小鳥のサムと白いミモザ はかり様作 (挿絵Alatariel)
2月はじめのある暖かい日のことだった。その日、フロドは一組の夫婦を客と
して迎えていた。それはフロドの母方の従姉にあたるアルテアと、彼女の夫であ
った。サムはお菓子を焼いたりお茶を入れたり、三人のそばを行ったり来たりし
ながら忙しく働いていた。
「アルテア、立派なお腹になったねえ、いつ産まれるの?」
フロドはサムが入れてくれたお茶を飲みながら、アルテアに尋ねた。彼女は身
ごもっており、大きくせり出したお腹を抱えていた。
アルテアはいとおしそうに腹部を撫でた。
「4月の上旬くらいですって。おかげさまで順調よ。」
アルテアは結婚以来、袋小路屋敷から離れた場所に居を構えており、自然とそ
れ以前よりはフロドとの親交は少なくなっていた。が、こうして久しぶりに会っ
てみれば優しい雰囲気は変わっておらず、フロドは少し年上のこの従姉が昔から
好きだった。
「それでね、フロド。実は今日はお願いがあって来たの。」
「うん、なに?わたしで出来ることなら力になるよ。」
アルテアの改まった表情に、フロドはカップをテーブルに置いた。アルテアは
神妙そうに夫のマルコをを見やると、フロドのほうへ身を乗り出した。
「子供の名前を考えてほしいの。どうかしら?」
「え。…そんな大切なこと、わたしに頼んでもいいの?マルコとよく話し合った
?」フロドは少し慌てて答えた。
「ええ、二人で相談して決めたの。もちろん、あなたさえ良かったら、なんだけ
れど。」
「そりゃ、嫌なわけないじゃないか。わたしだって二人のために出来るだけのこ
とはしたいし。」
アルテアはにっこり笑った。
「じゃあ、引き受けてくれるのね、ありがとう、フロド。」
「フロド、本当にありがとう。」
続いてマルコにも深々と頭を下げられ、またしても慌てるフロドであった。
「そんな、わたしなんかで良ければ。光栄です。良い名前を考えさせてもらいま
すよ、マルコ。」
「あなたにお願いしようと思ったのはね、」アルテアは微笑みながら、昔を思い
出すような遠い表情になった。「プリムラ叔母さま、つまりあなたのお母様が私
の名前をつけてくれたからなの。」
「大役を仰せつかりましただね、フロドの旦那。」
アルテア夫婦が帰ったあとのテーブルを片付けながら、サムは主人に話しかけ
た。
フロドは木製の揺り椅子に体をもたせかけ、考えこんでいたが、我に返ってサ
ムのほうを見やった。
「本当だね、緊張してしまった。アルテアには小さい頃、よく遊んでもらったん
だ。お世話になったんだよ。彼女の子供に名前をつけるなんて、嬉しいけど畏れ
多いなあ。」
「良いお名前をつけてさしあげてくださいまし。」
「そうだね、さっそく考えてみるよ。」
ゆるく微笑んだフロドに笑い返しながら、サムは手を休めずに後片付けに精を
出していたが、ふとその動きが止まった。フロドがそれに気づき、ん?とサムを
見る。
「旦那、見てくだせえ。この花…。」
「なんだい?花がどうかしたかい?」
フロドは立ち上がり、サムへと近づいた。サムが凝視しているのは、アルテア
が手土産に持ってきた、ミモザの切花だった。自宅の庭に咲いているのだという。
すでにサムの手によって素焼きの花瓶に入れられ、窓辺に飾ってある。ポンポン
のような淡い黄色の花がいくつも咲いた、可憐な眺めだ。
「旦那、この花、ここだけ白いですだ。」
サムは丸い花の一部を指さした。なるほど、黄色い花の中でひとつだけ、真っ
白なものがある。フロドも、まじまじとそれに見入った。
「本当だね、ミモザにも白いのはあるのかい?」
「いや、聞いたことねえです。多分、ここだけ栄養が足りないか何かでしょう。
花にはめずらしいことではないですだ。」
「そう、おまえは物知りだね、サム。」
何気なく褒められて、サムは頬を赤くした。フロドはそんなサムには気づかず、
あっという間に白い花を茎ごと手折り、手に乗せた。
「……。」
「どうかなさいましただか?」
白いミモザを見つめて黙ってしまったフロドを、サムは心配してのぞきこんだ。
「なんだかこの花、わたしに似ていると思わないかい?」
