「西へ渡ったフロドへ」                        はかりさん作    背景&イラスト Alatariel

 

  

 辛いことには、慣れていたはずだった。幼い頃に両親を亡くしたのだ。ほかの子供たちが当たり前に
親に甘えていられる時期に、兄弟もいなかった。だがそれが当たり前の状態で育ってきたので、今さら
それが不幸だと思ったことはなかったはずだった。のちに親戚であるビルボに引き取られ、有り余るほ
どの細やかな愛情を受けて袋小路屋敷で過ごしてきた。ビルボと暮らした年月は確かに幸せだった。
 幼いうちに「不幸」を経験した身だ。これから何があったとしても、やりすごせる自信がどこかにあ
った。それほど自分は強いと思っているわけではなかったが、そんな漠然とした傲慢さがあったことは
確かだった。
 それが、指輪棄却後にホビット庄に戻ってからは、フロドは心の奥で打ちのめされていた。
 ――理由は、旅の途中で負った傷だった。


 子供の頃とはまた違い、大人になって経験する厄災がこれほど辛いものだとは。整えられた袋小路屋
敷の書斎で、フロドは体を襲う発作に必死で耐えていた。全身から血の気が引いていくのがわかる。
 おぼろげな意識の中で、突然サムの顔が浮かぶ。輝くような笑顔だ。あの辛い旅の間、持て得る限り
の愛情と献身でそばを離れず、支え、励まし、導いてくれたサム。彼がいなければ、滅びの亀裂に指輪
が落ちる結果にはならなかっただろう。今ここにいることもかなわなかっただろう。
 ――サム、辛いよ、苦しいよ。助けておくれ――
 誰もいない書斎の揺り椅子でくずおれそうになりながら、フロドは何度心の中で助けを求めたことだ
ろう。
 だが、実際にサムを呼ぶことはどうしても出来なかった。サムは今やホビット庄の英雄で、誰からも
賞賛され、仕事も増え、娘も生まれ、とても忙しい身分なのだ。煩わせるわけにはいかなかった。
 フロドはわかっていた。もし助けを求めれば、サムは以前のように何をも優先してフロドの世話を焼
こうとするだろう。妻であるローズも巻き込んでしまうかもしれない。そんなことをさせたくはなかっ
た。サムには、サムの人生をローズや娘のエラノールと共に生きていってほしいのだ。
 袋小路屋敷で一緒に暮らしているサムの一家は、あたたかく笑いに満ち、よく働く、理想の家族だ。
 フロドがそれを見てどんなに癒されているか知れなかった。

 ――サムの幸せを、壊したくない。

 フロドの脳裏に、夕星と呼ばれる美しいゴンドールの王妃の言葉が響いた。――「恐怖と闇の記憶が
あなたを悩ます時、これが支えをもたらしてくれましょう」
 そしてフロドの首にかけてくれた白い宝石。今も鎖につながれ彼の胸元で揺れている。
 フロドは宝石を指が白くなるほど、ぎゅっと握りしめた。

