La bataille =戦場=A
人々がオスカルの目の前を疾風のように駆けぬけて行く。空気が動き出す。
セーヌ河畔でアンドレの幻を見詰めつづけていたオスカルに朝の光が注いでいた。
川の反対岸には男たちが数人、鍬やら斧やらを手に何やら相談している。やがて彼ら
を呼びに来る別の仲間に加わって、小さな集団となりセーヌの西側に向かって駆け出
した。その様子を見ていたオスカルはやっと、足を動かし出した。彼女には涙の跡も
なく、空虚な目をして歩くのみだった。
パリの街のあちらこちらから人々の決起した声や、奮起させるような歌が聞こえ
る。慌しく走り回る若者の集団。逃げるように子供の手を引いて走る母親。いつも瀟
洒な雰囲気を湛えるサントノレ通り界隈にまでも、辻々に殺気立った市民のグループ
が何かの相談をするようにひそひそと話している。やがて一つのグループに別のグ
ループが加わり、家々から顔を出した男も女もそれに加わって、徐々に大きな人の群
れを作っていった。パリの街の空気が張り詰め、大きな怒涛となってうねり始めた。
太陽が高く登り始める。
人々が生み出している空気の流れに後押しされるように、オスカルは覚醒されてい
く。人が何かを求めるエネルギー、何かをつかもうとするときに生まれる波動が彼女
の瞳に力を注いでいった。
この日、決起した市民たちは陸軍の武器庫があるアンヴァリッドを襲い、王制権力
の象徴であり、市民の憎悪の象徴であったバスティーユ牢獄に向かって群れをなして
突進していった。前日、発砲した王室側の軍隊が、今日はその数を増やして襲いか
かってくるかもしれないという猜疑心に取りつかれた者、長引く圧制に耐えかねた
者、ルソーやヴォルテールの唱える人間としての誇りに目覚めた者・・・。群れをな
す市民たちのそれぞれの思いが、大いなる歴史の渦に呑みこまれようとしている。彼
らは自ら選び取ってその渦に身を投じる。犀は投げられた。
フランス衛兵隊の面々は、一晩姿を消していた隊長が、野営地に戻ったときは皆
揃って胸を撫で下ろした。衛兵隊も多くの兵士を失っていた。アランは自分たちの元
に戻ってくれたオスカルを見て、その足元に跪いて、足にくちづけをしたいほど感謝
の気持ちで一杯だった。
(隊長は俺たちを見捨てるような人じゃない。この戦闘を途中で放り出すような情け
ない軍人でもない。そして・・・アンドレのあの思いを受け取れないような・・小さ
な人間ではないのだ)
オスカルは、そこにいる兵士一人一人の顔を見渡した。傷ついた者もいるが、誰一人
怖気づいた表情をしていない。まっすぐに自分を見る瞳を見渡しながら、オスカルは
彼らが命を自分に預けてくれていることを悟っていた。彼らがこの戦闘で掴み取ろう
としているものは、兵士としての功績などではなく、一人の人間として求めている
「明日への希望」だけだった。
アランは眩しい思いでオスカルを見ていた。彼女の姿はあまりに孤高で、凛として
いる。それは彼女自身が、この戦闘を通して人としての真実の姿を求めようとしてい
るからだとアランは感じ取っていた。彼女をそうさせたのはアンドレだったことを彼
女の怜悧な表情が物語っている。そのアンドレがいなくなって、彼女がどうやって一
晩を過ごしたのか誰にも想像がつかない。しかも自分達の前で、アンドレの名を一言
も口にしないオスカルに、アランは自分の胸が潰れそうなほどの痛みを感じてい
た。。
―気を張り詰めて、やっと立っているのか、隊長。
アランは目頭が熱くなっていた。
オスカル率いるフランス衛兵隊がバスティーユ牢獄に到着したとき、市民側は圧倒
的に不利な状況にあった。市民達が衛兵隊の姿を見つけたとき、彼らの誰もが暗闇の
中に一条の閃光を見出した心地だった。オスカルは市民の先頭に立つ。
彼女の体に血液が駆け巡る。指先に、髪の毛一本一本までに、沸き立つような血潮
が速度を上げて流れ出す。腰に下げたサーベルに手をかけ、ハラリと鞘から抜き取っ
た剣を、オスカルは天に向けて高々と掲げた。太陽が一瞬、そこだけに光を射したよ
うに剣の刃が輝いた。オスカルはその剣を指揮棒代わりにゆっくりと後ろに引き、一