「どうしてですだか?」
「わたしは変わり者と言われているからさ。おまえも知っているだろう?結婚は
しないし、一人でふらふらと遠出したり、さ。大勢の中でも色の違うこの花みた
いだよ。」
サムはなんと言ってよいかわからなかった。愛する従姉とはいえ、結婚して優
しい伴侶と子宝にも恵まれているアルテアの姿は、フロドには喜ばしくも羨まし
く思えるものだったのだ。つい自分と比べてしまうのも無理はない。その思いに
気づかなかった自分が悔やまれた。
フロドの手から花をそっと受け取り、サムは彼の胸元のポケットに差し入れた。
「そんなふうにお考えにならないで。少なくともおらは、旦那のことを変わり者
だなんて思っちゃいねえです。この白い花だって、変わってなんかおりませんだ。
花は花です。ミモザには違いありません。旦那だって同じですだよ。おらの言う
こと、わかってくださるだか?」
「うん、わかるよ。ありがとう、サム。…でも。」
寂しそうに微笑んでから、サムの目を見ずに、フロドは胸から花を外した。
「わたしは女性ではないから、花で着飾ったりはしない。せっかくだけど…。ご
めんよ。」
「いいんですだ。もしよろしければ、これはおらが家に持ち帰りますだ。」
「そうしてくれる?悪いね。」
じゃあそろそろ休むから、と言い残して去ってゆくフロドを、サムは少し悲し
い気持ちで見送った。胸元に差したのは無意識にやったことだったが、それを拒
絶されたように感じたのだ。むろん、フロドのほうもサムを傷つけようなどと思
わないことはわかっていたが。そして従順な庭師は頭を振って意識を切り替え、
片付けを再開していった。
次の日のことだった。サムがいつものように庭仕事に精を出していると、ベンチ
で本を読んでいたはずのフロドのほうから声があがった。
「サム!サム!来ておくれ!大変だよ!」
フロドの旦那の一大事とばかりに、サムはスコップを放り出して主人の元へと走
った。フロドは地面に屈みこみ、何かを見下ろしている。彼の足元に、茶色い小さ
なものがバタバタ動いているのが見えた。
「それは何ですだか?」
フロドの具合が悪いわけではないことに安堵しながら、サムも一緒に膝をついて
のぞきこんだ。果たしてそれは、一羽のイエスズメだった。怪我をして飛び立てな
いらしく、不恰好に羽をばたつかせている。
「なんだか猫がうろうろしていると思っていたら、遊んでいたんだね、この子を放
り出していってしまったんだよ。サム、どうしよう?怪我しているよ。」
「とりあえず、家に運びましょう。旦那、水とタオルを用意してもらえますだか?
すぐに連れていきますんで。」
慌てるフロドを安心させようと、サムはゆっくり告げた。フロドはうなずき、た
たっと屋敷内へ駆けていった。あとに残されたサムがソロソロと両手に乗せると、
小鳥は多少じたばたしたが逃げようとはしなかった。
「鳥は病気や怪我をした時は、あっためてやるといいそうですだ。」
手当てを終え、バスケットの布の上に横たえたイエスズメを見下ろしながら、サ
ムはフロドにそう言った。小鳥は右の羽根から出血しており、フロドがおっかなび
っくりタオルで血をぬぐっている間にサムは大急ぎで自宅へ戻り、父親に手当ての
方法を聞いてきたのだ。お湯は使わずに水で拭くことや、とにかくエサを食べさせ、
暖めてやることだ、と。
最初は手当ての意図がわからず暴れた鳥も、とうとう大人しく身を任せ、今はバ
スケットの底でじっとしていた。見かけは変化ないがどうやら足もやられているら
しく、時々動こうとしてはびっこを引いている。
「とりあえず止血はしましたんで。暖炉もついてますし。あとは…エサですだね。
えーと…スズメは何を食べてましたっけ?」
「うーんと…パンくずとか、野菜の切れ端とか…麦粒も食べるよね?」
「そうですだね、パンをお湯でふやかしましょう。体が小さい生き物は、食べ続け
ないと死んでしまいますだ。旦那、おらが用意してきますから、こいつを見ていて
くだせえ。」
「うん、わかった、頼むよ。」
「それからおら、今夜は泊まりますだ。暖炉をつけっぱなしにして、時間ごとにエ
