星に誓いを
「すげえ1局だったな。」
和谷が言った。狭い6畳一間のアパートである。
そこに若い男たちばかり、数人が集まっていた。
皆は碁盤を囲んで会していたが、ある者は腕を組み、あるものは顎に手を当て、またあるものは天井を見上げたりしている。年齢も様々だ。大人も居れば子供もいる・・といった面々。「これ、どうすれば、進藤勝てたんだろう。」
「そうだなぁ・・・、ここで、こう出切ってたら・・?」
「でもそうすると、こっが見合いにされるよ・・。」
「そうだな・・。うーーーん。」
「逆転の余地無しか?」
「いやそんなこと無いだろう?だってたった半目差だぜ。」
「その半目を詰められなかったってことだろ、あの進藤が必死に打ってさ。」
「相手が強すぎだよ。」
若者たちが1手目から並べて検討していたのは、先日の北斗杯での日韓の大将戦、高永夏と進藤ヒカルの1局である。 渾身の1局。だがヒカルが負けた。たった半目の差で。
大盤解説場に居た和谷は対局室から出てきたヒカルを見た時のことを思い出していた。
和谷は何かねぎらいの言葉を掛けてやりたかったが、ヒカルの顔を見て、言葉が出てこなくなってしまった。ヒカルの目と鼻は真っ赤だった。どう見てもあきらかに泣いた跡だった。唇をかみ締めて目は前を鋭く見据えていた。手にはいつものあの扇を握り占めている。横に並んで出てきた塔矢アキラがしきりに進藤を気にしていたのにも気付いた。
選手の先頭に出てきた社は、やはり悔しげな表情をしていた。だが、ヒカルの真っ赤に充血した眼差しがあまりにも凄みがあり、人目を引いたせいか、取材者や、観客たちの注目は、その日の日本選手の大将、進藤ヒカル一身に集まってしまった。「進藤君、よほど、悔しかったんでしょうね。」
「いや、悔しさはばねになりますよ。」
「彼はもっともっと伸びるでしょう。」
碁の内容がわかる者たちは、皆ヒカルの健闘に好意的だったが。
やはり勝負は勝ち敗けである。こう言う者たちもいた。「ちぇ、勝ったのは塔矢アキラだけか。進藤なんか大将にしなきゃ良かったのに。」
「大将交代は失敗だったな。塔矢くんと高永夏、見たかったよねぇ」
などという囁きもあちこちで聞かれた。
たった半目でも負けは負け。・・・である。
後で聞いた話によるとヒカルは表彰式とその後のパーティーで、ほとんど口を効かなかったという。
次の日は、韓国の三将、洪秀英とヒカルの非公式な対局が秀英の叔父の碁会所であり、そこにも、和谷は出向いた。そしてそこには塔矢アキラも来ていた。その時、初めて和谷は気付いた。ヒカルと塔矢アキラが、どうもよくつるんでいるらしいということを。
実際、その直後に棋院で二人を見かけたときも塔矢アキラは進藤ヒカルと親しげに話していた。
ヒカルにそれとなく和谷が探りを入れると、別に隠すでもなく、ヒカルはこう言った。「あいつと、時々碁会所で打ってるよ。森下先生には内緒だぜ、和谷。」
「お前たちいつから仲良くなったんだよ?」
「仲、いい・・・?って言うかなぁ。会ってもいつも打って、検討して、ってそれだけだし。」
「そんなに頻繁に会ってんなら、そりゃ友達だろ、進藤。」
「友達・・・・?かなぁ。」
と、よくわからない答えが返ってきた。
どうも、本当に碁を打って、切磋琢磨する、そんな付き合いらしい。
しかし、それって、・・・・。
あの塔矢アキラが、進藤ヒカルを自分の切磋琢磨の相手として認めてるからだろう。
前はヒカルのことを無視していた塔矢。
和谷は少し、愕然とした。
やはり塔矢は今、進藤を認めているんだ、はっきりと。
それに引き換え、何回か対局したこともあるのに、塔矢アキラにいまだに名前さえ覚えられていないオレ。
「じゃ、オレはお前の何?」
ちなみに聞いてみた。「和谷は、友達じゃん!決まってんじゃん。」
「おい、ライバルじゃないのかよ!」
「もちろん、ライバルでもあるさ、そんなの決まってんだろ。」
「じゃ、伊角さんは?」
「伊角さんも友達だし、先輩だし、ライバル。」
そう言ってたっけ。
そして、洪秀英との対局の日。
その日はもうヒカルはいつものヒカルに戻っていた。鋭い攻めで、秀英に勝利すると前日とはうって変わって明るい笑顔を見せた。
