La bataille =戦場=@
オスカルは、何が起こったのか分からなかった。突然襲った激しい咳き込み。そし
て・・・。
それは一瞬のことだった。アンドレがオスカルの前に飛び出す。聞こえたのは銃
声。
目の前のアンドレの顔に一筋の緋色の液体が伝わる。彼の体がゆっくりと崩れ落ち
る。オスカルは体が凍りついたかのごとく体と心が言うことを聞かない。思考が止ま
る。周囲の銃声さえも聞こえぬほど、今自分がいる現世が、まるでうつつの世界のよ
うに実体のないものに思えた。
「アンドレーッ!」
突然、オスカルの耳をつんざくようにアランの叫び声が聞こえた。オスカルはその声
で現実に引き戻された。だが、体がすくんで思うように動かない。目の前にアンドレ
の乗っていた馬が主なきまま立ち尽くしている。足元にアンドレが。オスカルはどう
やって馬から降りたかもわからぬほど、気がついたときには夢中でアンドレの体にす
がり付いていた。アランがかけ寄って来る。
「アンドレ、このバカ野郎。」
アランの声が悲し気な色をおびて辺りに響いていた。
オスカルは目の前の現実が現実でなければと祈るようにアンドレの体を抱き起こす。
だがそこにある紛れもない現実が容赦なくオスカルを叩きのめした。アンドレの体は
緋色に染まっている。その姿を見た途端、彼女の頭はアンドレ以外のことを考えられ
なくなり、彼女の目はアンドレ以外見えなくなっていた。
「ユラン伍長、あとの指揮をまかせる。」
かろうじて残っていた軍人の理性が、咄嗟に言わせた言葉。
―アンドレを手当てしなければ―
オスカルの頭にはそれだけしかない。必死でアンドレの体を支えて立ちあがらせる。
普段は自分を見下ろす位置にあるアンドレの頭がぐったりとオスカルの肩の下にあ
る。そこからくぐもった声が聞こえる。
「指揮を続けろ・・・。た・・隊長が・・・なぜ戦闘現場を離れる・・・。」
「しゃべるなっ」
オスカルは自分自身の体全部から血が噴出している感覚に襲われる。
―アンドレを失うかもしれない―
アンドレを失う?それは彼女には考えられないことだった。共に生きてきた、いつも
二人で。そして・・・自分の命の全てを燃やしてもいいと思うほど愛している男・・
・。それを失う?
オスカルは生まれて初めて襲いかかる本当の恐怖感を振り切るように、必死でアンド
レの体を抱くように歩く。
アンドレは痛みの中で、自分に必死にすがりつくようなオスカルを、尚も抱きしめ
たいと思った。オスカルへの思慕がアンドレの頭の中を一気に駆け巡り、幼い頃から
見つめつづけた彼女を思い出していた。そして・・・今朝まで交わされたあの激しい
愛の誓い。かけがえのない自分だけの永遠の女・・・。だが・・・アンドレは無意識
のうちに己の感情を征していた。
―オスカル、だめだ・・・。お前はやらなければならないことがある―
だが言葉が声にならず、オスカルの腕を掴んで戦闘現場に向かわせようにも体がいう
ことをきかない。
―俺は・・・このまま死ぬのか?オスカルを残して・・・?―
アンドレの心は急に締め付けられた。オスカルは一人残されたら、どうするだろう・
・・。残されるオスカルを思いやると、あまりに哀しい・・・。あふれ出るオスカル
への限りない思いを止めようもなく、知らぬ間に子供の頃一緒に歌った歌を歌ってい
た。
―父よ、母よ・・・。愛する者を残していかなければならなかったあなた方の辛さ
が、今ならよくわかります。
できることなら・・・オスカル、お前をこのまま一緒に連れていきたい。だが、そ
れでは、お前が掴もうとしているお前自身の真実を、お前は永久に手に入れることが
できなくなる。お前は掴め、苦しみもがきながら見出した、人としての誇りを。・・
・だから、俺はお前をおいていくぞ。そしてどうか、オスカル・・・俺がいなくて