サを食べさせますだよ。」
「いいのかい?それならわたしも手伝うよ、サム。」
サムは主人の申し出に当惑して手を振った。
「あ、結構ですだよ、フロド様。おらがやりますだ、旦那の手を煩わせては申しわ
けねえです。」
「何を言ってるんだい。うちで預かるんだから、当然だろう。交代で起きて面倒を
見ようじゃないか。いいね、サム。」
フロドの真剣な瞳に押され、サムは根負けして承知した。
「…わかりましただ、それじゃ、よろしくお願いしますだ。」
こうして、一羽のイエスズメが袋小路屋敷にやってきたのだった。
フロドとサムの熱心な看病の甲斐あって、イエスズメの怪我は良くなっていっ
た。サムが自宅の物置から持ってきた古い鳥カゴをあてがわれ、自力でエサも食
べられるようになった。ただ、風切羽をやられてしまい、自由に飛び回ることは
出来なかった。飛ぼうとしては落下し、歩こうとしては不自然に足を引きずり―
――結局、足の指が一本不自然な角度で折れ曲がってしまったのだ―――二人を
心配させたが、そのままの状態で固定したようだった。
そして二人に、とくにフロドにとてもなついていった。フロドの足音を覚え、
主人が近づくと騒ぎ立て、カゴから出すと嬉しそうに肩に乗る。ちんまりした尾
を振ってフロドを呼ぶ小鳥の姿は愛らしく、ビルボがいなくなって以来一人暮ら
しの彼には大きな慰めになっていた。
サムは怪我が治ったことに安心しながらも、そろそろ自然に戻してやるべきで
はないかと懸念した。しかし飛べないため、自力でエサを取れるとは考えにくか
った。また猫の攻撃対象になってしまうだろう。それに、主人があんなに嬉しそ
うにしているのを見るのは久しぶりで、このままのほうが双方にとって良いので
はないか、と無理矢理に自分を納得させるのだった。
「この子、名前は『サム』にしたよ。」
ある日、サムはフロドにそう告げられ、面食らった。とっさに返事の出来ない
サムを横目に、フロドは満足そうに『サム』の頭をなでてやっていた。『サム』
はフロドの肩に止まり、従順にじっとしている。
「サ、サムって…いや、その…。」
しどろもどろになるサムに、フロドは心から楽しそうに笑った。
「このごろ名前付けに縁があるね、わたしは。いい名前だろう?」
「で、でも…あの、フロドの旦那、このスズメは…メスですだよ?」
「いいじゃないか。でも、よくわかるね、メスなんだこの子。やっぱりおまえは
すごいよ、サム。」
褒められてしまい、反論していいのかわからず、サムはフロドがそうしたいな
ら、と反対するのをやめた。
「メスのほうが全体的に色が薄いんですだ。」
「ふうん、そうなんだ?おまえはさすがだよ。ねえ、『サム』や、ごはん食べる
かい?」
フロドはサムの目をのぞきこんでにっこりしてから、スズメの世話を始めた。
サムは思いがけずフロドの笑った顔を間近にし、胸がどきんとした。ここのと
ころ、サムはフロドの笑顔がまぶしくてならなかった。この感情を何と形容した
ら良いのかわからない。フロドの顔を思い浮かべると、胸がじんわり暖かくなり
、それでいてなにか切ない気持ちになるのだった。そんな自分に気づいてから、
サムは少なからず動揺していた。
フロドのそばにずっといたいような、でもそれでいて顔を見るのが気恥ずかし
いような、妙に落ち着かない気分であった。
飼い鳥に自分の名前をつけ、折に触れ自分と同じ名をいとおしそうに呼ぶ主人
を見るにつけ、サムの心は苦しくなるのだった。名前までつけるということは、
それだけサムのことを身近で大切な存在である、と公言しているようなものだ。
素直に嬉しい気持ちと、小鳥でなく自分を見て欲しいという不満がうずまき、心
があわ立つ。
フロドが寝静まったあと、帰りがけに鳥カゴをのぞきながら、サムはひとりご
ちるのだった。
「おまえはいいな、フロドの旦那といつも一緒にいられて。おまえがうらやまし
いだよ…。」
『サム』はその言葉を知ってか知らずか、丸いつぶらな目で無心にサムを見上
げた。
しかしフロドにとって、『サム』との楽しい時間は長くは続かなかった。3月
