太陽が西に傾き、黄金色の黄昏が、輝かしい昼の終わりを告げようとしている頃、
俺はオスカルに言いつけられていた近衛隊の用事を済ませて、王宮にオスカルを迎え
に行った。オスカルは王太子妃マリー・アントワネット様の午後のサロンに付き合っ
て、グラン・トリアノンのほうまで出向いている。今日はこのままトリアノン宮で小
さな夜会が開かれ、オスカルは夕方でお役ご免になるため、そろそろ庭園を抜けて
戻ってくるはずだ。俺は途中まで迎えに行こうとアポロンの泉を回って庭園を突っ切
ろうとした。巨大なアポロンの太陽の馬車の彫刻が夕日を浴びて薔薇色に染まってい
る。だがさすがにこの時間になると、みな夜会の準備で忙しいらしく、庭園には人影
がない。
目を凝らしてみると、グラン・トリアノンのほうからオスカルがこちらに歩いてく
るのが見えた。黄昏の夕日に映えて金色の髪が透けるように輝いている。
「ああ、きれいだな」
俺は取りとめもないことを口にしながら、オスカルに向かって手を振った。だが、何
も反応がない。いつもなら輝くような笑顔とともに手を振り返すのに。
「おーい、オスカ・・・。」
俺に気付かないのかと思い、呼びかけてハッとした。早足にまっすぐ、一心不乱にこ
ちらに向かっている。こんな時に考えられる状況はただ一つしかない。俺は立ち止
まって、俺の予測が当たっていないことを祈った。だが、その祈りが届かなかったこ
とに気付くまでそう長いときはかからなかった。あいつは俺がここにいるのを随分前
から気付いていたようで、迷うことなく俺にまっすぐ向かってくる。俺は念のために
すぐ隣の木陰に身を寄せた。いくら人影がなくなったとはいえ、ベルサイユの中央庭
園だ。誰の視線があるかもしれない。オスカルの足音が近づいてきた。お前は何も言
わずにいきなり俺の胸に顔をうずめた。
(ああ、やっぱりそうか。)
俺は自分の予測が的中したことを複雑に思いながらオスカルの肩を抱いた。オスカル
は泣いているのだ。泣き顔を俺の胸にうずめて隠しながら。仕官学校に入学したあの
ときから、お前は俺の胸だけで泣く。
俺は、お前が初めて泣いたあの日のことを思い出す。
あれは・・・そう、確かオスカルが仕官学校に入学して10日ほどたった頃だった。
オスカルが同級生達と取っ組み合いのケンカをしているという知らせが、従者の控え
室で待っていた俺のところに届けられた。俺にそれを知らせたのは、前々から奥様の
サロンに母親に連れられて来ていた貴族の子供。気の弱そうな、いつも泣き出しそう
な表情をした奴だった。俺とオスカルの遊びに交じるわけでもなく、いつも母親の後
ろでじっと俺達をみつめるだけの少年だった。その気の弱そうな少年があろうことか
オスカルと同時期に仕官学校に入学していたから俺は驚いた。とにかく、そいつが
「オスカルが一人で同級生全員を相手にケンカを始めた」と泣きながら俺に知らせた
んだ。
俺は慌てた。確かにオスカルは強い。あいつが7つの時から、俺は剣でも取っ組み
合いのケンカでもあいつに勝ったためしがない。でも、いくらなんでも同じ年頃の少
年十数人を相手にしたのでは分が悪い。俺はその少年の案内でケンカの現場に向かっ
た。
ケンカの現場である仕官学校の裏庭に行ってみて俺は愕然とした。なんと、そこに
は泣いてへたり込んでいる貴族の少年たちが十数人。その中央に肩で大きく息をし
て、ギラギラとした視線を少年たちに向けているオスカルが立っていた。
「お前ら・・・このオスカルに今後さっきのような言葉を吐いた奴は、金輪際仕官学