気にバスティーユ城壁目指して指し示した。
「撃てー!!」
爆音と共に黒煙が一瞬、市民の視界を遮り、そしてその中から、ばらばらと石の塀が
落ちるのが見て取れた。市民たちの大地を揺るがすかのような歓声。それからは一気
に戦況が市民側に有利に傾く。
バスティーユ守備兵たちの放つ銃弾に倒れる兵士や市民、砲弾を受けて燃え上がる
大地、薬きょうから立ち上る火薬の匂い、銃口からの紫煙。それらがオスカルの感覚
をより鋭いものに変えて行く。彼女は戦場の中で大きく息をしながら周りの市民達に
目を奪われていた。抑圧された人間の怒り、自由を求める力、未来を掴みに行こうと
する人間の雄々しさを彼女は戦闘の中に見出した。市民たちの、誇りに満ち、そして
信頼と期待を込めて向けられる視線がオスカルを突き動かす。闘いの中で、オスカル
は人間のすばらしさを感じ入っていた。蔑みや貧困の中でさえも、人間はこうして心
の尊厳を見つけ出し、それを掴むために自らの身を賭して闘いを挑むことができる強
さを兼ね備えているのだ。オスカルは、長い逡巡の末に得たアンドレとの愛で、一人
の人間としての尊厳を勝ち取った己のように、今、ここで血と泥にまみれながらも生
きる誇りを勝ち取ろうとする人々に共鳴せずにはいられなかった。共に闘い、魂の自
由を求めるために、自分がここに存在するのだと、この凄惨な戦場の中でオスカルは
知った。
―彼らとともに、今こそ、私は生きている!!―
そう思った瞬間だった。
スガーーーーン!!
あの夜、アンドレが優しくくちづけた彼女の肩を銃弾が射貫いた。
「ア・・・アン・・・ドレ。」
ドウッ!!
仰け反ったオスカルの体を容赦なく銃弾が襲いかかる。痛みより強い衝撃のかなたか
ら、オスカルは必死でアンドレの名を呼んでいた。しかし無情にも尚も銃弾が彼女の
体を撃ち抜いていく。声にならぬ声で必死にアンドレの名を呼ぶオスカル。だがオス
カルのその心の叫びに答えるものはおらず、そのとき初めて、オスカルはアンドレが
いないという悲しみとともに、強い痛みが体中を襲ってくるのを感じていた。
(わたしがこんなに苦しいのに・・・アンドレ・・・いつもならすぐに手を貸してく
れるお前が・・・いない・・・。わたしは・・・一人なのだ・・・。)
オスカルは孤独だった―。
「隊長ー!!」
「隊長!!」
兵士達が叫ぶ。
「続けて・・あと・・・ひといきで・・・バスティーユは落ちる。つ・・づけて・・
・。」
今ここで戦闘を中断するわけにはいかない。市民とそして自分が本当の自由を勝ち取
るまでは。薄れ行く意識の底から、オスカルは搾り出すように最後の命令を出してい
た。
オスカルを抱いて、アランが手当ての場所を探してさまよう。まとわりつくような
熱気が満ちるパリの街には負傷した市民達で石畳が埋め尽くされていた。人々のうめ
き声があちらこちらに響き渡っている。オスカルの体を染める緋色が時を追って大き
くなっていく。白いしなやかな手に幾筋も血が流れている。オスカルはずっとアンド
レの名を呼びつづけていた。
―アンドレ、わたしのアンドレ・・・。苦しくはなかったか?ああ・・・お前は苦し
くはなかったか。お前が絶えた苦しみなら、私もたえてみせよう、たえてみせると
も。長くはなかったか・・・。死は安らかにやって来たか。アンドレ、アンドレ・・
・私が臆病者にならぬよう・・・おお・・抱きしめてくれ。
「きゃあぁぁ、オスカルさまっ!!」
アランがオスカルを抱いて、アンドレの体を預けてあるベルナールの家の近くまで辿
りついたとき、救護の手伝いをしていたロザリーに鉢合わせた。
「あちらで怪我人の手当てを。」
オスカルは懐かしい聞き覚えのある声の主を確かめてにっこりほほえんだ。
「お・・・ろしてくれ・・・。もう・・・・。」
「だめぇ!!はやく、あちらへ!!」
「ア・・ンドレがまって・・いるのだ・・よ。お願い・・降ろして・・・。」
オスカルを微笑ませるものは、もはやアンドレへの限りない思いだけだった。市民の
先頭にたって指揮をする女隊長から、一人の女へと鎧を脱いでいく。アランは今目の