も終わりになる頃、『サム』は体調を崩すようになり、あまりエサを食べずに羽
をふくらませてじっとしていることが多くなった。小鳥が羽をふくらませるのは
具合が悪く体温調節がうまくいかないことを意味している。サムも心配して頻繁
に屋敷に泊り込み、フロドと交代で部屋を暖め、食べやすいエサを用意して懸命
に面倒を見た。一見よくなったように見える怪我の部分から何か菌が入り込み、
体調を脅かしているのかもしれないが、理由ははっきりせず、『サム』は除々に
痩せていき、元気をなくしていった。
フロドが名付け親になると約束した、アルテアの出産日が近づきつつあった。
4月になり、ホビット庄には本格的な春が訪れていた。色とりどりの花が咲き
、小鳥たちが歌う。誰もが心楽しく日々の生活を語り合える、希望の季節だった。
そして、アルテアが無事に女の子を出産したという知らせが袋小路屋敷にも届
いた。
「心配だけど…顔を出さないわけにもいかないし。マルコに挨拶して皆と少し話
したら、すぐに戻ってくるとするよ。」
コートに袖を通しながら、フロドはサムに言った。今夜は緑竜館で祝いが開か
れ、二人も招待を受けていた。さすがに出産したばかりのアルテアは家で母親に
付き添われて休んでおり出席は出来ないが、夫のマルコがホストを務めることに
なっているという。
フロドとサムには、具合の悪い『サム』が気がかりだった。エサを食べる量が
極端に少なくなり、ほとんど一日中うとうとしているのだ。それでも、フロドが
頭を撫でてやると目を開け、嬉しそうに体をすり寄せてくる。今この時も『サム』
は主人の姿を認めて立ち上がり、小さく甘えるように鳴いて撫でてくれと催促し
ているのだった。
「やっぱり、おらは残りましょうか?」
うっとりとフロドの指に体を預けている『サム』を心配そうにのぞきこみなが
ら、サムは申し出た。しかし、フロドは首を振った。
「いや、わたし達は二人とも招かれているんだから、おまえも行かないといけな
いよ。せめて長居しないで帰ってこよう。」
「わかりましただ。こいつも少しは元気そうですし、ちょっとくらいなら大丈夫
でしょう。そうとなったら早く出発したほうが早く帰れますだね。行きましょう
、フロドの旦那。」
結局、緑竜館での祝いの席では、主催者のマルコに丁寧に祝辞を述べ、明日に
なったら正式に自宅へ出産祝いに伺うとだけ告げて、二人は早々に帰途についた。
家に戻ると、夜遅いためか『サム』は静かに眠っていた。苦しそうな様子はな
く、サムはそれを見届けると自宅へ帰っていった。フロドも、とりあえずは無事
な様子に安堵し、眠りに就いた。
次の日の朝。
フロドは目覚めると、まずは自室に置いてある『サム』のバスケットをのぞき
こみ―――顔色を変えた。思わずその体を手のひらに乗せ、必死に叫んでいた。
「『サム』!『サム』っ!!」
ただならぬフロドの声に、台所で朝食の支度をしていたサムが駆けつけてきた。
フロドの手の上で、『サム』は一見して尋常でない様子だった。羽根はだらん
と垂れ、ぐったりと横たわり、ピンク色だった足は紫になっている。鳥には素人
の二人の目にも、もうあぶないことは明らかだった。
「『サム』が死んでしまう、死んでしまうっ…!」
フロドは取り乱し、どうすることも出来ずに涙を流していた。フロドの震える
指が『サム』の体をさすり、足に辿り着くと、鳥は一瞬、きゅっと主人の指を握
った。それは生き物としての条件反射なのか、それとも最後の精一杯の挨拶だっ
たのかもしれなかった。次の瞬間『サム』は、ふっと動かなくなった。魂が目に
見えるものだとすれば、まさに器としての体を残して魂が離れていくようだった。
『サム』は死んだ。苦しいと鳴きもせず、訴えもせず、まるでそれが自然なこ
とだと受け入れているかのように、静かに息を引き取った。
隣にサムがいるのも目に入らない様子で、フロドは鳥の体をさすりながら声を
あげて泣き続けた。物静かで賢く、あまり感情を表に出さないフロドがこれほど
泣くのをサムは初めて見た気がした。声をかけることも出来ず、肩を抱くことも