校に出てくれなくなるほどに叩きのめしてやるから覚悟しておけ。」
オスカルが吐き捨てるようにそう言った。オスカルが怒りに震えている。気が強く
て、生意気で、ちょっとばかりわがままなオスカルだが、全身から怒りの炎を立ち上
らせているようなあいつを見たのは初めてだ。いったい何があったのか、俺は思考を
巡らすけれど想像がつかない。わずか10歳のオスカルをこれほど怒らせるとは、こ
いつらいったい何を言ったというのだ。
オスカルの気迫に恐れおののいた同級生の少年達は泣きながら、あるいは青ざめた
表情のまま三々五々散っていった。残されたのは、まだ怒りにわなないているオスカ
ルと俺と。俺にケンカを知らせた少年も、何時の間にか姿を消していた。裏庭の木に
一陣の風が通りぬけて行った。オスカルの金色の髪が風になびく。オスカルはずっと
俺に背を向けたまま立ち尽くしている。俺は何があったのか確かめようとオスカルに
近づいていった。
「オスカル、何があったんだ。一体なにが・・・あ・・・。」
オスカルの顔を覗きこんで俺は驚いた。オスカルが泣いている・・・。あの蒼い瞳に
涙をいっぱい溜めて・・・。声も立てずにただ、肩を震わせてこちらを睨みつけてい
る。
「誰にもいうな、アンドレ。父上にも母上にも。私が泣いたことなど、私が女の子の
ように泣いたことなど・・・絶対にいうな。」
普段ならよく通る声さえも震わせながら、唇を切れるほど噛み締めている。くやしさ
と行き場のない怒り、無情、さまざまな思いが交錯しているようなオスカルの姿を俺
は初めてみた。いつも輝いているオスカルが初めて泣いた。今まで、馬から落ちて
も、ケガをしても、涙一つ見せなかったのに。
俺はたまらなくなって思わずオスカルの頭に腕を回し、乱暴にあいつの頭を自分の
胸に押しつけた。
「こうしていれば、お前が泣いているのかどうかなんて見えない。誰もお前の顔を見
ることができないよ、オスカル。」
俺はそう言って、胸に押しつけたオスカルの頭を右腕で抱え込むようにした。途端に
オスカルが声を出して泣き出した。余程悔しかったのだろう、がまんしていた悲しさ
が俺に抱えられるような体勢になったことで堰を切ったように溢れ出した。オスカル
は泣いて、泣いて、気持ちが落ち着くまで、ずっと俺の胸に顔を押し当てたままだっ
た。
やがてオスカルがぽつんとつぶやいた。
「あいつら、女はここに来るなといった。男の世界に女は入る権利がないといっ
た。」
ああ、そうか・・・。俺は全てを理解した。そういうことなのだ・・・。何故、だん
な様がこんなに強いオスカルの護衛に俺を付けたのか。いくら強くても、オスカルは
女の子で、そしてあいつが向かおうとしている世界はまさしく「男の世界」なんだ。
俺達の間では男とか女とかそんなことは関係なかったが、世の中はそうではないらし
い。こんな小さな子供のときから「男の世界」と「女の世界」に分けられているん
だ。
だからといって、何故オスカルがこんな思いをしなければならない。何故、みんな
はオスカルを「オスカル」として見ないのだろうか。俺の中に行き場のない悔しさが
広がった。全ての面で皆より優れているのに、こうして「女の子」というだけで苦し
まなければならないオスカル。大好きなオスカルが苦しんでいる姿を見て、俺も苦し
くなった。苦しみも二人なら軽くなるだろうか。俺がオスカルの苦しさを肩代わりす
ることはできないだろうか。取り止めのない考えだけが俺の頭の中を駆け巡る。だが
俺は自分の素直な気持ちを口にするしかできない。