そのヒカルが、惜涙を流した一局・・・、ヒカルと永夏の対局を検討していたのは、和谷、伊角、越智、本田、そして門脇である。
ヒカルの同期2人とその1年後にプロになった三人、というメンバーだった。北斗杯当日にも数人で検討したが、今日はヒカル本人を交えて、再度検討しようという話になっていた。
「しっかし、あいつおせーな。何やってんだよ。主役が来なきゃ、もりあがんねーよな。」
和谷が言った。「そうだな、せっかくみんなで慰労会兼ねて検討会やろうていうのにな。」
と伊角も返す。
部屋の隅には菓子やら、弁当やら、ジュース、そして、ビールも何本か置いてあった。「おい、和谷、ビール冷やしといてくれよ!」
「あ、ごめん、ごめん。門脇さん」
そう言って和谷は最年長の門脇が買ってきた缶ビールを小さな冷蔵庫へ詰め込んだ。
「だが・・・。この一局、2年前のあいつなら勝ってたぞ・・・・・。」
門脇が独り言のように呟く。「へ?」
和谷が聞き逃さなかった。「何、それ、門脇さん、どういう意味?」
「え、まぁ、いやな。前に言ったろ。オレが院生だった進藤を捕まえて一局打った話。」「ああ、門脇さんが1年プロ試験延ばしたの、院生だった進藤に負けたからって、あの話?」
「そ。あの頃の進藤だったら、絶対負けないよ、高永夏なんかに。」「門脇さん、言ってましたね。その時の進藤の方が強かった、て。」
伊角が言った。「またその話か・・。でも、そんなのどう考えたっておかしいでしょ?昔の進藤の方が強い?今の進藤の強さはどうなんだよ。昔の進藤なんか、僕に負けてたのに。」
越智が低い声で言った。「そうなんだよな。門脇さんのその話、どうもわかんねーんだよな。だって、あいつ、院生ン時、オレより順位なんて下で、プロ試験だって、予選から受けたんですよ。それが今じゃあの快進撃です。低段者との対局なんて負け知らずだし。こないだの北斗杯の2敗だって、久しぶりに進藤の黒星見たって感じなんすよ。あいつすごい勢いで強くなってきてる。今じゃ塔矢アキラと肩並べてるし。その進藤が2年前の方が強いって、わかんないっすよ。門脇さん。」
「まぁ、そういわれてもオレにも解らんのだがな・・・あいつの謎めいた強さの訳は。」
門脇も頭を振る。「よそ、よそ、もうあんまり進藤の不気味な伝説増やすのよそうぜ。自分だ、自分!」
と本田が自分を鼓舞するように言い放つ。
「でも・・・ちょっと解る気もする。」
皆が門脇の妙な主張を忘れようとしている時、越智がひっそり言った。
「なんだよ、越智?もうやめようぜ、進藤伝説。」「前にさ、僕、塔矢に指導碁打ってもらってた話しただろ。」
「ああ、プロ試験の時?」
「そう、あの時、塔矢と毎日のように打ってて。僕が、進藤なんか、って言ったら、あいつ、すごいムキになってさ、あいつと進藤が昔打ったとかいう1局を並べ出したんだ。それが、凄い1局で、進藤の圧勝なんだよ。」
「進藤の圧勝!?塔矢相手に?」
和谷が叫んだ。
「昔って言ったけど、その対局は何時のだ?」
伊角が尋ねた。「指導後打ってもらったのが今から2年前で、さらにその2年前って言ってたな、塔矢。」
「ってことは、合計して今から4年前だろ。なんだよ!それ、あいつ小学生じゃん!」
和谷はまたも叫ぶ。「あいつ、だって、碁始めたの確か小6って言ってなかったっけ?」
と伊角。「そーだよ!、碁初めてたった2年でプロ試験合格。倉田さんに並ぶスピードだよ。」
もう和谷の声は怒りを含みつつあった。「・・・・でも塔矢が嘘言うとは思えない。その1局、並べようか?」
「並べろよ!、越智。」
越智は、塔矢から2年前に教えられた1局を並べ始めた。
すると皆の声がみるみる驚愕の色を帯び始めた。
「信じられない、これが小6の進藤か?」「うそだろ、こんなの・・・。」
「塔矢と手番逆じゃねーの?」
「いや、逆だとしても、負けた方だって相当強い。」
そんな驚愕の嵐の中、門脇はひとり納得したように言った。
「そうだよ、こういう強さだった。2年前のあいつ。これ、まさしくあの、オレが、このオレがだぜ、憧れて、だ。・・・そして尊敬しちまった、小さな子供の、そう、進藤ヒカルの・・・・信じられないような強さだ。」皆は顔を見合わせた。
