ふたりは あのころ

 

「おい、もう見たかぁ?」
 ヒカルが訊いた。
「はい、見ました。ありがとうございます、ヒカル。片付けていいですよ」
 佐為が答えた。

 いつものことだ。
 佐為が新聞に載っていた棋戦の棋譜を見ていたのだ。ある日、佐為は気付いたのだ。ヒカルがテレビ欄を見ていた新聞の片隅に囲碁の記事が載っていることがあることを。それからはせがまれて、そこだけ抜きとっては上に上がっている。佐為が見終わると、ヒカルはさっさとをクローゼットの中の決まった置き場所に新聞を片付けるのだった。

 それにしてもこういうところは虎次郎と少し似てるのに、と佐為は思った。

「何か言ったか?」
「いいえ」
 佐為は笑った。

 出逢った頃は、虎次郎の幼い頃とはとはまるで違う子どもだと佐為は思った。しかし、そうでもない、と感じることがたまにだが有る。
 それは買ってきた分厚い‘マンガ雑誌’とやらを部屋で読み終えると、直ぐに本棚にしまう時。時々居間のテレビでゲームをすると、終わった後に必ずゲームを操作する機械のようなものを、元在った場所に片付ける時。部屋で着替えをすると、脱いだ服をクローゼットの中に置いてある洗濯物用のカゴにきちんと入れる時。
 この子は部屋を散らかしておくということはあまりしない。それはヒカルが同じ年の友達の家に遊びに行った時に気付いた。初めはその男の子の部屋が特別散らかっているのかとも思った。だが、その後さらに、二、三人のヒカルの友達の家に行って、ヒカルの部屋が一番きれいに片付いているということに佐為は気がついたのだ。もちろん、ヒカルの母親が部屋を掃除にくるのだが、その前にこの子はものを片付けている。
 ヒカルは意外と几帳面なのだ。
 虎次郎は礼儀正しい子だったが、ヒカルはそうではない。言葉遣いがまるでなっていない。きちんとしつけられていない子なのかとも思ったが、ヒカルがさして特別なのではない。虎次郎が優れて品行方正だったのだ。
 そして、しばらくして分かった。ヒカルはとてもよく育てられている。もちろん、いわゆる「優等生」というのではない。字もきたない。勉強も熱心ではない。でもこの子はもっと人間として大切なものをしっかり身につけている・・・と。
 そう、心が優しい。
 虎次郎も優しかった。
 そして、几帳面なところもどこか虎次郎に似ている。

 佐為は懐かしい眼差しをし、微かに口角を上げ、扇の陰で笑んだ。
 
 窓の外には何軒か向こうの家の屋根の上に少しだけ桜の花が覗いている。あんなところに桜の木があったのか、と佐為は思った。
 しばらく佐為は僅かに覗くその桜の花を見ていたが、ふと気付いた。ヒカルはまだクローゼットを開けてごそごそと何かしている。

「ヒカル、なにをしているんですか?」
 佐為は尋ねた。

「片付けだよ。ほら、こないだ卒業式あったろ。オレもう、来週から中学行くんだぜ。だからいい加減小学校のものは整理しようと思ってさ」

「整理する・・・捨てるということですか?」
 
「うん。ほら、これこれ! 一年生の教科書までとってあるんだぜ。いくらなんでも、もういらねーよな。お母さんがとっておけって言うから、ここにしまっといたんだけど」
 そう言ってヒカルはクローゼットの奥のダンボール箱から教科書を何冊か取り出した。

「一年生というと・・・六歳か、七歳の頃ですか。これは・・・『国語』。ヒカルの苦手なやつですね」

「算数も理科も社会も苦手だけどな」
 ヒカルが付け足した。
「埃っぽいな、少し窓開けよ!」
 
 ヒカルはベッドに乗ると、窓ガラスを明けた。すると風がカーテンを揺らして、部屋の中に舞い込んだ。佐為の見ていた一年生の国語の教科書のページがぱらぱらとめくれた。
 偶然開かれたページに、佐為はふと視線を落とした。
 彼は、先ほど新聞を見ていた時のように、床に手をついて見入った。白い頬にひとひらの髪が影を落とし、耳の赤い石が覗いた。
 