「オスカルはオスカルだ。女の子とか男の子とか、そんなことは関係ないよ。俺はオ
スカルそのものが大好きだ。お前はお前のままでいいんだ。」
オスカルに変わって欲しくなかった。あんなへなちょこの貴族の子供たちの言葉に負
けて欲しくなかった。俺の言葉にオスカルは顔を起こした。まっすぐ俺を見つめる。
そして何も言わずにうんと頷く。
「さあ、帰ろう、アンドレ。」
何事もなかったかのようにいつものオスカルの口調に戻った。だが、そのときのオス
カルの瞳を俺は忘れることが出来ないだろう。これからオスカルに振りかかるであろ
う試練を予感する哀しみと、そしてそれに立ち向かおうとする決心と覚悟が蒼い瞳の
奥に映っていた。ならば俺は・・・お前がお前らしく生きていくために何でもしてや
る、そう決心した。
そして、このときからオスカルは俺の胸だけで泣くようになった。誰にも、両親に
さえ見せない涙を、あいつは俺の胸の中だけで見せた。
今も、オスカルはあのときと変わらない震える肩を必死でこらえて、そして泣き顔
を誰にもみられないように俺の胸に涙を押し付けている。何があったのだ。こんな一
見穏やかに見えるベルサイユの午後のサロンで。確か今日は新しいドイツ大使を歓迎
する王太子夫妻主催のサロンと夜会のはずだ。大使付きの軍人も多く出席すると聞い
た。口さがない無粋な外国の軍人どもが、また物珍しそうに、王太子妃付きの美貌の
近衛仕官を侮辱する言葉でも浴びせたのか。オスカルの実力とまったく関係のないこ
とで、人々の無責任な侮辱と嫉妬が今まで何度あいつを傷つけてきたことか。俺はそ
の度に、不条理な怒りで震えた。オスカルを傷つける奴を俺は許さない。
オスカルは何も言わない。何があったかも。最近では、「女だから」とお前を蔑む
奴らに対して、お前は「またいつものことだ」と諦めにも似た笑いを浮かべてやり過
ごせるようになっていた。だが時として、お前の激しい感情が、こうして俺の胸を必
要とするときもある。気の済むまで泣いていいぞ、オスカル。俺はいつまでもお前に
この胸を貸してやろう。
「ふーーーっ」
オスカルが大きく一つ深呼吸をする。そしてゆっくりと顔を上げる。
「さあ、帰ろう、アンドレ。」
いつもと変わらぬオスカルがそこにいた。
「ああ、帰ろう、オスカル。」
背筋を伸ばし、顎を少し持ち上げて歩き出すオスカルの後に続いた。先ほどの涙など
嘘のように、どこからみても凛々しい近衛隊士の姿。そして金色の髪が夕映えを映し
てより一層輝いている。俺は一瞬、お前がまぶしくて目を細めた。こうして威風堂々
とした輝かしいお前は、俺にはまぶしすぎる。だが俺は知っている。きらきらとした
その表面に隠されたお前の涙、お前の傷、お前の苦しさ。そして、お前がそれをどん
な風に消化してきたかを。試練をどんな風に強さに変えてきたかを。お前のその生き
様が俺を捕らえて放さない。俺の胸がきりりと痛んだ。最近、オスカルを見ると胸が
苦しくなる。俺はお前を・・・。
オスカル、お前の涙は俺が引き受けてやる。一生、この胸はお前だけの泣き場所
だ。俺は決心するように、先を歩くお前の後を追った。
Fin
☆☆☆☆☆Geminiのひとりごと☆☆☆☆☆
「わたしは・・・わたしは今まで平気で・・、平気であの胸に顔をうずめてきたの
か・・・あの胸に・・・」このセリフから妄想が爆走しました。あの時代、私達が想
像する以上に「女」ということがオスカル様に重く圧し掛かっていたのではないかと
想像します。彼女の苦しみを思うと胸が苦しくなります。
それにしても、わたしもこんな泣き場所が欲しいよ〜。