ラベンダーのキス      はかりさん作 (挿絵Alatariel)

 フロドの寝室には、就寝用にサム手作りのラベンダーのアロマキャンドルが置いてある。フロドはラベンダーの香りが好きなのだ。しかしキャンドルだけだと香りが弱いので、ラベンダーのアロマオイルも焚き、眠り薬がわりに本を読んでから休むのがフロドの習慣であった。

 ビルボが屋敷を残してエルフの元へ旅立ってから、一人暮らしの気ままな毎日だ。
  今夜もフロドはキャンドルとオイルに火をつけ、深くさわやかなラベンダーの香りに包まれて眠りに就くつもりだった。
 本棚から読みたい本を選び、ページをめくりながらベッドへ近づいたフロドだったが、前をよく見なかったため、だしぬけに椅子につまづいてバランスを崩した。
「わっ!」
 本を放り出し、慌てて窓のカーテンにしがみついて危うく転倒は免れたが、その衝撃でカーテンは下のほうから見事に破れてしまった。
「…あーあ…。仕方ない。明日、サムに縫ってもらおう。」
 フロドはため息をつき、カーテンはそのままに、ベッドに横になった。ラベンダーの匂いに心が安らぎ、深く目を閉じる。
 フロドの脳裏に、サムの顔がよぎった。心の奥がふわっと暖かくなる。いつもそばにいてくれるサム。昔からの古い知り合いで、主人と奉公人であると同時に、大切な友人でもある。しかしこのところフロドは、サムに対して自分が何を望んでいるのか、わからなくなることがあった。もっといつもそばにいてほしいと思う。話をしなくとも一緒にいて、安心していたい。サムに触れていたい。しかし、サムの何に触れたいのか、当のフロドにもわからないのだった。サムの手か、頬か、それとも、もっと目に見えないもの、そう、サムの内面、つまり心なのか。この切なさにも似た気持ちを何と呼んだらよいのかわからないまま、フロドは過ごしていた。

 先日、二人は初めて口づけをかわした。最初はサムからで、フロドは抵抗せず、自分からもサムにキスをした。しかし、互いにどういう気持ちでそうなったのか、言葉には出さなかった。もう一度サムにキスしてみたい。フロドは漠然とそう思っていた。想いを形にするなら、それが一番手っ取り早い方法のような気がするのだ。
 しかし、なぜかそれには理由付けが必要だと考えた。いきなりキスするわけにはいかないだろう。理由というより、そうなってもよい状況が欲しかった。
 そんなことを考えながら、フロドは眠りの淵に落ちていった。


「フロド様、おはようございますだ!」
 サムの元気な声が響いた。フロドは布団を剥いでうーんとのびをし、ドアのほうを見やった。サムが
寝室のドアを半開きにし、中をのぞいていた。
「おはよう、サム。天気はどうだい?」
「いい天気ですだよ。さあ、朝食の支度をしますんで、お支度なさってくださいまし!」
「ああ、すぐに行くよ。」
 さりげなくドアを閉めたサムの内心がドキドキしていたことなど、フロドにわかるはずもなかった。
無防備に寝間着のままの主人がなまめかしくて気恥ずかしく、サムは部屋の中には入ってこられなかったのだ。

 フロドは朝食の席で、昨夜のカーテンのことを話し、サムに繕いを依頼した。
「わかりましただ、すぐ縫うとしましょう。」
「ありがとう、悪いね、サム。」
 朝食のあと、フロドが出してきた道具箱の中から針と糸を用意すると、サムはさっそくカーテンを縫いはじめた。簡単にしつけをとると、丁寧に縫っていく。
 フロドはそばの椅子に陣取って、その様子をながめていた。庭仕事でごつごつしたサムの手が、思いもよらず優雅ともいえる器用さで縫い進んでゆく。家事全般を普段やらないフロドにとって、それは感嘆すべき光景であった。
 フロドは、器用にやさしく布をしごいていくその手に突然、触れたいと思った。その布になりたい、という思いさえ浮かんだ。自分はサムに何を望んでいるのか、意識の外で答えが出ているような気がした。

 一方、フロドがあまりに熱心に自分の手元を見つめているので、サムはなんだか落ち着かなかった。
とうとう耐え切れずに手を止め、顔を上げた。
「あのう、フロドの旦那、そんなに見てられると、おら、落ち着かなくてはかどりませんだ。」
「ああ、ごめんよ、それはそうだよね。」フロドは我に返り、慌てたように立ち上がった。
「部屋で本を読んでいるから、よろしく頼むね。」
「わかりましただ。あとでお茶をお持ちします。」
「うん。じゃあ。」
 フロドが出ていくと、サムはほうっと深く息を吐き出した。平静を装ってはいたが、この間のキスのことが何度も思い出され、それでなくてもフロドの前だと落ち着かないのだった。
(旦那はどう思っていらっしゃるんだろう?)
 キスをしたのは自分からだった。なにか許された雰囲気がそこにあり、気がついたらフロドに口づけていた。そのあと、フロドのほうからもキスをしてくれた。だがどちらも何も言わず、サムにはフロドの気持ちがわからなかった。
 頭を振って意識を追い払い、再び繕い物に没頭しようとするのだが、どうもはかどらない。ともすれば手つきが緩慢になり、フロドのことばかり考えてしまう。
 サムはたまらずに針を置き、カーテンを両手でゆっくり撫でた。フロドの寝室用のそれはなめらかで上質な生地で仕立ててあり、サムにはまだ触れたことのないフロドの肌を思わせた。
「フロド様…。」
 思わずつぶやき、一瞬サムはカーテンに頬を押し付けた。フロドの匂いがするような気がした。そしてはっきりと、自分は主人を慕っていることを自覚した。若いサムには抱えきれないほどの、切なさを伴う大きな想いであった。
(おらは何をしているんだ…仕事が終わらねえ。)
 やっとのことで平静を取り戻し、彼はまた針を手に取った。