も、お前のその命の輝きを失わないでくれ。俺が・・・いなくても・・・・。
「み・・みずを・・」
息を荒げるアンドレがかすかな声でつぶやいた。アランが聞き逃したその声をオスカ
ルは聞き逃さなかった。
「あ・・水?・・・わ、わかった・・・。す、すぐに持ってきてやる。」
オスカルは半泣きの顔に無理矢理笑い顔をつくって、そして駆け出していた。
「隊長、俺が行きます。」
アランの声は虚しくオスカルの上を通りすぎていく。まるで別の人間に向けられた言
葉のように。今の彼女にはアンドレ以外何も見えない、アンドレの言葉以外は何も聞
こえない。オスカルは駆けて行く。
「隊長、アンドレの側にいてやってください。」
アランがオスカルの後を追いかけようとしたとき、アンドレがアランの腕をとった。
「アラン・・・このままに・・・。」
苦しそうな息の下からアンドレが搾り出すような声を出す。
「何言ってるんだ!おめえ、隊長と片時もはなれちゃいけねえ!」
アンドレが静かに微笑んでいるのを見て、アランは涙を止めることが出来なかった。
「オスカルは・・・あいつは・・俺がいなかったら生きていけないだろう。だが・・
・あいつにはしなければならないことがある。・・・・・・それを・・やり遂げなけ
れば・・決して幸せには・・・なれないだ・・ろう。」
アンドレの息づかいがだんだんと大きくなっていく。アランはアンドレの言っている
意味が把握できないでいた。
「何言ってやがるんだ、しっかりしろー、このばか野郎ー。隊長が戻ってくるまで死
ぬんじゃないぞ!!」
アランは男泣きに大泣きながら怒鳴っていた。アンドレは大きく息をする。
「アラン・・・オスカルに俺が死んでいくところを見せては・・いけ・・・ない。あ
いつの記憶に俺の死を刻み込んでは、あいつは本当に生きていけなくなるだろう・・
・。オスカルは・・こうして市民とともに戦うことを選び取ったのだから・・・それ
を・・・己の信じる道を・・・全うしなければ・・あいつは幸せになれない。・・・
オスカルが生きてきた意味を・・・あいつ自身が掴み取るまで、生きなければならな
いんだ・・・。俺は・・オスカルに生きる力を・・・残してやりたい。だ・・から・
・・俺が逝く瞬間をあいつに見せるな・・・。」
アランは哀しみにうちひしがれながらも、最期の最期まで一人の女を愛しぬこうとす
るアンドレという男の、この壮絶な思いを前に感動で胸が熱くなった。
(なんという男だ、アンドレ。お前ってやつは・・・。男は・・こんな風に女を愛す
ることができるのか・・・。俺は一生・・・お前にかなわない。)
アランはアンドレの手を握った。
「わかったよ、アンドレ。男の約束だ。俺の命に引き換えても隊長には生きてもらう
ぜ。」
アンドレのただ一つの瞳がしっかりとアランを捕らえた。今も尚強い光をたたえてい
るその吸い込まれそうな黒い瞳がアランをみつめ、そして見えない何かを追うように
輝いた。
時はめぐりめぐるとも
命謳うものすべて
なつかしきかの人に
終わりなきわが思いを運べ、わが思いを運べ・・・
ああ、青い瞳その姿は
さながらペガサスの心ふるわす翼にも似て
ブロンドの髪ひるがえし・・ひるがえし・・・
「オスカル・・・お前を愛して、よかった・・・。」
一瞬、アンドレの顔が輝いた。今はほとんどの視力を失ってしまったその瞳が何かを
見つけたように歓び、はかりしれない優しさを込めて微笑んだ。アンドレの頬に一筋
の涙が流れ、その涙を噛み締めるようににゆっくりと閉じられた瞼は、二度と開くこ
とがなかった。
オスカルは駆けていた。アンドレに一刻も早く水を―その思いだけで夏の暑い黄金
色の光が満ちるテュイルリー通りの石畳の上をただひたすら駆けていた。今の彼女の
頭には、近くで部下たちが戦闘を繰り広げているという現実も、自分がさきほどまで