憚られ、サムは黙ってフロドを見守っていた。そして自分も泣いていることに気
づいた。
どのくらいそうしていたのか。サムはやっと時計を見やり、おそるおそるフロ
ドに声をかけた。
「フロドの旦那…そろそろ支度をなさらないと、時間に遅れますだ。」
今日は二人で出産祝いにアルテアとマルコの家を訪れなければならないのだ。
フロドは何か言いかけたが言葉にならず、しゃくりあげた。
「『サム』を庭に埋めてやりましょう。おらも手伝いますだよ、さあ。」
「…そうだね、おまえの言うとおりだ、こうしていても仕方ない。土に返してあ
げよう。」
サムが差し出したタオルで涙を拭いながら、フロドはやっと立ち上がった。
『サム』は庭の片隅に丁寧に埋められた。サムが穴を掘り、フロドがそっと横
たえてやり、土がかぶせられた。かわいがっていた鳥が見えなくなってゆく様子
を、フロドはじっと見つめていた。涙をこらえているのだ。横でサムが心配そう
にうかがう。
「フロドの旦那、出すぎたことを言うようですが…旦那はお具合が悪いことにし
て、今日のところはサムが一人で伺いましょうか?どうしますだか?」
「いや、たかが鳥が死んだくらいで、アルテアとの約束はたがえられないよ。心
配かけて悪いね。わたしも行くよ。さあ、支度しよう。」
無理に笑ってみせたフロドの目は真っ赤だった。
春爛漫の草花に囲まれたアルテアの自宅は、家の外にまで喜びがあふれている
ようだった。家に近づいたフロドとサムだったが、ふと二人の足が止まった。
「あ……。」
「これはすごいですだ…。」
二人同時にポカンと見上げた視線の先には、今が盛りと咲き誇る花をつけたミ
モザの木があった。だが―――本来ならば黄色いはずのその花は、どれも一面真
っ白であった。まるで雪のようにはらはらと白い花びらがフロドの髪に、サムの
服に舞い降り、冬と春が一度に来たかのようだった。
驚いて声にならないフロドを、サムが夢の中のように見つめた。
「旦那、髪に花が…。」
サムの手がそっとフロドのやわらかい髪に伸ばされ、こわれもののように花び
らを取り去った。その指のやさしい感触に、フロドはくすぐったそうに目をしば
たいた。花びらが無くなっても、サムの手のひらはフロドに触れたまま動かなか
った。二人の視線がからみあい、どちらも無言でミモザの花の雨に包まれていた。
先に視線をはずしたのはフロドのほうだった。彼は髪に置かれたサムの手に自
分の手を添えて下ろし、二人はそのまましっかりと手をつないで歩き出した。
女の子の名前は『ミモザ』にしよう。
フロドはサムのあたたかい手のひらの感触を嬉しく思いながら、そう考えてい
た。本当はだいぶ前に、男の子なら『サム』、女の子ならば『プリムラ』にしよ
うと決めてあった。どちらもフロドにとっては大切な人物である。だが、たった
今、ミモザの祝福に遭遇し―――フロドは「祝福」と感じたのだ―――唐突に変
えることにした。ホビットの女の子には宝石か花の名前をつけるのが一般的だっ
たから、今思いついたにせよ、それは不自然な名前ではないはずだった。
アルテアとマルコは、フロドがつけた名前を気に入り、喜んでくれた。母にな
ったばかりのアルテアは以前にも増して優しい面差しをたたえ、赤ん坊も元気で
あった(眠っていたが)。フロドとサムが、ミモザの白い花のことを話題に出す
と、アルテア達はおかしそうに微笑んだ。
「そうなんです、ちょうど私達がフロドのお宅へ伺った頃から花が白くなりはじ
めて、今ではすっかり真っ白になってしまったんですよ。」
「不思議よねえ、今まで白い花なんてついたことなかったのに。」
でも私、白いほうが神聖なかんじで好きだわ、と笑う妻をマルコは愛しそうに
見守り、フロドとサムはあてられている気がしてきた。
神聖。
祝福。
鎮魂。癒し。真っ白な花。
袋小路屋敷に戻ったフロドはまずサムに、『サム』がいた痕跡を消してくれる
ように頼んだ。サムは鳥カゴを布でくるみ、バスケットや鳥用の布、皿などをし
まいこんだ。それらを見るとフロドが悲しい気持ちになることがわかっていた。
「旦那。」
窓の外をぼんやり眺めているフロドの背中に、サムはつとめて明るく声をかけ
