手紙 はかりさん作
ビルボがフロドに指輪を置いて裂け谷へ旅立ってから、何年も時が流れていった。
フロドはビルボのいない寂しさに徐々に慣れていき、今では一人暮らしの快適さを楽しめるようになっていた。
指輪のことで漠然とした不安を感じながらも、おだやかに過ぎていく日常につかのまの安息を見出すのだった。
そんなある日、袋小路屋敷にビルボから手紙が届いた。エルフの里である裂け谷から出されたもので、ホビット庄を旅するエルフに預けられたのだという。
フロドは久しぶりに見る義父の手紙に喜び、庭師のサムと一緒に丹念に眺めるのだった。
「ビルボの旦那、ご無事なんですね、安心ですだね。」
相も変わらず細く曲がりくねった字体を責めもせず、サムは嬉しそうにフロドに言った。
(サムはビルボから読み書きを教わったのだ)
「うん、元気そうだね、よかった。」
フロドも微笑み、二人はしばらくビルボとの思い出を話し合った。
仕事を終え、サムは自宅へ帰っていった。フロドは居間の丸窓からその後姿を見送り、小さくため息をついた。サムから想いを告白し、口づけをかわした二人だったが、サムはあれきり、それ以上のことをしようとしなかった。今夜も別れ際にサムはぎこちなくフロドに微笑み、そっと頬にキスしたのだが、それだけだった。
フロドは不満だった。キスもよいが、もっと別のことがしたいと思っていた。もっと違うふうにサム
と触れあいたかった。しかし、それを自分から言うことや、行動に示すのはどうしたらよいのかわからないのだった。
サムはサムで、フロドにもっと触れたいと葛藤していた。フロドのなめらかな唇にキスすると、もう
それだけで我を忘れてしまう。そして、そこから先の行為に進みたいという願望を持て余す。しかし、自分から主人に手を出すのはもってのほかだという思いをどうしても捨てられない。
フロドを自分のものにしたい。でも、いつもそばにいるのに、手を伸ばすことがどうしても出来ない
のだ。サムはそんなジレンマといつも闘っているのだった。
フロドのそばにいるのは嬉しくて、でも苦しくて、サムには辛いものだった。自然と、フロドによそ
よそしく振舞ってしまう。それがフロドにも不満となっていることなど、サムには知る由もなかった。
そしてある日、サムは父親と一緒に隣町まで仕事に出かけることになった。ほうぼうから働き手が集められる大掛かりな仕事で、泊りがけになり、一ヶ月ほどかかるという。サムは父親から有無を言わさず参加を言い渡され、従うことになった。
「本当に、すまないこってす、フロドの旦那。だいたい一ヶ月くらいと聞いておりますが、ひょっとし
たらもうちっとかかるかもしれねえです。旦那にご不自由させちまいますが、勘弁してくださいまし。」
サムは仕事のことをフロドに報告し、お茶を入れていた。彼はフロドの目を見ることができなかった。
離れることでほっとするような、残念なような、複雑な気持ちだったからだ。フロドはパイプ草を片手
にすぱすぱっと煙を吐き出した。
「いいよ、一ヶ月くらい。気をつけて行っておいで。おやじさんをよく助けてあげるんだよ、サム。」
「はい、もちろんです。おらが来られないかわりに、おふくろが旦那のご様子を見に来ると言ってましただ。」
「だいじょうぶだよ、子供じゃないんだから。でも、ありがとう。おかみさんによろしく言っておくれ
ね。」
フロドがにっこりと笑い、サムはやっとその笑顔を見た。途端に心の奥がずきんとする。この笑顔にどれだけ魅かれ、焦がれていることか…。
動揺を悟られまいとまたそっぽを向きながら、サムはなんでもないように告げた。
「おら、仕事の合間に旦那に手紙を書きますだ。」
「手紙?おまえが?わたしに?」
フロドがおもしろそうに訊ねてくる。
「この間、ビルボの旦那もお手紙を書いてよこされたでしょう…おらも書きたいんです。そうすれば旦
那も寂しくないんじゃないかと――。」
出すぎたことを言ったかと、サムはハッと口をつぐんだ。フロドを見やると、彼はゆったりと微笑み
を浮かべていた。
「ありがとうサム。おまえがわたしに書いてくれたものなら、何だって嬉しいよ。」