彼らを指揮していた事実も全てを忘れていた。今、彼女にあるのは愛する人のことの
み。アンドレを失うかもしれないという恐怖感と、「あいつが私を置いていくわけが
ない」とその恐怖感をかき消す言葉が、彼女の頭の中に交互に浮かび、お互いをかき
消しあってはまた浮かんだ。西に大きく傾いた太陽からの熱射のせいなのか、それと
も己の内なるところからか、オスカルの体の中心が、どくどくと血潮が流れるのが感
じられるほど熱くなっていく。オスカルは走りながら、アンドレの名を呼び続けてい
た。
「アンドレ、アンドレー」
しかしオスカルを待っていたのは、愛しい男の、今は永遠に閉じられてしまった瞳
だった。先ほどまでの体の中の熱が一気に冷めていく。体温の下降とともに、彼女自
身の体と魂までも、地底に引きずり込まれるようにオスカルはその場に膝を折った。
「・・・アンドレ・・・。」
呼びかけてもその瞳は開けられるはずもなく、その事実が彼女を少しずつ蝕んでい
く。
「おい・・・冗談はよせ、アンドレ・・・。ほら、目を開けろ。」
やっとの思いで言葉を口にしてみても、彼女に答えるものはいなかった。
「目を開けろー、アンドレーー!!!」
どんなに叫んでみても、どんなに体をゆすってみても、いつもならすぐに彼女に応え
る彼は、物言わずそこに横たわるのみであった。オスカルは茫然自失となってアンド
レを見詰めていた。そんな彼女の肩に触れる者がいた。ベルナール・シャトレであっ
た。
「シトワイヤン、アンドレ・グラディエ。」
その言葉がオスカルの心臓を握りつぶす。死者に対するはなむけとして、「シトワイ
ヤン」という称号をつけるのがパリで流行していると聞いていた。ならば、アンドレ
が死者だというのか・・・・・。オスカルはその思いを否定するように、激しく首を
横に振ってその場から再び駆け出していた。
「撃てー、私を撃てー、お願いだ、撃ってくれ・・・撃ってくれ!!」
駆けながらオスカルは叫ぶ。アンドレが死者だというのなら、自分も彼と同じ死の世
界に行こう、アンドレが地獄の果てに行くというのなら、自分も迷うことなくその後
を追おう、オスカルはただただ、アンドレを求めていた。もう一度微笑んでくれると
いうのなら、よろこんで身を滅ぼそう。だが・・・その微笑をみう二度と再びみるこ
とができないことが恐怖にすりかわっていく。その恐怖から逃れるようにオスカルは
駆けずにはいられなかった。
そんな彼女の腕を、後を追ってきたアランが掴んだ。かつて、怒りに任せてベル
ナールに鞭を振り上げた手をアンドレに制されたときのように。
―武官はどんなときでも感情で行動するものじゃない。
あのときにアンドレの言葉が蘇る。
「けれど・・・けれど人間だ、人間だ、人間だー。」
オスカルは自分が生きている悲しさに打ちひしがれ、アンドレとともに旅立てなかっ
た己に対して恨みさえ抱いていた。呼吸の仕方を忘れるほど苦しくて苦しくて、体の
全てが壊れていくようだった。
「隊長、あなたはアンドレの思いを受け取らなければいけない。」
泣き崩れるオスカルの背後からアランが声をかけた。
「アンドレの・・・思い・・・?」
「そうだ、アンドレがどんな思いで旅だったか・・・。」
オスカルは涙に濡れた目でアランを振りかえった。
「あなたは、あなたはやらなければならないことがあるでしょう、隊長。アンドレが
言っていた、あなたが自ら選んだ道を全うしなければ、あなたは本当の意味で幸せに
なれないと。それをやり遂げるため、あなたは生きなくちゃならないんだ。そのため
に、アンドレは、あなたに生きる力を残していくと言ったんだ。アンドレの死の記憶
をあなたの中に刻み込まないように、本当だったら、好きな女の腕の中で死にたいだ
ろうに・・・。それを、わざと隊長を遠ざけるようなことをして・・・。あいつの思
