波音−エレッセア編


寄せては返す波。
虚空にはかの星が輝いていた。美しい星。エアレンディル。
サムもこの光を眺めているのだろうか。

フロドはぼんやりした頭の中であの夜のことを思い出していた。
中つ国で最後に迎えた誕生日の夜のことを。
サムはどうにも気持ちが納まらず、二人だけで話がしたいと言って
エルフの一行から離れたところにフロドを連れ出していた。
サムは怒っていた。そして泣いていた。
あいつは自分の不甲斐無さに腹を立てていたのだ。
わたしにじゃない・・・・。

 サムはぶざまに泣きつづけながら、搾り出すように言った。
「愛しています・・・・。」
 フロドの頬にサムの涙が落ちつづけた。
「おお・・・サム」
 フロドは瞳を見開き眉間にしわを寄せて哀しい表情をした。サムをじっと見つめながら首を僅かに横に振った。そしてまぶたを深く閉じ、もう一度見開いた。
「・・・わたしもだよ。・・・・・・・・しかし、」

 そしてサムはフロドの体に触れた。この夜だけはいつもと違った。サムはかつて夢の中だけでしたようにフロドに触れたからだった。
 中つ国を照らす星星も月明かりも二人を裁く事はしなかった。


「フロド」
 不意に自分の名が美しい韻律の響きとなって耳に運ばれた。
「何が見えるのですか。」
 声の主は長身でうっすらと月明かりのような光芒を放ち簡素な白い服を着ていた。もうここではすっかり見慣れてしまったが、眼がくらむほど美しいエルダールの王子の一人であった。
「あなたはここが好きですか。この東に向けて突き出した岬の崖によく来ておられると、あなたの叔父上からお聞きしましたよ。」
 フロドはわずかに心臓の音が早まるのを感じたがすぐに平静を取り戻して立ち上がり、丁寧にお辞儀をするとこう言った。
「フィンロド殿、ご機嫌うるわしゅうございます。ここが特に好きという訳ではありません。まだあまりこの土地のことを知りませんし。」
「そうであったな。あなたはまだここにきたばかりだ。」
 エルフはそう言ってフロドに座るように促し、自分もその横に座った。
 この王子を紹介されたときフロドは彼がかのガラドリエルの奥方の兄君で、かつてビルボから何度となく聞いたあの「ベレンとルシアンの物語」の中で果敢にもベレンを助けた上古のエルフ王の一人−フィンロド・フェラグンド殿であることを知った時、驚いて口が塞がらなかった。フロドと一緒の船でやってきたガラドリエルとギルドールが彼を見て涙を流していたのが印象に残っている。

「私は一度中つ国で命を落としました。あなたは物知りの叔父上から良く聞いていたはずですね。」
 フィンロドはにこりと笑った。
「中つ国で第三紀が終わった今、同朋はいよいよ皆アマンに戻ってきます。私もまた生ある身を取り戻しました。」
「私はこの岬が好きなのですよ。私もよくここへ来るのです。ほの暗き海や惑わしの島々の向こうの水面までをわずかに望めるこの場所に。
 バラヒアやベレンのこと、わたしが親しかったエダインを思い出します。あなたも中つ国の同朋のことを想っておいでかと。」
 フィンロドの言い方に嫌味はなかった。
「貴方方エルフ族はほんとに不思議です。私が幼い頃に寝物語で聞いたお話の中のことをその眼でご覧になって知っているのですから・・。わたしはベレンとモルゴスとの闘いやシルマリルの話を聞いてどんなに胸が躍ったことでしょう!ビルボは話がとても上手いんです。ああ、懐かしいなぁ。幼い頃の話です。」

 両親を失ったばかりで、わたしはブランディ屋敷の一室のベッドでひっそり泣いていた。まだ子供だった。兄弟も居なかった。親戚は山のようにいたが、ホビットの12歳といえばまだほんの子供だ。世界にたったひとり置き去りにされたように思った。
 葬儀の後、弔問に来ていたビルボがそんなわたしのところにやってきて自分の竜退治の話やらエルフの話をしてくれた。他の親戚と違って、フロドを慰めるようなことは何も言わずに
「やあ、面白い話は好きかい?わたしの冒険を聞かせたことはあったかな。」