フロドは平静を装っていたが、内心はサムがいなくなることに寂しさを感じていた。しかし、仕事で
あれば仕方ない。年上の自分がわがままを言って引きとめてはならないことはよくわかっていた。そしてそういった気持ちを表に出すまいとするプライドも働いていた。
「そうだ、しばらく会えないことだし、おまえとおやじさんの無事を祈って、景気づけにワインでも飲
もう。見繕ってくるよ。」
わざと明るく振舞ってフロドは立ち上がった。
夕食の席でフロドはビルボが残していった質のよいワインを開け、サムにふるまった。サムは恐縮しながらも勧められるままにグラスを飲み干し、程よく酔っ払った。帰りがけに玄関で二人は名残惜しげに見つめあい、きつく抱擁しあった。フロドはサムの口づけを受けながら、このまま帰ってしまうのかと訝しんだが口には出せず、サムはやはりそれ以上のことはしなかった。唇を離すともう一度ぎゅっとフロドを抱きしめ、目を見ずに礼儀正しく頭を下げて帰っていった。
あとには、満たされない想いをかかえたフロドが残された。
翌日、サムは父親と一緒に出かけていった。フロドはサムがいないことを寂しく思いながらも、自分のペースを崩さず静かに暮らしていた。時々、サムの母親が手料理を持って訪ねてくる。一度、約束していたサムからの手紙を持ってきてくれた。内容は仕事に精を出していること、手伝っている事業は順調で、父親ともども元気であることなど、端的で素っ気ないくらい簡潔なものだった。
フロドはその手紙にキスをし、そっと胸に抱きしめた。早くサムに会いたくてならなかった。サムは
昔から飾り気なく明るいおおらかな性格で、誰からも好かれていた。ビルボにもよくなついていたものだった。今頃は、沢山のホビット達が集まる仕事場で中心的な人気者になっているかもしれない。フロドは一人でそんなふうに想像してため息をついた。
「どうしてここにいないんだろう?わたしだけのサムでいて欲しいのに…。」
結局、仕事の期間は当初の予定より延びてしまい、二ヶ月近くかかってしまった。サムが父親と自宅へやっと帰り、家の用事をこなしてからフロドの元へ顔を出したのは、もう夜になっていた。
サムは袋小路屋敷の玄関ドアをノックし、主人を呼ばわった。
「フロドの旦那ー、サムですだよ、ただいま帰りましただ。」
返事は無く、玄関先は灯りがついておらず真っ暗で、サムはフロドが留守にしているのかと考えた。
しかしそっとドアに手をかけると鍵はかかっていない。中に足を踏み入れる。
「旦那、はいりますだよー。」
声をかけながら居間を通り過ぎる。やはり誰もいない。台所も空だった。サムはフロドの自室をノッ
クし、中に入ってみた。真っ暗だ。ランプをつけても、主人の姿はそこには無かった。
「ん?」
サムはベッドサイドの小さなテーブルに目を止めた。何か紙が書き散らしてある。手紙のようで、フロドの字だった。サムは何気なくそれを手に取り、読んでみた。
サムへ。手紙をありがとう。仕事ご苦労様。おやじさんも元気そうで何より。
わたしもつつがなく過ごしている。でも早く戻ってきてほしい。
おまえがいないと、わたしはわたしでいられないような気がする。
誰もおまえの代わりにはなれない。
おまえにここにいてもらいたい。
それから
サムは頬が熱くなるのを感じた。普段あまり感情を表に出さないフロドがこのようにストレートに想
いを吐露している。しかも自分に向かって。
「…サム?帰ってきたのかい?」
突然、背後から声をかけられ、サムは驚いて手紙を取り落とした。きちんと閉めなかったドアからフロドが顔をのぞかせ、中に入ってきた。
「ビルボの書斎で本を読んでいて、うたたねしてしまっていたんだ。ごめんよ、おまえが来たのに気づかなくて。仕事はどう―――」
サムがあわてて拾い上げた手紙を目にし、フロドは立ちすくんだ。
「それ…おまえ、読んだのかい?」
「…お、おら、つい…。」
サムはフロドの顔を見られなかった。フロドはつかつかとサムに近づき、サムの手から手紙を取り上げた。
「見たんだね?」
「……申し訳ありません。」
たまらず、サムは頭を下げていた。
「…いいよ、謝らなくても。」フロドは憮然として手紙を不必要なほど小さく折りたたんだ。「これ、