部屋はしんと静まりかえった。
煮詰まって無言になった若者たち。6畳の狭い木造アパートの一室。
そんな中、ぽつりと和谷が囁いた。
「こんなに強かったら、sai並だぜ・・・。」
「え?」
「saiだよ、ネットの。」
「ああ、お前がよく言ってたあの、ネットの伝説の棋士のことか?」
「そう、ネットのsai。実際、saiはネット碁で、塔矢とやって勝ってる。」
「ああ、それ、お前からよく聞いたよな。お前その話するとき、いつもすごい興奮してるから、よく覚えてるよ。プロ試験初日ふけてまで、ネット碁を優先したって話だよな。」
伊角はネットをその頃やっていなかったが、仲のよい和谷からはよくsaiの話を聞いていた。
・・・・Zeldaって和谷だったんだ!・・・・
進藤の声が突然頭の中にこだました。なんだ、突然。忘れてたのに。
・・・違うだろ・・・・。
だが、もう声に出しても仕方ないというように、ただうなだれていた。
「saiか・・・。saiって塔矢先生にも勝ったんだよな。」
伊角がつぶやいた。
「なぁ、もし、ネットのsaiが高永夏と打ったら、どうだろうな?」
「そりゃ、saiが勝つよ!」
間髪入れずに和谷が答える。
「ひゅー、和谷はsaiのファンだからな。」
「だってオレ、saiがネットに居たあの夏、毎日のように見てたんすよ。ほんとに凄かったんだ。森下先生よりも強い、ってすぐ分かった。日に日に、強くなって、なんていうか、ほんとになんなんだよ?こいつって。」
「歴史上最強棋士、本因坊秀策が現代の定石を学んだ・・・か。」
伊角の頭には、あまりに何回も聞かされたので、和谷がsaiの強さを形容したフレーズがインプットされているのだ。
そんな折、やっと、和谷の部屋の扉が開いた。
「おー、わりぃ、わりぃ!遅くなっちゃって。」
同時に進藤の明るく元気な声が飛び込んできた。「お前、おせーよ!何してたんだよ、ったく。もう皆待って・・・たん・・・・・。あ・・。」
そこに居た若者たちはヒカルの後ろから遠慮がちに顔を覗かせた人物を見て固まってしまった。
「すみません、突然。僕は遠慮すると言ったんですが、進藤がどうしても来いと言うものですから。」
塔矢アキラだった。
ストライプの長袖シャツ。きっちりと折り目のついたスラックス。そしてベルト。
ヒカルはジーパンに無造作に被ったTシャツ。そしてスニーカーだった。
「今日午前中、棋院で、北斗杯がらみの取材があってさ、感想とか、いろいろな。それで、こいつと一緒だったんだけど、午後は暇だって言うから、一緒に連れてきたんだ。こいつと林日煥との対局も検討しようぜ。あ、これこいつからお土産だって。」
そう言って、自分は手ぶらのヒカルは駅前の高い有名な菓子店でアキラが買ったケーキの箱を皆に差し出した。「これ。すげー高かったんだよな、塔矢。」
「あ、どーも。」
そっけなく和谷が受け取る。
「あ、あの僕の対局はお気遣いなく。その、やはり、僕は遠慮した方がいいのじゃないかな・・。」
アキラは皆のあっけに取られた顔を見て、やはり場違いだったのではないかと感じた。
「そんなことないよ、塔矢。塔矢も連れてきてくれたなんて進藤、気がきくじゃないか!あがれよ、二人とも。」
伊角がアキラの気持ちを察して、すかさず、明るく呼びかけた。
「塔矢、君とこういう機会が持てるのは嬉しいよ。」
「ほう、噂をすればだな。塔矢に進藤か、レベルの高い検討会になったな、な、和谷。」
門脇が和谷に向けて言った。
「・・・・・。」
しかし、和谷はひとり不機嫌そうである。
(みんな、なんだよ。ここオレん家なんだぞ、勝手に塔矢を歓迎しやがって。)
本田も伊角にならって、遠慮しているアキラに声をかけた。
「やぁ塔矢くん。今年プロになった本田だよ。よろしく。君と検討できるなんて、ラッキーだな。」
(くそ!伊角さんも門脇さんも本田さんも、みんな、大人の余裕かぁ。いいや、進藤が一番悪い!勝手に誘ってきやがって。)
和谷の中ではあい変わらず、塔矢アキラは「すました感じの悪いヤツ」だった。
・・・あとは越智だな。あいつだって塔矢のことはそんなに・・・え?
