オスギリアスをあとに はかり様作 (挿絵Alatariel)
「すべての善き人間たちの善意を負いて行き給え!」
オスギリアスでファラミアから解放され、フロドとサムは再び、滅びの山へと
歩き出していた。
イシリエンとはまた違う、荒れた木々や枯れ草が散在する森の中を進んでゆく。
ゴラムは見えなくなるほど前方を這っていた。
フロドは歩を進めながら、背後にサムの気配を感じていた。背中に耳があるか
のように。すぐ後ろについてきてくれる彼の足音に励まされる。それはフロドに
とって充分すぎるほどの安心感だった。そばにいてくれる。それだけで、どんな
に心強いことか。
袋小路屋敷を出発した時も二人きりだったが、今のような重圧感は無かった。
ただ闇雲に、不安と闘いながら進むしかなかった。
でも今は違う。どれだけ、サムの存在がありがたいか知れなかった。
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それは、オスギリアスでのことだった。敵の攻撃を受けるゴンドールの要塞に
、ナズグルが飛来した。黒の乗り手の気配に意識を引きずられて自己を失ったフ
ロドは、ふらふらとナズグルの前に姿を見せ、まさにその眼前で指輪をはめそう
になったのだ。間一髪、それを止めたのはサムであった。捨て身の覚悟で敵の前
に飛び出し、フロドを抱え込んだ。二人はもつれあって倒れ、階段を転がり落ち
―――我を失ったフロドはサムに剣を突きつけた!
一瞬の間ののち、絞り出すような声音でサムは訴えた。
「おらですだ、旦那のサムですだよ。…わからないんですか?」
サムの必死の呼びかけが意識の底に届き、フロドは自分を取り戻しながら悲痛
に表情を歪めた。目の前にいるのは敵ではない、サムだった―――そして剣を取
り落とし、力なく座り込んだ。
「わたしには出来ないよ、サム…。」
そう、フロドは指輪の恐怖と、絶望と常に闘っているのだ。導き手であったガ
ンダルフを失い、守ってくれたアラゴルンや他の仲間とも別れ、たった一人で運
命に立ち向かわなくてはならない。フロドと指輪の間に、サムが入っていけるは
ずもなかった。サムもそのことは承知していた。しかし、せめて主人を助けたい
、力になりたい、そんな一途な思いでついてきたのだ。
「わかっております、フロドの旦那。」サムは、剣を突きつけられた喉元を押さ
えながら起き上がった。
自分には何が出来るかわからない。剣の達人でもなく、弓を射ることも出来な
い、一介のホビットに過ぎないのだ。けれど、フロドを守りたい気持ちは誰にも
負けない自信があった。サムは本能で知っていたのだ。腕力だけが彼を守るので
はないことを。ただ愛する。サムの唯一の武器は愛情であった。重荷を一緒に背
負えなくとも、そばにいることは出来る。彼を支え、励まし、力づける。その気
持ちを伝えなければならない。
サムはフロドのそばに膝を落とすと、主人の力ない体をそっと抱きしめた。
「わかっております。フロドの旦那。だいじょうぶです、うまくいきます。サム
がついてますだ。旦那はお一人ではございません。こんなところまで来てしまっ
たけれど、おらたちはまだ先へ進めますだよ。旦那は大切なものをたくさん持っ
ていらっしゃる。袋小路屋敷や、シャイアのきれいな緑や、ビルボの旦那や、ロ
リアンの奥方もおいでだ。みんな旦那が大切になさりたいものでしょう?それを
守るんです。まだやってみる価値はありますだよ、フロドの旦那。」
フロドの目から涙があとからあとから流れ出た。震える腕がしっかりサムの背
に回された。サムはもう一度ぎゅっと主人を抱きすくめるとそっと離し、彼の目
をのぞきこんだ。フロドの大きな瞳からあふれる涙をぬぐってやり、頬を両手で
包み込んで額にキスをした。それは、フロドの心の奥につかえていた辛苦をゆっ
くり溶かしていくような、慈愛に満ちたものだった。
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「おらたちはどんな種類の話の中に落ち込んじまったんでしょう?」
すぐうしろから、サムの話す声が聞こえてくる。フロドは我に返り、耳をそば
だてた。
「おらたちが歌やお話の中に入れてもらえるんでしょうか?物語になって、何十
年何百年後に、暖炉のそばで、すごくでっかい本の中から読まれることがあるだ
ろうかってこってすだ。そしたらみんなが言いますだ、
『フロドと指輪の話を聞かせておくれ!』ってね。
それから誰かがこう言いますだよ、
『うん、それはおらの一番好きな話の一つだよ、フロドって、とっても勇敢だっ
たんだね、とうちゃん?』
『そうとも、坊、ホビットの中で一番有名なんだよ!』」
「おやおや、サム。」フロドは心から楽しそうに笑い声をあげた。
「おまえは主要人物の一人を忘れてるよ。勇者サムワイズをね。
『サムのことをもっと話しておくれよ、とうちゃん?『」
そしてフロドは振り返って足を止めた。主人の真剣なまなざしに、思わずサム
も立ち止まり、フロドを見つめ返した。
「『フロドはサムがいなかったら、遠くまで行かなかっただろう。』」
フロドの表情はシャイアにいた頃の落ち着きを取り戻し、安らぎに満ちていた。
たとえ一時の平安だったとしても、フロドにそれを与え、自信を取り戻させたの
はサムであった。
「さあさあ、フロドの旦那、からかわないでくださいよ。」サムは自分のほうが
おどけているように言った。「おら真面目なんですから。」
「わたしだってそうだよ。」
フロドはサムに一歩近寄り、肩に手を置いて頬にキスをした。
そして何か言いたげな深い瞳で一瞬サムを見つめると、踝を返して歩き始める
のだった。
「勇者サムワイズ、か。悪くないだな!」
サムはフロドの言葉に満足し、肩の荷物をしっかり背負い直すと、主人を追っ
て自分も歩き出した。
おわり