 夜が訪れ、フロドが休む時間になった。遅くまで残っていたサムはシーツを整え、主人の好きなアロマオイルに火を点けて就寝の準備をした。その傍らでフロドが寝間着に着替えていたが、サムはつとめて彼の肌に目を向けないようにしていた。
「サム、カーテンは?」
「あ、そうですだ、忘れるところでした。」
 二人でいることがはずかしく気詰まりを感じて、サムは仕事を終えたらすぐに帰ることばかり考えていたのだ。居間にとってかえし完成したカーテンを持ってくると、サムはフロドのほうを見ずに窓につけはじめた。
 室内はさっきより暗くなっている。アロマキャンドルとオイルしか点いていないようだった。ラベンダーの香りが漂う。サムがカーテンを取りに行っている間に、フロドがランプを消してしまったのだ。
 手元がよく見えず、サムは振り返って訴えようとした。
「旦那、暗くてよく見えま…。」
 最後まで言うことは出来なかった。いつのまにか背後に忍び寄っていたフロドがサムに抱きついてきたのだ。やわらかい髪がサムの頬に触れ、サムは反射的に両腕でその体を受け止めた。
「だ、旦那…?」
 うわずりそうになる声をやっと抑える。
「ねえ、サム。」フロドの声は、耳から流れ込む媚薬のようだった。「この間は、どうしてわたしにキスしたんだい?」
「ど、どうしてって…。」
「正直に言いなさい。でないと家に帰さないよ?」
 フロドに軽く耳たぶを噛まれ、サムは背中がぞくっとした。とても顔など見れたものではなかった。
顔を見なくてもいいように、力をこめて腕の中にフロドをしっかり囲い込んだ。薄い寝間着をとおしてフロドの体のしなやかさが伝わってくる。その感覚に、サムはすでに我を忘れて酔いそうであった。
「おら…旦那が好きです。」
 この人にうそはつけない。穏やかな中に、フロドはそんなふうに思わせる静かな強さを秘めていた。
少なくともサムにはそう感じられるのだ。
「好きって、どんなふうに?」
「おらにもわからねえのです。」サムは不意に胸が詰まり、フロドの髪に鼻先を埋めた。ラベンダーの香りと、フロドの匂いがする。「なんといったらいいのかわかりませんだ。フロド様はおらには太陽みたいで、あったかい気持ちになります。それでいて…泣きたいような気持ちにもなるんですだ。ぎゅーっと心ん中に重い荷物を置かれたみたいです。重くて動かせません。でもおら、それが嫌じゃないんです。むしろ、おらの力の元になってくれるみたいです。どうしてなのかわかりません。おらの言うこと、旦那にはおわかりにならないと思いますだ。」
 最後は涙声になっていた。フロドはサムの髪に手を入れて優しくかき回した。サムはかたく目をつぶった。
「そんなことはない。よくわかるよ、サム。ありがとう。よく話してくれたね。」
 嬉しいよ、とささやくフロドの声が聞こえたかと思うと、サムは何かやわらかいものに口唇を塞がれたのを感じた。フロドの唇だった。
 いったん唇を離し、二人は無言で見つめあった。サムは、間近で見るフロドの青い瞳に吸い込まれて溺れそうだと思った。しかしこの人に溺れるなら本望だ、と言葉でなく意識の底で感じるのだった。
 ラベンダーの香りが強まり、フロドの体から立ち昇ったような気がした。
 二人は再び顔を近づけ、唇を合わせた。今度はサムのほうが積極的だった。何度か軽くついばんだ後、唇を丁寧に嘗め、そのまま口唇を割って舌を差し入れる。
 フロドの舌を絡めとってきつく吸うと、フロドはすぐに息があがった。小さな吐息が口腔内に洩れると、サムはますます夢中になった。知らずにフロドの髪からうなじにかけて両手を上下に走らせ、首元へ手のひらをすべらせていた。カーテンの手ざわりが思い出される。しかしそれは布地ではなく、紛れもなくフロド自身の肌であった。きめこまかくなめらかなフロドの素肌。サムはいつしか壁際までフロドを追い詰め、頬に、耳元に、そして首筋にキスを落としていった。


「…サム……。」
 フロドの小さな喘ぎを耳にし、サムは自分が夢中になりすぎたことを知った。このままだと、彼の夜着をも脱がせかねない勢いだった。
 フロドは胸を上下させて息を整え、サムは彼の肩に額を乗せた。
「申し訳ありません、フロド様。おら、つい……。」
「どうして謝るんだい?お前が謝ることなんて何もないよ。」
 フロドの手が優しくサムの髪を撫で、サムは突然、まだカーテンを取り付ける途中だったことを思い出した。
「フロド様、カーテンを…。」
「ああ、そうだったね。」
 フロドがサムの手を握り、二人はそれぞれ空いた片手を伸ばしてカーテンを窓にぶら下げた。もうカーテンの布に触れてフロドを想わなくてもよいのだ。目の前には生身のフロドがいる。サムは嬉しくなり、もう一度彼に深く口づけた。ラベンダーの香りがする。そしてベッドに導き、横たえさせた。

「さあ、お休みください。しばらくサムがついてますから。」
「眠るまでいてくれるのかい?じゃあ、寝てしまうのはもったいないな。」
「勘弁してくださいまし。おらは明日早いんですだ。明日になったらまた会えますだよ。」
「わかってるよ。」
 フロドは楽しそうに笑った。昨日までとはどこか違う、心から安心しきった微笑みだった。

 おわり

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