フロドとサムの出会い      はかりさん作 

 フロドはサムの裸の胸に頭をあずけて眠ってしまった。サムは彼のやわらかい髪を撫でてやりながらしばらくその規則正しい息遣いを黙って聞いていた。しかし、朝食の下ごしらえをしなければ、とか主人に寝間着を着せてやらねば、など、次にやるべきことがあれこれ頭に浮かんでくる。サムはフロドの痩せすぎてはいないが薄い肩に唇を落とし感触を味わうと、優しく腕を外してベッドから抜け出ようとした。
 だが、不意にフロドの手がサムの腕を掴んだ。はっとしたサムがのぞきこむと、フロドは目を閉じたまま口をひらいた。
「もう少しここにいておくれ…。」
「フロドの旦那、おらは明日の準備とかいろいろ…。」
「おまえはまったく、いつも何か仕事を見つけて働こうとするんだから…。昔からそうだった。せっかく今わたしと一緒にいるのだから、もうちょっと休みなさい。ね、いいだろう?」
 甘えと微妙なすねが入り混じり、普段あまり自己主張をしないフロドとは違った口調に、サムは苦笑した。
「…わかりましただ。」
 サムはフロドの隣に身を横たえた。フロドが満足そうに体を寄せてくる。
(昔からおらが働き者?そうだっただか?)
 再び眠りに就いた主人の頭を胸に抱きながら、サムはいつしか幼少の頃へと記憶をめぐらせていた。

     *   *   *   *   *   *   *   *   *

 サムの父親は長年袋小路屋敷に庭師として出入りしていた。サムも幼いころから父親にくっついて庭仕事や屋敷内の雑用を手伝っていた。が、まだ年端もいかない子供のこと、充分に手伝っているとは言い難かったが、屋敷の主人であるビルボはいつもにこにこと優しく接してくれた。
 父親の話によればサムが8才か9才のときに、若きフロドがビルボの養子として屋敷に現れたのだがのちのサムはいくら考えても、彼とはじめて会った時の状況が思い出せないのだった。それだけサムが幼かったことと、沢山の兄弟に囲まれて育ったサムにしてみればフロドの出現など日常の中の取るに足らない出来事だったのかもしれなかった。
 だが、フロドはある出来事をきっかけに、サムにとって大切な存在となった。

 サムの父親であるハムファストは熟練した庭師で、いわゆる職人気質の頑固さを持っていた。仕事に関しては自分にも他人にも妥協を許さず、こと息子であるサムには容赦なかった。家では筋の通った頑固親父でそれなりに尊敬もしたが、サムの仕事ぶりは決して褒めず叱咤してばかりいた。
 厳しく教え込まれた様々な知識や生活の知恵や仕事の技は、父の教えとしてのちのサムを何度となく助けることになるのだが、幼いサムにそれがわかるはずなどなく、いつも悔しい思いをしていた。

 フロドが養子に来てから1年か2年、サムの怪しい記憶ではもっと経っていたかもしれない。
 サムの目には、もの静かなフロドはいつも本を読んでいるように見えた。長いまつ毛に縁取られた瞳を物憂げに伏せて字を追っている姿はなにか神聖な風景に見え、サムはいつも声をかけられずに黙ってお茶のカップをそばに置くのだった。するとフロドが顔をあげてにっこりする。
「ああ、サムかい。いい匂いだね。いただくよ。」
「ひと段落したらビルボ旦那が手伝ってほしいと言ってましただ。」
 つたない舌でビルボの伝言を告げる。
「そうかい?じゃあお茶を飲んだら行くとするよ。ありがとうね。」
 フロドにくしゃっと頭を撫でられ、サムはぎこちなく笑った。まだこの年若き主人に慣れていなかった。なぜ慣れないのか。言葉として認識はできなかったが、サムの目には涼やかな佇まいのフロドは綺麗なものとして映っていた。端整な顔立ちに澄んだ青い目。ホビットにしては細身の体。美しいものへの畏敬の念が幼いサムには近寄りがたく感じられた。本当は思慕の思いだったのだが、サム自身は気づけなかったのだ。