 もう、決心はついていた。


 1421年の秋。
 フロドはサム一家との夕食後、夜の庭に出てみた。見慣れた袋小路屋敷の、いつもの庭。サムが丹精
こめて世話している草花がバランスよく顔をのぞかせている。頬をなでる夜風が心地よかった。
 フロドはふうっと大きく息を吸いこみ、ふと、道に面した門のそばにサムが座っているのを認めた。
「サム?」
 驚かさないようにさりげない声音で、彼の後姿に声をかける。しかしサムにはやはり意外だったらし
く、一瞬肩が飛び上がるのが見えた。苦笑して階段を降りてゆくフロドに振り向き、安堵の笑みを浮か
べる。フロドが昔からよく知っている、あたたかい笑顔だった。彼は腰をずらし、ベンチの埃を手で払
って主人の場所をつくった。
 フロドがサムのすぐ隣にふわりと腰かける。
「ここにいたのか。…どうかしたかい?」
「旦那こそ、めずらしいですだね。いつもは寝室で本を読んでられる時間でしょう?」
「まあ、たまには夜の散歩もいいと思ってね」
「…そうですだか」
 やわらかい瞳でフロドにほほえみかけ、サムはそれ以上は追及しなかった。それがサムの思いやりで
あることに、長いつきあいのフロドは言わずともわかった。
「寒くありませんですか?」
 いつも主人を気遣うことを忘れない。
「平気だよ。――お前はどうしたの?」
「……」
 サムは一瞬黙った。フロドはおや、と思ったが、呼吸を置いて彼の返事を待った。
「…マリエット伯母さんが、亡くなったんですだ」
 サムがぽつりと言う。
「え?…たしか、ベルのおかみさんのお姉さん、だっけ?亡くなったのかい、いつ?」
 ベル、とはサムの母親である。
「はい。去年くらいから年に勝てなくなってきたみたいで、今朝はやくに…。おら、小さいころ、よく
面倒をみてもらったんですだ。優しい伯母さんでしただ」
「そう、そうだったんだ…残念だったね。お前も辛いだろう…。お別れには行ったのかい?」
 サムはうなずいた。
「はい、今日ちいと仕事を抜けて顔を見てきましただ。…眠っているようでした。家族の話だと、最期
はぜんぜん苦しまなかったって――」
 言葉が弱く途切れ、フロドはサムが泣いているのかと思わず彼を見た。
 だが、サムは泣いてはおらず、唇を噛みしめて前を見据えていた。
 しばし、沈黙が落ちる。フロドはサムの次の言葉を辛抱づよく待った。
「…フロドの旦那」
 やがてサムが口をひらいた。寂しげな声だった。
「うん?なんだい?」
 フロドはできるだけ優しい口調で返事をした。サムの硬い声が続く。
「おら考えてたんですが…。
 人は死んだら、どうなるんでしょう?その人が持っていた夢とか、理想とか、生きてきた人生とか、
どこへ行っちまうんでしょう?」
 フロドはとっさに答えられなかった。
「マリエット伯母さんは、立派なかたでしただ。はた織りがそりゃあ上手で、子供や親戚の服なんかを
いつも沢山織ってましただ。おらも作ってもらったことがありますだ。優しくて、話上手で、いつもに
こにこ笑ってて…フロドの旦那、おら不思議なんです。マリエット伯母さんの人生は…どこへ消えちま
っただか?死んだらそこで終わりになっちまうんですだか?」
 サムは真剣だった。フロドの記憶の奥底に、幼いころ熱心にいろんな質問を投げかけてきたサムの姿
が浮かんだ。大人になった今もその面影を残す真っすぐなまなざし――。
「そうだねえ」フロドは考えながら、言葉を探した。「たぶんそれは…どこかに、誰かに受け継がれて
いくんだと私は思うよ」
「どういうことですだか?」
「マリエット伯母さんの子供で、はた織りを教わっている人はいないかい?」
「二番目の娘のミラベラが今では名人ですだ。伯母さんに教わって」
「それだよ。伯母さんが教えたんだろう?それにお前、今日は伯母さんの家で生前の伯母さんのことを
いろいろ聞いてきただろう?」
「はい、ミラベラたちに沢山聞きましただ」
「それだってそうだよ。人が生きてきた証拠じゃないか。誰かの記憶に残り、話すことで、また違う人
が知ってくれるんだ。伯母さんはミラベラやお前や、いろんな人の心にずっと生き続けるんだよ。お前
たちが忘れない限りね」
 サムは、フロドが幼いころに両親を失くしていることを、今さらのように思い出した。
「お前だってそうだ。今はローズがいるし、エラノールもいるし、村の有名人じゃないか。将来お前が
年をとって寿命を迎えたあとも、人はいつまでもサム・ギャムジーを記憶に留めてくれるだろうよ。お
前は死んでも消えることはないんだ。終わりになるわけでもないよ」
 静かに諭すようなフロドの言葉を、サムは黙って聞いていた。
「旦那のおっしゃるとおりですだ。おらたちが忘れない限り、マリエット伯母さんは消えてはいないん
ですだね」
「そうだよ、サム。お前が思い出す時は、いつもそばにいるよ」
 このフロドの言葉の深い意味に、この時のサムが気づく由はなかった。
 風がやさしく二人の頬をなでて通り過ぎていった。
 あたたかな沈黙が流れる。やがてサムが立ち上がり、フロドに笑いかけた。
「フロドの旦那、そろそろ休みましょう。明日は早い出発ですだね?」
「うん、よろしく頼むよ」
 フロドも微笑みながらベンチを後にした。

 ――この時のフロドとの語らいは、のちのサムには生涯忘れられないものとなった。

 次の日の朝早くに二人は小馬に乗って屋敷から出発し、そしてフロドのほうは二度とホビット庄に戻
ってはこなかったのだ。

 
 数年後。
 フロドがいなくなった袋小路屋敷で、サムは優しくしっかりものの妻と何人にも増えた子供たちに囲
まれながら、たびたびフロドへと思いを馳せた。
――お前はわたしの相続人だよ。
――わたしが持っていたもの、持ったかもしれないものはことごとくお前に残すからね。
――生きてきた証拠は、人生は、誰かに受け継がれていくんだよ。
――思い出す時は、いつもそばにいるよ――
 フロドの言葉の重みが胸にしみわたる。
 フロドはサムの幸せな人生を願い、見届けてから行ったのだと、今はわかる。
 最後まで寄り添うことは出来なかった。人生を共にすることはなかったけれど。
 自分がこの家で、この地で善く生きることが、子供たちにフロドのことを話して聞かせることが、彼
の人生を受け継ぐことになるのだ。彼が生きた証になるのだ。
   
「とうさん、ねえ、おはなしきかせて」
 まだあどけない息子のフロドがまとわりつく。そうだ、この子だってフロドがいたという証拠ではな
いか。サムは妻と相談して、男の子が生まれたら彼の名前をつけようと決めていたのだ。敬愛してやま
ない主人の名前を。
 サムはちいさなフロドを膝に抱き上げた。
「さあ、おいで、フロド。なんの話がいいだか?ビルボ旦那のでっかい竜の話?それとも、フロド旦那
と指輪の話がいいかな?」
「フロドって、とっても勇敢だったんだね、とうさん?」
「そうとも、坊や、ホビットの中で一番有名なんだ、これはとても大変な物語だよ――」


 いつか、フロド様に会いたい。
 自分がここで精一杯生きたことを、会って話したい。
 そして、彼がついにサムには話さなかった心の奥の苦しみや辛さを、その口からじかに聞きたい。
 それが終わる時やっと自分は、人生の役割をまっとうできるのではないか。
 その日まで顔をあげ、胸を張って生きていこう。
 

 フロドはサムの中に、ホビット庄に生き続けるのだ。
 
(おわり)

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