た。
「アルテアさんのところでミモザを頂いてきましただ。あいつのお墓に供えてや
りましょう。」
「……うん。」
振り返ったフロドの顔があまりに寂しげで無防備で、サムは胸が痛んだ。
「ああ、白い花が似合うね。よかった。」
『サム』の小さな墓の上に、フロドはそっとミモザを置き、目を閉じた。風が
やさしく二人の頬を撫で、サムが盗み見ると、フロドは目に涙をあふれさせてい
た。ずっと我慢していたのだろう。サムは思わず主人の肩を抱き寄せ、両腕で包
み込んだ。フロドはサムに体をあずけて静かに泣き続けた。
「…昨日やっぱり、緑竜館へ行かなければよかった。そばにいてやればよかった。
もっとずっと一緒にいたかった…。」
涙でうわずりそうになる声をやっと抑えてフロドが話し出した。
「でもあの子は、わたしが手に乗せてから、5分とたたずに死んでいったよね。
わたしが起きるのを待っていたのかもしれない。きっとそうだ。おまえ、どう思
う?」
「おらもそう思いますだ。」
サムの手がフロドの背中をやさしくさすった。
「最後にあの子、わたしの指を握ってくれた。…きっと、別れの挨拶をしてくれ
たんだ。」
「そうですだよ、フロドさまは一生懸命あいつの世話をなさいましただ。あいつ
もよくわかっていて、お礼を言ってくれたんです。それに旦那、赤ん坊に良いお
名前をつけられましただ。おら、アルテアさんのうちのミモザは旦那を励まして
くれたように思いますだ。ひとつだけ真っ白だとのけ者みたいだから、全部白く
なったんです。フロドさま、フロドさまは変わり者じゃございません。あのミモ
ザがそう教えてくれましただよ。」
少し顔を離して、フロドがやっと微笑んだ。サムは手のひらで涙を拭ってやり
、ついで頬にそっとキスをした。フロドは少し驚いたようだったが、じっとして
いた。
サムはフロドを強く抱きしめた。耳元に唇を寄せてささやく気配にフロドが目
を閉じる。
「フロドの旦那、大切だった者は死んでも永遠に別れるわけじゃないですだ。あ
いつはここ、旦那の肩の上にいつも乗っていて旦那を見守ってくれてますだよ。」
主人の肩をポンポンと叩き、サムは明るく励ました。そして体を離すとフロド
がまだ目を閉じているのを見つけ、形容しがたい衝動にかられるまま、フロドの
唇にキスをしていた。ほんの一瞬のことだった。
唇を離しても、しばらくどちらも言葉を発しなかった。
サムはふと思いつき、ミモザの白い花をひとつ折ってフロドの髪に挿した。
「なんだい?」
フロドが不思議そうにサムを見る。
「旦那はいつか、ご自分は女性ではないから花は飾りたくない、とおっしゃいま
したが、今日はあいつの手向けです。飾ってやってくだせえ。それに、」
サムは間を置いて照れくさそうに告げた。
「フロドさまはこういう素朴な花がお似合いですだ。」
フロドは声をたてて笑い、今度は自分からサムにくちづけた。あたたかくやわ
らかい唇の感触に、サムは夢を見ているような気がした。そして、自分が望んで
いたのはこうしてフロドと触れあうことだったのだ、と思い至った。
「そうだね、サム。ありがとう。おまえはずっと、わたしのそばにいてくれるね
?」
「おりますだよ、旦那が望まれるなら、ずっとおそばにおります。」
おわり
(いいわけタイム)
無駄に長くなってしまいました…。
アルテアさんは架空のホビットです。
「アルテア」そのものは花の名前ではなく、
タチアオイの属名で、ギリシャ語で「治療する」という意味が
あるんだそうな。
「フロドの母方の従姉で少し年上の優しい女性」という
私の勝手なイメージに(笑)いいんじゃないかと思ってつけました。
が、ためしにネットで「アルテア」と入れて検索してみたら、
なんだかよく知らないアニメのキャラにいまして、ショックでした(笑)
でも、たぶんマイナーなアニメなので、まあいっかと。
追補編の家系図を調べたところ、
「マルコ」と「ミモザ」というホビットは本当にいます。
(フロドの親戚とは関係なく)
ミモザは本当に白くなるのか、という学術的なツッコミは、
無しということでお願いしますだ、ははは。