途中まで本気で出そうかと思っていたんだ。でもさ、あまりに情けない内容だから、やめてしまったんだよ。」
「情けなくなんか!」
思わず声をあげたサムに、フロドは目を丸くした。
「情けなくなんかありませんだ。おら、こっそり読んじまったけれど、嬉しかったんです。旦那がおら
のことをそういうふうに思ってくださってるなんて。旦那は口では何もおっしゃらないから…。」
「何も言わない?わたしが?そう思うのかい?」
フロドは首をかしげてサムを見据えた。その仕草がいたたまれず、サムはフロドを引き寄せて両腕に閉じ込めた。きつく抱きすくめると、まぎれもなくフロドの匂いがする。離れていた間、あれほど恋焦がれたフロドのぬくもりだった。
「サム…そんなに力を入れたら痛いよ。」
フロドが身じろぎしたのでサムは腕をゆるめ、主人の両頬に手を添えて唇を近づけた。触れ合う直前にフロドがぐいっと顔を寄せ、自分から唇を押しつけてきた。会えなかった時間を早急に埋めるかのように熱心に口唇を貪りあう。サムはフロドのいつにない積極的な態度に戸惑いながらも喜ばしく思い、キスの感触に溺れていった。
「好きだ……。」
吐息とともに言葉がこぼれ、サムの耳に届いた。
「おまえにいつもそばにいてほしい―――おまえは、わたしに何を望むの?」
「おらの望みは、ずっと旦那のおそばにいることです。」
「それだけ?」
フロドは唇を離し、歌うようにサムに問うた。
「キスだけでいいの?」
「え…?」
フロドはサムの髪をそっと撫でた。「わたしはおまえと…もっと違うことがしたい。」
主人の瞳はいつものように澄んで清らかだった。それが却って強い意志を感じさせられる。
「フロド様、何をおっしゃっているかおわかりですだか?その…いいんですか?おらと―――」
「おまえはわたしとしたくないのかい?」
サムはフロドの意図をすぐに信じることが出来なかった。だがフロドに手を引かれてベッドに並んで腰かけ、体に腕を回されてキスを受けると、興奮が体中をかけめぐるのを感じた。フロドを押し倒し、上体を重ねて抱きしめていた。
その夜、二人ははじめて体の関係を持った。
灯りを落とした室内。シーツの上でフロドの白い素肌が露わになり、サムの手と唇によって繰り返される愛撫はフロドに絶え間なく愉悦の声をあげさせた。二人の手足が複雑にからみあい、サムの体の下でフロドの細い肢体が悩ましげにのたうった。そしてフロドの足を開いてサムが奥深く押し入った時、フロドは目に涙を浮かべてそれを受け入れた。悦びからなのか苦痛の涙だったのか、サムには考える余裕は無く、フロドの中に欲望を放つべく強く動いた。サムは、ずっと想い続けていた相手が―――自分の下であえぐフロドが信じられず、しかし興奮のほうが勝り、フロドをきつく抱きしめてその中で果てた。
サムの肩に頭をもたせかけ、四肢を投げ出してぐったりと横たわる主人の髪を梳いてやりながら、サムは熱い波が心地よく去ってゆくのを感じていた。
「フロド様…つらくありませんでしたか?」
フロドがサムを見て微笑んだ。情事のあとの気だるさとは程遠い、サムにはたまらなくいとおしい透明さをたたえた笑顔だった。
「だいじょうぶだよ、おまえは優しすぎるね。」
「そんなことは…。」
最後まで言い終わらないうちに、フロドが上体を起こしてサムにキスをしてきた。しっとりと汗ばん
だ体を受け止めながら、ふとサムは枕の下でかさっという音を聞き、そこに手を入れてみた。
「?」
「…あ、それ……。」
サムが取り出したのは、自分がフロドに宛てた手紙だった。フロドは照れくさそうにそれを見やった。
「おまえがわたしに書いてくれたのが嬉しくて…お守りがわりにそこに入れておいたんだ。」
「え…。」
「だってさ…やっぱり寂しかったよ、おまえがいなくて。」
こんなこと最後まで言わせないでおくれ、とそっぽを向くフロドに、サムはじんわりと嬉しさがこみ
あげてくるのだった。尊敬する主人のまた違ったかわいい一面を見たような気がした。
「笑うんじゃないよ。」
「笑ってなどおりませんだ。」
サムはフロドを引き寄せて自分のほうを向かせ、深く口づけた。
おわり