 
と親しげにベッドに腰掛けてくるのだ。
 ビルボは両親よりもずっと年上ですでに老年だったが若々しかった。話の内容の面白さにすっかり胸を奪われたのだが、今考えて見ればビルボの優しい笑顔に不思議と安堵を覚え、孤独から救われたのかもしれない。もう本当に遠い昔のことのように思えた。

「しかし、貴方に比べればわたしなど、ちっぽけなものにお見えになるのでしょうね。」
 フロドがそう言うと、フィンロドは真摯な眼差しと落ち着いた口調で話した。
「いいや、フロドよ、貴方がいなければ中つ国は闇に包まれていたはずだ。皆貴方に敬意を払っている。マンウェでさえ、貴方を称えておいでだ。
もうここではご自分を責める必要は無いのに、何故そのように寂しい眼をしておられるのだ。」
−自分を責める−・・・・。
 フィンロドが口にしたこの言葉が胸に突き刺さった。
「わたしは・・・」
「ああ、もうよいのですよ。そう急ぐ必要は無い。ゆっくり貴方が受けた傷を癒すと良いのです。
至福の島エレッセアでは、貴方はもう過去の傷に苦しむ事はありません。」
 フィンロドは敬意と慈しみのこもった声でそう言った。
 フロドはこのエルフの王子が好きだと思った。彼には一緒に旅をしたレゴラスをなんとなく思わせるような気さくさがあった。しかし、フィンロドはレゴラスよりはもっとその眼差しに年輪と深みを感じさせ、レゴラスが青々とした若木なら、フィンロドはかつてロリエンで見たマルローン樹の大木を思わせた。
 フィンロドに限らず、エルダールは皆不思議だった。フロドが死すべき定めの命しか持たず、しかも物知りのエルダールでさえあまり知らない小さい人の種族の者だというのにも関わらず、何故アマンに渡ってくることを許されたのか。その理由を皆知っているだろうか。
 しかし、エルダールはフロドの心に必要以上に入ってくる事はしないが、彼に多いに敬意を払い、心地良い優しい言葉を掛けてくるのだった。
 トル・エレッセアやヴァリノールに住まうエルダールは相手が望む心の距離を自然に察知するように思われた。なるほど、雨の降る朝に光に包まれたこの離れ島についてから、フロドはもう悪夢に襲われることは無くなった。まるで霧が晴れるかのように。
 夢の中で気が狂ったように剣を振りかざすことも、廃人のように知らない荒地を彷徨う事も無くなった。そして無性に喉が乾き、永遠に失われしものを欲して焼け尽くしそうな狂気に襲われることも、−もうそれも無いのだ。
 あいつに、−わたしの右手の中指と共に炎の亀裂に落ちていったあいつに焼け付くような嫉妬と怒りを感じることも・・・・・。
 苦しかった。魂が疲弊しきってそのうち砕け散ってしまいそうだった。もうじきほっておいても自分は死ぬだろうと思った。サルマンも言っていた。わたしには長寿も健康も約束されないのだと。
 落ちたとはいえ、イスタリの言うことは正しい。
 一緒に狂気と見にくい闇の心も死んでしまう。いいざまだ。
 わたしなど死ねばいい。そうだ、グリマに殺されたサルマンのように。

「それでも彼を殺してはいけない。」
 そんなことを言ってのけたもう一人の自分をあざ笑った。

 いつもいつもこのような自棄な気持ちになるわけでは無かったが、発作は繰り返し襲ってきた。発作の波のピークには平静のフロドからは考えられないような破壊的で破滅的な心の模様が広がった。
 気分の落ち着いている時期は努めてビルボから預かった備忘録の続きの執筆にかかっていた。エルロンドに告げられた時期が迫っている。早く仕上げなければ・・・。

