そうじゃない・・・。」

アンドレは池に視線を落としたまま答えた。

「・・・そうか・・・ならいいんだが・・・。」

オスカルも前かがみに膝の上で手を組んでじっと池の水面を見詰めた。水面はアンド

レの心とは裏腹に、日の光を浴びてきらきらと輝きを増している。この光を浴びる権

利が自分にはあるのか・・・。そんな思いさえ頭に浮かび、さらに彼の心を落ちこま

せていく。また、隣の幼馴染がその光を浴びて金髪を輝かせ、涼やかな目しているこ

とが、今のアンドレにとって耐えがたいほどに苦痛だった。喉の奥に何かがつまって

いるようだった。耐えきれず、アンドレは二人の間に流れていた沈黙の時を破るよう

に口を開いた。

「オスカル、俺が自分の気持ちに嘘をつくような人間になったら、お前は俺を嫌いに

なるか?」

突然の、ややもすると突拍子もないアンドレの問いにオスカルは驚いて目を丸くし

た。普段ならからかいの言葉の一つも出るのだが、どうやらアンドレは冗談話をして

いるのではないと読み取ったオスカルは、視線を一度池の向こうのニレの木を見詰

め、そしてまたアンドレに戻しながら答えた。

「そう・・・だな・・・。お前が自分の私利私欲のために、平気で嘘をつくような人

間になったら、わたしはお前をぶっとばすだろうな。」

「オスカル・・・。」

あまりにはっきりとした答えが返って来たのでアンドレの落ち込みはさらに深まるば

かりだった。

「あははは。そう情けない顔をするな、アンドレ。お前がそんな奴ではないことは、

私が一番知っている。」

「だが、例えば何かを手に入れるための手段として、俺自身が望まないことをやるの

は、やはり卑怯者だろうか。」

「例えば、誰かのためにとか、何かのためにとか、のっぴきならない理由があっての

上のことなら、自分の望む望まない関わらず、やらねばならぬこともあるのだろう

な。私はまだそのような目には会った事はないが・・・。」

オスカルは幼馴染の友の身に何かが降りかかっているのを気づきながらも、その真相

を突き止めることはせず、ただ友の問いに言葉を選びながら答えていった。彼が触れ

て欲しくないことを抱えているらしいことは、オスカルも気付いていた。それを敢え

て暴こうとも思わないし、彼が言いたくなったら話すときも来るだろうとオスカルは

友の問いに対して嘘偽りのない己の考えだけを述べるにとどめた。

「だが、お前が一番大切にしているものを忘れない限り、お前がお前らしくある限

り、私はお前を嫌ったりなんかしない。言っただろう、お前が大事なんだ、私は・・

・。」

奇しくもオランピアと同じことをオスカルが言ったことでアンドレは驚いた。自分の

大切にしているものを忘れ去らない限り、自分は自分だと。何も変わらないと・・

・。アンドレはオスカルのこの言葉に縋り付きたくなった。だが・・・。自分は変わ

らないと言い聞かせる一方で、彼は自分にこれから降りかかるであろう世界を想像す

ると気が重くなっていった。好きな女ではなく、ただ情報を得るために心を通わせな

い女たちと睦み合う。それが本当に必要なことなのかどうか、納得がいかなかった。

 