 そんなある日、サムは父親の言いつけで屋敷の居間を掃除していた。バケツをせっけん水で一杯にし、普段手の届かない部分まで念入りに行う。そう言いつけられていたのだ。だが子供のサムの短い腕では掃除の出来栄えはいまひとつで、だんだんサム本人もそれを自覚しはじめた。
「あーあ、おらがやったってちっとも綺麗になんかならないだよ。親父がやればいいだ。」
 あきらめ気分で、最近ほかの子供たちに教わった踊りを思い出し、雑巾を振り回して踊り出した。子供らしい遊びの現実逃避である。
「おらなかなかうまいぞ、えーと、次はこうだっただか?」
 すると途端に足を滑らし、サムはバケツをひっくり返して見事に転倒した。せっけん水が派手に舞い散る。
「あっ!!」
 起き上がったサムの視線の先には、床に無造作に置かれていた本の山があった。濡れてしまっている――。
「しまった…。」
 びしょびしょになった本に慌てて雑巾を当てるが、一度水を吸った紙はそう簡単に元には戻らない。
「うわー、こりゃビルボ旦那の本だか?それともフロドの旦那のかな?えらいこっちゃ。」
 その時、
「こらっっ!!!」
 サムの頭の上から、雷と聞き違えるような大声が響いた…。

 サムはこっぴどく父親に叱られた。それはそうだ。仕事中に遊んでしまい、しかも雇い主の持ち物を汚したのだから。サムに弁解の余地はなかった。散々怒られてやっと解放され、もうここはいいとばかりに屋敷を追い出され、裏庭の草むしりを命じられた。落ち込んだサムの小さな手に雑草は容赦なくはびこり、作業の邪魔をしているように立ちそびえていた。仕事は遅々としてすすまなかった。
 ビルボは出かけていて留守だった。フロドが心配そうにそっと姿を現した。それを見たサムは咄嗟に気づかないふりをして草むしりに没頭しようとした。
 フロドがしゃがみこんでサムに話かけてくる。
「サム、だいじょうぶかい?」
「フロドの旦那、すまねえだ、おらのせいだ。」
 サムの声はかすれていた。まともにフロドの顔が見られない。
「散々叱られてしまったね。でも私は怒ってはいないよ。」
 サムは驚いてフロドを見つめた。一言だけでも責められるかと思ったのだ。たしかサムが濡らした本はフロドのものだと聞いた。しかも、正確には庄長から特別に借りてきた、村に一冊しかない貴重な本だという。父親がいつもより猛烈に怒ったのはそこにも原因があった。
「わざとやったのではないことはわかっているからね。気にしなくてもいいから。」
 サムは無言で顔を背けて草を抜き続けた。怒られたことで心が張り詰めていた。自分のせいなのだ、もう失敗してはいけない、というあとのない気持ちで一杯だった。
 フロドは静かに言葉を続ける。
「お前がいつも一生懸命なのはよく知っているから。だから、本当に気にしないでおくれね。」
 もう限界だった。サムはやおら立ち上がり、建物の陰に走った。フロドの優しい言葉に、張り詰めていた心が破裂した。糸が切れるように、涙があとからあとから溢れ出た。
「サム?!」
 驚いたフロドが追いかけてくる。サムは壁際に座り込んでしゃくりあげた。いったん堰を切られた涙は止めようとしても止まらない。フロドがふわっとサムの肩を抱いてくれた。
「泣かせちゃったね。どうしたの?」
「おら、おら…。」サムは喋ろうとしてつっかえた。「おら…フロドの旦那がそんなに優しくされるもんだから…おら……今まで泣いちゃいけねえと思って…我慢してただ…。」
 訴えようとしてはしゃくりあげ、満足に話すことが出来ないサムの小さな背中をフロドは愛情をこめてさすってやった。
「そうか、そうだったんだね。いいんだよ、本当に。サム、これからもよろしくね。ビルボも私も頼りにしているからね。わかった?」