 忙しく働きまわるサムが時折り心配そうな顔で私に言った。
「旦那が一番苦労しなすったっていうのに旦那は控えめすぎるようにおらいつも感じますだ」
「旦那より賢いもんはホビット庄には居りませんだよ。どうして庄長職をお辞めになるんです!」
「おら、旦那は誰より立派なお方だって言ってやりましただ。」
「旦那は、お優し過ぎるのですだ。」
「旦那は、−」

 お前は知らない。私のこの醜い姿を。知らないんだ。
 いや、知っている。見たじゃないか。その眼で。
 滅びの亀裂で指輪を嵌めたわたしを。
 今もあの幻影を私が追っていることにお前は気付かないのか。

 いや、いい。お前には見られたくない。
 ・・いや。違う。違わない!・・・・サム!
 少しは、少しは・・・気付いておくれ。
 ・・・いや気付くな!見てはいけない。おまえには関係無い。
 おお、誰か・・・・!。
 助けてくれ、サム!
 フロドは夜更けに悪夢から目覚めては袋小路の自分の寝室でひっそり死んだように横たわり、冷たい覇気の無い眼は空を彷徨っていた。サムとロージーは自分の部屋から最も離れた寝室を使っていた。
 梟の鳴き声が聞こえた。

 ・・・・わたしもだよ、サム。お前を愛している。
 お前とお前の家族や他のみんなが大事なものをもっておられるように。
 わたしが失えばいいのだ。わたしは自分の為に旅に出たのではないからね。

「多分、一番愛するもう一人のホビットがここには居ないからです。」
 フロドが逡巡から不意に我に戻って、ぽつりそう言った。さっき、フィンロドから受けた質問の答えだった。いくつか会話が過ぎたのに、間の抜けたように思い出したようにフロドはそう言った。
 しかし、フィンロドは深い眼差しをフロドに向け静かにその言葉を受け止めていた。
「わたしは我侭で、自分勝手でずるいのです。」
「ほほう、あなたが?」
「わたしは彼に呪縛をかけてきたのですよ。いつかここへ来るように。」
「その者にもヴァラールの恩寵が?」
「ええ、彼も指輪所持者の一人です。ガンダルフは彼も望みさえすれば船に乗ることが出来ると言いました。正直、一緒に来て欲しいと全く思わなかったわけではありません。ですが、それ以上に私の全てを彼に託したくもあったのです。私が中つ国で失った全ての美しいものを。そのすべてを彼に与えてやりたかった。愛する者がそこで幸せでいられる為にこそ私は重荷を引き受けたのですから。」
「しかし私は"おまえの時も来るだろう"そう彼に言いました。」


 フィンロドはフロドの瞳に長い苦悶の跡を読み取っていた。
「わたしも、−死すべき定めの子ベレンの為に力を尽くしたいと思いました。そして私は永遠を約束されたこの命を一度は失ったのです。」
 フロドは少しだけ驚いたようにフィンロドを見つめた。
 二人はしばしば話を交わすようになり、フィンロドはフロドを「小さいエルフ」と呼ぶようになった。フィンロドもフロドも、この岬にやって来ては波の音に耳を傍立てた。
 何故かこの岬に来てはるかに東に続く銀色の海原と天つ星空を眺めては哀しい気持ちに心を満たすのが心地よくさえあった。
 もう戻ることは許されない道だった。魔法の船はこちらへ向う道しか見つけることが出来ない。永遠に片道なのだ。



 幾歳月サムもまたしばしば中つ国の岸辺に寄せる波の音を聞いていたことをフロドは知らない。
 ホビット庄は中つ国の東端の海に近いとはいえ、波音が聞こえるような距離ではもちろんなかった。
 心で聞いたのである。
 フロドを乗せた白い船が去っていった灰色港で胸の奥深く刻んだ波の音だった。明滅するフロドの玻璃瓶の光はいつまでもサムの脳裏に焼きつき、波の音は耳に寄せては返した。
 サムは自分の中に海があリ続けるのだと思った。
 おそらく、自分が港に行くまでは。


終わり
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