作家の中島梓氏による「木原敏江論」(〜木原敏江イラスト集『虹の森の鬼』新書館〜より)中島梓氏独自のベルばら論が登場します。

 私はこれを中学生の時に読んでいたく感銘を受けた覚えがあるのですが、掲載されたのがベルばら関係書籍ではないので、目にされた方も少ないのではないでしょうか。以下要約ですがご紹介します。

 貴重な資料を提供してくださったputao様、心からお礼申し上げます。

@ 「アンジェリク」と「ベルばら」

 それぞれの終結部を見比べたとき、ひとは疑いもなく、「アンジェリク」をより素朴な物語、御伽噺であるといい、「ベルサイユのばら」により進んだ段階の人間の自我の主張を認める、であろう。

 「時」というものを間において眺めると、「アンジェリク」はときそれ自体が偶然作り上げた自然発生的な物語であり、「ベルばら」は、あくまで時のうちなる「人」の声として存在する。

 しかし「アンジェリク」はA&S・ゴロンの原作を離れ、完璧に木原敏江の手になる創作である。だとすれば、むしろ、「時」に神の意志を見、その中にある生を了承する「ベルばら」の方がよりストレートであり、「人」に属するものである。真に「時」に属するものには言葉はない、叫びもない・・・。だから、「時」とのかかわりあいにおいて、自らの対等を主張し、「人」の視座によって、「時」を受け入れたり否定したりするかぎりにあっては、、その作品は「人」に属するものだからである。

 「アンジェリク」は「物語」であり、「ベルばら」は’物語以後’の「文学」であるといえよう。木原敏江は「24年組」の中にいながら、その流れと逆行するかのような独自の世界を築いている。(注:池田理代子氏は24年組作家ではありません)

 オスカルは、男装を通して社会と、普通の女性より深くかかわりあうことによって、矛盾と欺瞞を知り、社会性に目覚め、自らの家臣であるアンドレを伴侶にえらび、そして貴族社会を捨てる。そして王妃マリーアントワネットは「歴史の転換期」に立ち、その波をうけ、滅びていく。・・・・・これは池田理代子のしばしえらぶストーリーのポイントである。・・・・・そのように自らのストーリーの中に、どんな時代、構造、視点であるかは別にしても、社会や、歴史というものと、個人との係わり合いを進んで描いていること、これこそが、木原敏江とに対置する作家として池田氏を選ぶ所以である。この点は他の作家たちには欠如しているからである。

 明らかに池田理代子の興味をひいているのは歴史の転換点中の「階級の没落」の物語である。だが同じフランス宮廷を舞台としながらも木原敏江が選んだものはブルボン王朝最後の王妃ではなく、太陽王ルイ14世の時代を舞台とする物語であった。たとえば江戸を舞台に描くなら、おそらく、池田理代子は動乱期江戸を描き、木原敏江は元禄の太平期であろう。

A「天まであがれ」と「ベルばら」

 木原は「天まであがれ」で維新前後を描いたが、しかし中心に描いたのは新撰組隊士であり、会津の姫であった。同じ革命を描いても、池田のオスカルが貴族を捨て、民衆の戦いに殉じるのに対し、木原の土方歳三は転戦の果て、五稜郭であくまで「新撰組」を名って死んでいく。アンジェリクはフランスを捨て、自由の地を求めてアメリカに渡るが、決してフランスに絶望して、とは描かぬし、ルイ14世もその傲慢や圧制をも含めて否定的には描かれていない。木原はすべての人の問いかけYESであるのかNOであるのかをはずし、すべてを肯定する。・・・・「そういう時代でありましたよ」(夢幻花伝)・・・・・・・という台詞に集約されるといっていい。

 オスカルの最後の言葉「・・・・・・自己の真実のみにしたがい−一瞬たりとも悔いなく与えられた生を生きた」 この言葉と土方歳三の「三十五年心のままに生きてきた。思いのこすことはなにもない。」  この二つは一見同じことを語っているようだがまったく違うのである。オスカルが語るのは「意志」であり、土方が語るのは「風のような受容」なのだ。オスカルは時の流れの中にあって最後になおも人間の尊厳によって立とうとしつづける。かくあったのは自らの意志であったのだと。しかし、土方は自らが流れの中にあるこことに身をまかす。

 「かくて運命は死をもって愛しあう二人を結びつけたのである」・・・・主人公たちの死をもって終わる「ベルサイユのばら」は「物語」の永遠の時間の檻の繰り返しを断ち切る。個人のストーリーは常に一度限りの完結性を持たざるをえなく、主人公たちの時間が終わっても、人々は生まれ、死に、また生まれを繰り返す。しかし、それは池田理代子の感知するところではないのだ。オスカル・フランソワのストーリーを通して語られる革命への意志と、力強い生への「YES」である。しかし、木原にとっては実のところ主人公はだれでもよい、のかもしれない。

 

 

以上、どこまで要旨をまとめられたかは判りませんが私なりの要約です。

 私はこれを読んだ時、ベルばらという作品のメッセージ性を強く感じました。それまでの少女漫画のヒロインは「オスカルのようには」苦しまなかったし、悩まなかったし、何かを叫んだり、そして愛する男性と体を重ねるシーンなども描かれはしなかったのでしょう。そのベッドシーンでさえもが、「愛とは!、生とは!」、と力強く訴えかけてくる・・・・。

 だからこそ荒削りであっても未踏の地を踏んだ最初の作品の偉大さは永遠に朽ちることがないのです。男装のヒロインの古典である「リボンの騎士」のサファイヤと比較するならば、彼女はどちらかというと御伽噺のお姫様で、リボンの騎士のときはりりしく、フランツ王子の前では別人格のように突然しなをつくります。単純な人格しか持ち合わせていないのです。ましてや現実的な社会や体制とのかかわりで深く悩んだり反旗を翻したりなどしようはずがありません。

 よくベルばらによって少女漫画に社会性が加わったと評されますが、ひとえにそれは自分を取り巻くすべてのものに対して能動的なヒロインであるオスカルという存在そのもののせいではないでしょうか。マリーアントワネットの一生を描くにとどまったならば、かくも中島氏が言うところの「力強い生への「YES」」は感じられなかったのではないかと思います。私がベルばらを愛するのはこの力強い理想への叫びであり、メッセージなのです。ベルばらは少女漫画の大きな進化の道を開いた偉大な作品です。初めてヒロインが社会の不条理に深く関わり、悩み、立ち向かった、この「オスカル様の功績」を私は改めて深く賛えたい気持ちで一杯です。 (ままか)

 

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