いを受け取れないというのなら、たとえ隊長でも俺はこの場でぶんなぐるっ。生きて
もらいます、隊長。俺はアンドレと約束したんです。あいつの後を追うようなことを
したら、あんたがアンドレの生き様を踏みにじったことにんるんだ、わかっています
か、隊長!!」
その言葉を聞いたオスカルは声もなく、ただ次から次に涙が溢れてくるのにまかせ、
はるか彼方の空を見詰めつづけていた。彼女の蒼い瞳からは絶えることなく透明の雫
が次から次に流れ落ち、熱射の光が石畳に反射してその雫を照らしていた。震えるよ
うに小さくすすり泣き続けるオスカルの姿をみてアランは、何もできずに握りこぶし
を震わせて立ち尽くした。
(そんな姿を俺に見せるんですか、隊長。あなたはいつも光り輝き、自信に溢れ、一
分の隙もない武官だった。そのあなたが、こんなに儚げな姿で愛する男の死を嘆いて
いる。あなたのこの姿は、永遠に俺の心に焼き付き、消えることはないでしょう。そ
して、俺はそんなあなたに何もしてやれない自分自身が憎い。何故俺はあいつではな
いのだ・・・。)
やがてオスカルは、ゆっくりと立ちあがり、涙にくれた顔をアランに振りかえりもせ
ず、セーヌの河岸に向かって歩き出していた。
「隊長!」
アランの呼ぶ声にも何の反応も示さず、無表情のまま彼女は足を引きずるようにセー
ヌに運ぼうとしていた。その様子はあまりに悲痛で弱々しく、気を抜くと泡と化して
消えてしまうのではないかと思えるほど儚げで、これまで屈強の男たちをまとめあ
げ、かつてはフランス陸軍の至宝と湛えられたこともある男装の女隊長とは誰の目に
も映らなかった。
アランはアンドレの亡き骸をオスカルの目に触れないところに移さなければ、と
思った。これ以上、アンドレの死を実感すれば、きっとオスカルの心は壊れてしまう
・・・。アランがアンドレの体が横たわるところに戻ると、さきほどの男がずっとア
ンドレの横に座りこんでいた。
「あなたは・・・二人の知りあいですか?」
その男の尋常ではない表情に、ただの通りすがりでないと見て取ったアランは改めて
その男を見た。アンドレのように黒い髪と黒い瞳。
「・・・アンドレのこの左目は・・・俺がつぶしたんだ・・・。」
その男は肩を震わせながらそう言った。
「彼の左目を俺が潰さなければ、アンドレは撃たれることはなかった・・・。」
男は自分の膝の上の握りこぶしを震わせながら目に涙を滲ませていた。
「あなたと二人にどんな事情があったのか俺は知りません。だが、今はあなたの感傷
に付き合っている暇はないんだ。あなた・・・名は?」
「ベルナール・シャトレ。妻は昔ジャルジェ家で世話になっていた。」
「だったら話は早い。アンドレを預かってくれないか。戦闘が終わったら迎えに行く
・・・。だから・・・。」
しかし迎えに行ったところでアンドレの目が再び開くことがないのだと思いながらア
ランは涙に暮れていた。
パリの夏は日が暮れるのが遅い。夜の9時を過ぎても薄明かりが射している。オス
カルは夕暮れ時を思わせる光と闇の狭間に身をたゆたうように、セーヌ河岸にたちつ
くしていた。薄明かりが水面に優しい影を落として、かすかに光っている。その水面
を見詰めるオスカルの目には、出会った頃からのアンドレの姿が幻となって浮かんで
見えていた。そこにあるアンドレの姿にオスカルはその場を離れられなくなってい
た。
―アンドレ・・・・・・。何よりも大切なお前、そのお前の思いだからこそ、私は
しっかりと受け取ろう。私は・・・私は己の真実をつかみ取りに行く。だからそれま
で、少し待っていてくれるな、アンドレ。少しだから・・・少しの間だから・・・。
セーヌの上に夏の熱気を含んだ湿っぽい重い空気が風となって通りすぎる。その度に
水面がゆらめき、オスカルの瞳に映るアンドレの幻も哀しく揺れていた。
Fin