「この字は「エ」とよむのでしたよね?」
 佐為が問う。
「それから、このくるっとした字は質問するときのしるしでしたっけ?」

「しょうがないな、もう。おまえ、ひらがなも読めねーのかぁ。そう、それは「え」だし、それはクエスチョンマーク。この前教えたじゃん! 字じゃなくてマークだよ、それ」
 ヒカルがここぞとばかりに大威張りで言う。
 佐為が現れるまで、ヒカルは知らなかった。昔と今とではかな遣いが違っていること、そして昔の日本にはクエスチョンマークもエクスクラメーションマークも無かったということを。

 佐為が、これはどう読むのか? と初めて尋ねたのは学校の廊下に貼ってあった標語だった。「きゅうしょくはのこさずたべよう!」と大きく書いてあった。
 ヒカルは何を言ってるのかと思った。

「『キュウショクハノコサズタベヨウ!』に決まってるんじゃん! おまえ日本人だよな!?」

 よくよく話をきくと、かなの遣い方が昔とは違っていて、佐為には読み辛いのだという。
 この標語も昔だったら「きふしやくはのこさずたべやふ」になるらしい。それに最後につく「!」は見たこともないと。
 ヒカルは言った。
「そう言えば、2年生の時に、百人一首を習ったけど、へんてこな字だったな! 佐為って、そうか、もしかしてあの時代のやつ?」

「百人一首のかるたですね、江戸時代にもありましたよ」
 佐為は笑った。
「『百人一首』の歌は平安の頃に詠まれたものが多くて私が知っているのも、確かたくさんありましたね。江戸時代に『かるた』になっていたのには可笑しくて笑ったものでした」

 というわけで、ヒカルが佐為と出会って数ヶ月経つが、いまだにかな文字が読み辛いらしい。ヒカルが威張れるチャンスなのだ。
 
 すると気にする様子もなく、佐為が言う。
「すみませんが、ヒカル。次のページを読みたいです」

 ヒカルは慣れたもので、「ほらよ」とめくってやる。
 しかし、直ぐに佐為が言う。
「ごめん、ヒカル、この続きを読みたいのですが」

 ヒカルがまためくる。
「ごめん、ヒカル」
「わかったよ」
 ヒカルがまためくる。
「おまえ、何読んでんの? あ、これ、懐かしい。一年の時に習ったやつだ。カエルとガマガエルの話な」

「ガ、ガマガエルですって!?」

「どうしたんだよ?」

「あ・・・本当だ・・・『がまがえるくん』と出てきますね・・・でもこの絵のがまがえるくんは随分愛らしいと思ったものですから、まさか‘あのガマガエル’だとは思いませんでした」

「愛らしい・・? あのガマガエル・・? なんだそれ」

「い・・・いえ、本物は、見ただけで身の毛もよだちますが、この絵のガマガエルなら平気です、はは」
 
 佐為は、それまでの優雅な笑みを崩し、少し強張った笑い方をした。それがどうしてなのかは、数ヶ月後に明らかになったのだった・・・・・・。

 確かに挿絵の「がまくん」ことガマガエルは愛嬌のある顔をしている。佐為も少しして付け足した。
「この絵はなんとも味わいのある優しい絵ですね。心惹かれます」

「この話、懐かしいなぁ」
 そう言うと、ヒカルは残りのページを佐為に読んでやった。
「どう、面白かった?」
「いいお話ですね」
 佐為はとても優しい顔をして言った。
「うん、けっこういい話だな」
 ヒカルは頷いた。

 この話は、こういう話だった。
 がまくんとかえるくんはとても仲の良い友達で、ある日がまくんが哀しそうにしていると、かえるくんが何故かと尋ねる。がまくんは自分に一度も手紙が来たことがなく、手紙を待つこの時間が一番かなしい時間なのだという。それを聞いたかえるくんは家に帰り、がまくんに手紙を書く。それをかたつむりくんに届けてくれるように託す。やがてその手紙が届けられるのを親友のがまくんとかえるくんがとても幸せな気持ちで待つ、というものだった。
 