前にいるオスカルこそが、真の彼女の姿なのだと悟った。彼女は女神になりたかった
わけではないのだ。一人の女として、一人の男に殉じたいと願う、純粋なまでの女・
・・。それを認めたからには、これ以上、彼女に重荷を負わせることができない。ア
ランは涙を止めることが出来ないまま、そっとオスカルを横たえた。
「オスカルさま、待ってくださいね。今、傷口をしばりますから。」
「ロザ・・・」
「しゃべらないでっ。ああ、体に力を入れないで・・・。お願いだから・・・。」
オスカルは苦しい息の下、消え入りそうに微笑んだ。その微笑があまりに美しくアラ
ンとロザリーの胸をえぐった。
「どうか・・・私をアンドレと同じ場所に・・・。わたしたちはね・・夫婦になった
のだから・・・。わたしたちは離れては生きていけない・・・。私はアンドレのも
の、アンドレは私のもの・・・。アンドレがいない・・・この苦しみに・・・私はこ
れ以上絶えられない・・・。もうすぐ・・・アンドレに逢える・・・今・・私はとて
も幸せだ。」
「オス・・カルさまぁ・・・。」
ロザリーはただ泣きつづけるだけだった。
「泣かないで、ロザリー、私は今、こんなにも安らかだ。神の愛に報いる術ももたな
いほど、小さな存在ではあるけれど、自己の真実のみに従い、一瞬たりとも悔いな
く、与えられた生を生きた・・・。人間としてこれ以上の喜びがあるだろうか。愛
し、憎み、泣き・・・ああ、人間が繰り返してきた、生の営みを・・・私も・・
・。」
オスカルの顔は誇らしく、澄んだように輝いた。そして霞んでいく視界を引きとめる
ように、ロザリーの手を握った。
「ロザリー・・・父上と母上に伝えてくれるか・・・。オスカルは・・・お二人の娘
に生まれて・・本当によかった・・と・・・。私は愛するアンドレとともに・・・こ
れからも幸せでいる・・・だから・・・悲しまないで・・・。わたしたち二人に・・
・どうか祝福を・・・。」
そこまで言うと、オスカルはこの上もない美しい笑みのまま息を荒げ出した。
「オスカルさまー!!、だめぇぇ。」
アランが涙を止めようと、顔を上に向けたときだった。バスティーユ牢獄の城壁に白
い旗が翻っているのが見えた。
「た、隊長!バスティーユに白旗が!!」
その声にオスカルは閉じかけていた瞳を見開いた。アランとロザリーがオスカルの体
を抱き起こす。バスティーユの城壁に掲げられた白旗。それはまさに市民達が勝ち得
た人間としての尊厳を象徴するように、輝かしく、美しく、7月のパリの太陽を受け
て、藍天の眩しいまでの光を反射して翻っていた。
「遂に・・・おちたか・・・。果敢にして偉大なるフランス人民よ。自由、平等、友
愛。この崇高なる理想の永遠に人類の固き礎たらんことを・・・。フランス・・・万
歳」
オスカルの体から力が抜けたように感じた。
「隊長ー!!」
「オスカルさまー!!」
オスカルは尚もうっすらと目を開けて微笑んだ。しかしその瞳が見詰める先は、もは
やバスティーユでも、目の前の部下の顔でも、かつて彼女が「私の春風」と慈しんだ
ロザリーでもなかった。蒼い瞳は天空を向いていた。
「アンドレ・・・もう・・・いいだろう?お前から受け取ったその思い・・・お前に
返そう・・・・・・。お前に会ったら私は胸を張ってお前に言おう、私は自分の信じ
た道を悔いなく歩いた、と。・・だから、アンドレ、早く私を迎えに来てくれ。早
く、その腕に私を抱きしめてくれ・・・。2人で幸せになろう。アンドレ・・・アン
ドレ・・・。」
どこにそんな力が残っていたのか、オスカルは両の腕をゆっくりと天に差し出した。
何かを捕まえるように、何かにすがるように。そして蒼い瞳が深みを増して輝いた瞬
間があった。
「ア・・ンド・・・レ・・・」
愛しい男の名前を口にしながらオスカルは永遠に目を閉じた。
華やかなベルサイユに、かつて輝くばかりの美貌で人々の羨望の眼差しを向けられ
ていた男装の近衛仕官は、己の真実に殉じ、己の思想に殉じ、そして愛に殉じた人間
にだけ許される神々しいまでの微笑をたたえて愛する人のもとに旅立っていったの
だった。
Fin