 オスカルも今日はいつになく静かだった。近衛隊への正式入隊を控え、最近では士

官学校から戻っても、アンドレとともに剣の稽古だけでなく、政治学、語学、文学さ

まざまな家庭教師について勉強に励んでいたため、その忙しさに紛れて彼女自身も自

分の将来についてじっくりと考える暇がなかった。しかし休日だった今日は、いつも

なら遠乗りやら剣の稽古と一緒に行動するはずの幼馴染の姿が朝から見当たらず、そ

うなるとオスカルも普段考えなかった考えに頭の中を占拠され始めた。頭を冷やそう

とやってきた池のほとりで、昨日からずっと自分の前に現れなかったアンドレの姿を

見つけたのだった。

「アンドレ・・・私は・・・もうすぐ近衛隊に特別入隊する。」

オスカルがいつになく思いつめたように語り出した。

「白状するが・・・実はとても不安なんだ。」

オスカルの口から漏れた“不安”という言葉にアンドレは驚いた。いつも向かってく

るものに果敢に闘いを挑む姿勢を崩さないオスカルに似合わない言葉だと思い、アン

ドレは思わずオスカルの顔を見詰めた。

「仕官学校でも女ということで、受け入れられなかった。今も尚、私を受け入れられ

ないやつは多い。今では私も慣れてしまったし、そういうやつらに対してある程度は

諦めもついている。だが・・・近衛に入隊しても、同じように女ということで受け入

れられないのか・・・、また・・・同じことを繰り返さなければならないのかと思う

と・・・少々気が重くてな。」

オスカルにしては珍しい弱音だった。

「だが・・・お前の近衛入隊は国王陛下の直々のご命令だろう。そんなお前に対して

辛く当たるやつがいるのだろうか。ましてや子供の集まりといってもいい仕官学校と

は違い、近衛隊はれっきとしたいい大人の集まりじゃないか。」

アンドレは自分の悩みをひとまずは心の隅に追いやった。アンドレのその言葉にオス

カルは唇の端を僅かに持ち上げて微笑んだ。

「表向きは礼を尽くすやつでも、裏で何をするか、何を言うかわからないというのは

仕官学校で嫌というほど味わっている。人間というのは怖いものだと・・仕官学校で

学んだことの一つだ。」

オスカルはシニカルな笑い方をアンドレに向けた。その笑いがアンドレの胸を締め付

けた。強がりの気性が垣間見せた弱さ。きっとオスカルは、精神状態がぎりぎりとこ

ろをバランスを保ちながら歩いているんだとアンドレは感じた。

「アンドレ・・・私は・・・一生こんな風に、女であるが故に苦しまなければならな

いのだろうか・・・。私は、一生この迷宮から抜け出すことはないのだろうか・・

・。」

オスカルが池から視線を上げて遠くを見ながら尋ねた。青い目が水面にうつる光を映

していた。アンドレは眩しげにその瞳の輝きを見詰めていた。

「例えその迷宮から抜け出せなくても、お前一人にはさせない。」

アンドレは自分でも気付かないうちに口走っていた。そのことに自分で驚き、慌てて

視線を彼女が見詰める先に移した。

「いつも・・・俺が側にいるから・・・影・・・のように・・・。」

アンドレは自分で自分に言い聞かせるようにそう言った。

「二人で迷宮の出口を探し出そう、オスカル。二人なら、できるさ。」

その言葉にオスカルもアンドレを振りかえり、さきほどの皮肉っぽい笑いを引っ込

め、安心したように柔らかい笑みを浮かべて頷いた。

オスカルが一つ伸びをして、空を見上げた。

「風が・・・初夏めいてきたな。」

アンドレも同じように伸びをして顔を上げた。そうだな、と答えながらアンドレは思

い出していた。

(そうだ・・・11歳でオスカルの影になると決心したあのときから、俺はオスカル

のためなら何でもしてやると決めたではないか。俺にできることは何でも。オスカル

のためなら、俺が汚れようがかまうもんか。オスカルにはいつも笑っていてもらいた

いから・・・。)

二人の間に晩春から初夏に向かう爽やかな風が吹きぬけていった。

 

 

「あんた、“あの”授業のときはいつもあたいの調合したヒヨスのエキスを飲んでい

るんだって?あんまり多用するとよくないんだがねぇ。」

アンヌはため息交じりにアンドレを見詰めた。アンヌの毒草の講義はいつしか、ここ

2カ月間にアンドレに課せられた“授業”の話にすりかわっていた。

「・・・正気じゃあんなこと、俺にはできない・・・。」

「あんた意外とおぼこいこというのね。もういいかげんに割り切ったらどうなの

さ。」

「割り切っているさ。オスカルにあんなことさせられない。あいつが軍人として生き

ていく上でああいったことが必要だというのなら、俺がそれを肩代わりするって決め

たから。だから俺は・・・。」

「また“オスカル”かい?まったくあんたは自覚してないねぇ。あんたの話聞いてい

ると、あんたがその姫さんに惚れているとしか聞こえないけどねぇ。」

「オスカルは俺にとって大事な親友なんだ。」

「親友・・・ねぇ・・・。」

アンヌはため息交じりに言葉を吐き出し、やれやれといった表情でアンドレを見た。

相変わらず見事な黒い瞳をしているが、いつも真っ直ぐこちらをみるその瞳が今日は

床をぼんやり眺めていた。アンドレへの特別な“授業”の教師はオランピア以外にも

黒百合のナージャも加わっていた。女にもいろいろなタイプがいるということをアン

ドレに教えるため、アルクバインは美しき貴婦人と東欧のジプシー娘の双方にアンド

レを預けた。

「ところで・・・」

アンヌはこれ以上この話題を続けても堂々巡りになると判断して話題を変えた。

「来週からあんた旅行に行くんだって?」

アンドレもアンヌが話題を変えてくれたことに心の中で感謝しながら答えた。

「ああ、士官学校も休みに入ったし、オスカルが近衛隊に入隊する前に、少しばかり

の骨休めをしてこいって、だんな様が。俺もオスカルのお供でジャルジェ家の領地で

あるアラスに行くことになっているんだ。オスカルは小さな頃にだんな様に連れられ

て行ったことがあるそうだが、俺はアラスが初めてで、少し楽しみにしている。」

「ふーん、アラスといえばパリよりも北だから、気候も変わるんじゃないのかねェ。

ま、楽しんでおいでよ。」

アラスの話題になると、アンドレの瞳がいつもの煌きを取り戻し、生き生きとこちら

に語りかけてくることに安心していた。

 

「アンドレ、アンドレ!早く来い。もう出発するぞ。」

「はいはい、そう慌てるな。」

オスカルとアンドレはもうすぐ始まる新しい生活を前に、ジャルジェ家の領地である

アラスに出発するところだった。初めて二人だけで遠地に出かけることが、まるでこ

れから冒険の旅にでも向かうように二人を高揚させていた。しかし、この旅が、陰謀

と妬みがドロドロと渦巻く宮廷での生活が始まるまでの、一時の安らぎの時間であ

り、またオスカルとアンドレにとって、楽しかった子供時代との決別の旅であること

を、このとき二人はまだ気付いていない。

 

se continuer

 

 

 

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