越智は慌てて、盤面を崩し、碁笥に石を片つけていた。顔が焦っている・・・?
「こ、これは・・・。」
塔矢は盤面を見てすぐに気付いた。忘れもしない。あの一局だ。
越智?あの一局をここにいる皆に見せたのか・・・!?
同様にアキラよりも先にずかずか上りこんでいたヒカルは既に気付いていた。
忘れもしない。あの一局・・・・!
何故・・・・これが?
ヒカルは越智が慌てて崩した盤面を見て、凍り付いていた。
「越智・・・。」
アキラは越智に鋭い視線を投げつけた。
「気が付きました?あなたに教わった1局です。今、皆に見せてたんです。・・・・
凄い1局だから、皆の勉強にもなると思って・・・。」
越智は、開き直ってそう言った。
「それとも負けた碁を見せられるのはプライドの高いあなたには不愉快でしたか?」
「・・・・・。」
アキラは答えなかった。
別に口止めした訳じゃない。越智を責める訳にはゆかない・・・。
それよりヒカルだった。
これを見て、小学生だった自分たちが打ったあの一局を僕が越智に教えていたことを、進藤は悟っただろう。彼はどう思うだろう。
越智以外に誰にも教えたことの無いこの一局を。これが全ての始まりだった。忘れもしない、いいや、忘れることなんで出来ない。遥かに僕をしのいだ力量。妙に古い定石。そしてその強さに反して、たどたどしい進藤の石の持ち方。
ヒカルは無言で片付けられていく盤面を見詰めていた。
二人の硬い表情から、この一局があまり触れてはいけない一局なのだと、そこに居た全員が悟り、部屋は妙に気まずく、静まり返ってしまった。
せっかくの楽しい慰労会になるはずの検討会がこれではまずい・・・。さすがの和谷も空気を変えようと、奮起する。
「さ、まぁ、進藤もそれに、塔矢もこんなむさい部屋に来てくれた事だしさ、もう一回やりなおそうな!検討。高永夏とお前の対局、並べるぞ。」
和谷が努めて明るくそう言うと、ヒカルも笑った。「お〜し!、さぁ、はじめっか。最善の一手を追求するべし!!」
「おい、和谷ビール出せ。もう待たせすぎだぞ!進藤。我慢できん、オレは飲みながらやるからな。」
門脇が言った。「なんだよ、門脇さん、ここはセルフサービスだから。ほら自分で取ってきてよ!」
「はいはい。」
「じゃ、おれもなんか飲み物いれよ。皆何がいい?」
ちゃんと他のひとの分も聞く伊角である。
「オレ、コーラね!伊角さん」
とヒカル。「だから、セルフだっつーの!進藤。」
「はーい。」
「はははは。こちらの集まりは賑やかですね。」
塔矢が笑った。「だろ?こんなやつらばっかだからさ。お前にはちょっとむさ苦しいかもしれないけど、遠慮しないで、楽しくやろうぜ。」
とすかさずフォローする伊角。
一瞬、どうなるかと思った場は盛り返して、いつもの賑やかさになった。
「そうだ!、塔矢君、君はどう思う?」
ビールを飲んでちょっと陽気になった門脇がアキラにふいに尋ねた。「え、何がですか?」
「いやさ、さっき、ネットのsai・・・とかいうやつとさ、高永夏がやったらどうなる?って話してたんだよ。なんか皆の話だと君もsaiと対局したことがあるそうだな。」
進藤に負けた一局の話はどうやらタブーだったらしいが、saiの話なら、皆の共通の話題だろうと思った門脇がアキラに話題を振ったのだ。
ヒカルにはまたも、緊張が走った。
「・・・・ええ、ありますよ。」
「で、どう思う?高永夏とsai。」
「saiが勝ちますよ。」
即答だった。ヒカルは無言でアキラの言葉を聞いていた。
「ほお、君もsaiか。和谷もsaiが勝つって言ってたぞ。」
「・・saiは僕の父に勝っています。saiなら、あのsaiならまず間違いなく高永夏には難無く勝つでしょうね。」
「ふーーーん。凄いなsaiの人気は。」
「門脇さんはsai知らなかったの?」
和谷が聞く。
「オレはネット碁やらないからね。ただ、なんか知らないけど、なんとかっていう巨大掲示板の碁板とかいうやつに勝手にオレのこと書き込むお節介なネット通の友達が居てさ。そいつから、聞いて名前は知ってた。あの天下の塔矢行洋に勝った無名の棋士が居るってね。」
「あー、あの碁板、オレよく覗くんすよ!、門脇さんのことよく書き込みあるの、あれ、門脇さんの友達なんだ!!