 サムは顔をくしゃくしゃにしてうなずいた。主人の深い澄んだ瞳がすぐ目の前にあった。
 小さな庭師の額に、フロドの唇がそっと押し当てられた。

     *   *   *   *   *   *   *   *

(旦那がおらを働き者だとおっしゃるなら、あのころからかもしれねえだ。)
 この出来事を、サムは鮮明に覚えている。あの時のフロドの優しい手の感触や、額にキスしてくれた唇のあたたかさも。あの時、間近に見たフロドの瞳が綺麗なことに、サムははじめて気づいた。
 何日かあと母親から、フロドが本のことで庄長に侘びを入れたと聞いた。父と母はサムを同行させたがったがフロドはそれを許さず一人で出かけ、そしてサムのことはいっさい口に出さず丁重に謝罪したという。サムは申し訳ない気持ちでいたたまれなかった。

 そしてサムが学んだのは、赦すことの大切さと、赦される側の重みと責任であった。

 フロド様を大事にしよう。この人がいてくれるなら、おらは頑張れる。仕事だって文句言わずにやろう。
 
 まだ幼いサムの心の中にしっかりと根付いた信念だった。それはサムの生涯でずっと続くことになる。
フロドのそばにいるときも、いないときも。

     *   *   *   *   *   *   *   *

 あれから何年経っただろうか。フロドを美しいと認めるようになり、恐れ多い畏怖の念から慕わしさに変わり、こうして愛し合うようになった。
 サムはあの事件をきっかけに少しずつ変わっていった。父親の小言に口答えしなくなり、それを上手に自分の中に取り入れて着々と庭師の腕を磨いていった。ハムファストのほうもいつしかサムの成長に気づき、仲間内で酔うと息子の腕前を自慢するまでになった(それは年を取って気弱になったからだとサムは考えていたが)。

     *   *   *   *   *   *   *   *        
 
 フロドがサムの腕の中で身じろぎをした。サムがのぞきこむと、なにか幸せな夢でも見ているのだろうか、ゆるく微笑んでいる。サムもつられて口元をほころばせた。主人の笑顔はサムにとって何よりの元気の素であった。
 フロドの前髪をかきわけ、額にキスをする。
 遠く幼いあの日、フロドが愛情をこめてそうしてくれたように。 

(おわり)       

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(いいわけタイム)

 私もAlatarielさんと同じで、二人の年齢差は12才としています。
 二人の出会いか〜。わくわく。この題材は数々の素敵なサイト様で考察や二次小説として挙げられておりますね、いろいろ読ませていただいたのですが、どれも頷けたり共感して涙したり、良いものばかりでした。しかし今度はそれらの先入観をとっぱらって…自分なりに考えてみる気になりました。

 原作を紐解いて計算してみると、フロドはビルボの養子になった時は21才くらい?ホビットは33才で成年に達するというのは周知でして、「21才は子供時代と成人との間」とあります。
 ホビットの21才って、人間でいうと…どのくらいなんでしょうか?中学生〜高校一年生くらい?いわゆる思春期を抜け出た頃かもしれません。じゃあサムは?えーと、9才?!人間でいうと、5,6才ってところでしょうか。(そんなに幼かったのか)
 原作に細かい記述はありませんが、サムはフロドが来た頃には既に父親とともに袋小路屋敷を出入りしていた、と考えても不自然ではなさそうですよね。サムの目にフロドはどう映ったのでしょうか。
 実は私自身、このサムくらいの年に幼馴染の友人と出会っているのですが、初対面のシチュエーションや相手の印象など、まったく覚えていません。何度となく遊ぶうちに大切な存在になっていくのですが、ひょっとしたらサムもそうだったかもしれない、と思いました。もともとサムは6人兄弟。沢山のホビットに囲まれる暮らしをしていたわけで、その中にフロド一人が加わったところで最初はあまり彼には変化ではなかったかもしれません。いや本当のところはわかりませんけどね。


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