 佐為はこの話をとても気に入ったようだった。彼は「いい話ですね」と何度も言った。するとヒカルは思い出したように言った。
「そうだ、このシリーズの絵本、お母さんが好きで、一年生の時に、全部買ってくれたんだった。あるはずだぜ。読む、佐為?」
 ヒカルはクローゼットの奥を探った。すると、それは出てきた。
「あった、あった! これだよ。おまえに全部ページをめくってやるの大変だから、オレ、読んでやるよ」
 ヒカルはそう言った。
「いいんですか、ヒカル?」
 佐為はとても嬉しそうな顔をしていた。
 ヒカルは懐かしさと共に読み始めたが、読みながら、知らず知らずにこの絵本の中に引き込まれていった。
 かえるくんとがまくんのお話は、ウィットに富んでいて、アイデアも面白く、どの話も自然に笑みがこぼれてくる。何より、かえるくんとがまくんの友情がなんとも言えないお話だった。
 聞いている佐為と一緒に大笑いをしたり、時にはしんみりしたりした。
 あっという間に四冊あった絵本を全部ヒカルは読み終えてしまった。

「ありがとう、ヒカル。なんて心が温かくなるお話でしょう。とても面白かったですよ。私、感動しました」
 
「うん・・・そうだな。これこんなにいい話だったんだな。おまえのお陰でオレももう一度、この絵本を読めてよかったかも」
 ヒカルはそう言った。

「こんなにいい話だったんだな、って。ヒカル、昔はそう思わなかったんですか?」

「いやさ、一年生の時は、オレより、お母さんが気に入ってたから。それに面白いとは思ったけど、あの頃は、なんていうかさ、ただ面白いって思っただけだった気がする」

「今は、どう感じるようになったのです?」

「う・・・ん、今読んだら、なんかちょっと感動しちゃった・・・かな」

「へぇ、なるほどね。ヒカルが成長した証拠ですね」
 佐為は笑った。

「成長した証拠?」

「このお話の面白おかしい部分だけでなく、優しさや思いやりや切なさを、今のヒカルの方が気付けるようになったのでしょう、きっとそういうことですよ」

「そうかな」
 ヒカルは大きな瞳を佐為に向けた。
 佐為はこくんと頷いた。また髪が揺れて、佐為の白い頬に掛かった。ヒカルはそれを見て何の気なしに思った。

 ああ、なんか綺麗だな・・・。





 やがて幾つも季節が巡った。
 あんなやり取りをしてから、一体何年経ったのだろう。
 今また、桜の花びらが風に舞う季節になった。
 ヒカルは、増えた碁関係の書籍や資料を整理すべく、クローゼットを整理していた。あの時のように、少し開けた窓から、そよ風が舞い込みカーテンを揺らした。
 クローゼットの奥の箱から、懐かしい絵本が出てきた。さすがに小学校の教科書はもう無かった。だけど、この絵本はしまってあったのだ。
 ・・・あの時以来だ、この絵本を手にするのは。
 ヒカルはそう思った。
 絵本を両の手に取ると、ぱらぱらとめくってみては、しげしげと眺めた。何かに神経を集中するように、心持ち俯き加減に瞼を閉じた。そして、また瞳を開くと、絵本を見つめ、片方の指先で絵本の中の文字をゆっくりとなぞった。

「ああ・・・」
 ヒカルは嘆息のような声をもらした。
 そしてごく低く呟いた。
「なぁ・・・今なら、もっと気付いたことがあるよ、佐為。あの頃は思わなかったのに・・・。あの頃は気付かなかったのに・・・。佐為、この絵本、今読むと、何でだろう。凄く哀しくなるんだ。どの話も楽しくて、優しくて、笑えて、ほのぼのする話なのに、何でだろう。哀しくなるんだ。堪らなくな。
 そうだ、今なら分かるよ。いや、今だからこそ分かるんだ。
 この二人、なんだか、こっけいで、優しくて、いつも一緒で、ばかなことで嘆いたり笑ったり・・・。
 そうだ、ほら、まるで、あの頃のオレたちみたいだろ? なっ」
 そう言ったが、少しして、思わず吹き出した。
「おまえをカエルやガマガエルに喩えたら、どんな顔するだろうな」

 ヒカルは絵本をまたクローゼットの奥の箱に戻し、碁関係の書籍や棋譜を片付けた。
 片付けてしまうと、今度はまだ見ていない棋戦の棋譜が載っている週刊『碁』をリュックから取り出した。そして、碁盤と碁笥を部屋の中央に置いたのだった。

 ―終り―
 
 註>
 がまくんとかえるくんのシリーズの、作中に出てきたお話は『おてがみ』という作品です。アーノルド・ローベルの絵本「ふたりはともだち」(文化出版局)に収録されています。他にこのシリーズで「ふたりはいっしょ」「ふたりはいつも」「ふたりはきょうも」があります。
 『おてがみ』は娘の教科書に載っていました。大好きな作品です。