知ってますか?sai板っていうのまであったんすよ。saiは誰だみたいな話で盛り上がってた。去年の塔矢先生との一局の後、また盛り上がってね。幽霊説っていうのまで出たんすよ!。」
ネットが無ければ生きていけない和谷は直に反応した。この狭い6畳の部屋にもデスクトップがでーんと置いてある。「お前、オタクだな」
伊角がからかう。(ゆ、幽霊説・・・。)
ヒカルは瞳を見開いた。「よう、あれで、覗いてみるか?ネット碁。saiがいるかもしれないんだろ?探してみようか。」
「探してもいませんよ!門脇さん。saiがネットに棲んでたのってほんとにごく短い期間なんすよ。去年の今ごろ、塔矢先生と対局して、それ以来、またふっつり、現れないんだ。ほんとに伝説と化してますよ。saiは・・・。あんなにわずかの間だけしか居なかったのに、強さだけ見せつけて、消えてしまった。偽saiがいっぱい居るくらい、saiは有名なんですから。」
偽sai?思わずヒカルの顔色が変わった。
そんなのが・・・居るんだ。あいつを・・・。あいつを騙る奴が・・・・!?
「そいつ強いのか?」
ヒカルは黙っていられずおずおずと和谷に尋ねた。
「お、珍しくsaiの話に乗ってくるじゃん、進藤。強いかって?偽saiはすぐ偽saiって分かるよ。ヘボばっかだもん。ヘボに限って、sai気取りをしたがるんだ。すぐわかるよ。だってあんなに強いやつ、どこに居るよ?」
「そっか。」
ヒカルは密かに胸を安堵がなで下ろすのを感じた。
あいつの、佐為の・・・、名誉は守られているらしい。
門脇は今度はヒカルに尋ねた。
「おい、進藤。お前どうなんだ?saiと高永夏、どっちが勝つ?」
思わずアキラはヒカルへ視線を向けた。努めて平静を装いながら。
「・・・・・・・。」
「高永夏って高慢なやつだよな。あいつ、レセプションで秀策の悪口言ったんだってな。
そのくらいのやつだから、ネットの棋士?いくら強いといったって、ネットなんて遊びじゃないか、そんなうさんくさい棋士なんて自分の敵じゃない・・、
とかなんとか言うんだろうな。きっと。」
「勝つよ。」
「え?」
「勝つよ。saiが。」
「高永夏なんか絶対に敵わない。絶対に。これから先、高永夏がどんなに強くなったって、どんなに国際戦を勝ち抜いて世界のトップに立ったって。saiには敵わない。絶対。絶対に!。」
最後の方は、語気が荒々しく、声が少し震えていた。
アキラはヒカルを見入った。
「へ〜、お前がsaiのことそんな風に言うの意外だな・・・・。」
和谷が言った。「うん。」
伊角も同意する。
「・・・・もういいよ。高永夏に負けたのはオレだ。オレが強くならなきゃ、話にならない。オレがあいつに勝てないと意味ないんだ。オレが。
とにかく、オレの一局を検討してよ。」
ヒカルは訴えた。
「よし、そうだな、もう夢物語はおしまい、おしまい。さ、現実はオレらだよな。伝説の強い棋士がいくら強くたって、現実に数多くの手合いが待ってるのはオレ達なんだ。さ、勉強。勉強。」
和谷が言った。
皆はこうして和谷の家で、夜遅くまで、検討を続け、そのまま、宴会になり、そして門脇は酔いつぶれ、相手をしていた伊角と本田もつぶれ、ヒカルとアキラと越智は、和谷宅を辞した。
駅前に迎えに来ていたベンツに越智は乗り込んで、ヒカルたちと別れた。
ヒカルとアキラは二人して、電車に乗り込み、途中の駅で別の路線に別れていった。
ヒカルは夜道を歩きながら、ほーっと深呼吸をして、夜空を見上げた。
「いつか、きっと。いつか、きっとな。」ヒカルは眩しい目をして誰かに話し掛けるように、そうつぶやいた。
都会にしては星がよく見える夜だった。