サムフロ視点から見たフロドとサムの関係についての考察
実を言うとフロドとサムの場合は、私はある意やおい系にされても、そう原作を逸脱・・・、というわけでもないんじゃない?と思ったりしています。彼ら(特にサムの方ですが)は自分の感情を異性に対する愛を凌駕するものと気付いていないだけなんじゃないかと真面目に考えるんです。そんな考えを持つに至った経緯についていたって真面目に述べてみます。
『J・R・R・トールキンある伝記』(H・カーペンター著)によると、妻のエディス夫人の胸には夫と親友で『ナルニア国』の作者ルイスの間にある、自分の入り込む余地のない程の親しさに対する嫉妬が少なからず存在していたといいます。ルイスとの関係は特に強い友情で知られていますが、これは彼に限ったことではなく、教授の男友達たちとの強い絆や関わりは生涯に渡って大事にされていた傾向を感じます。しかし教授自身はといえば同性愛に対して極めて関心が薄く、その概念自体大学に入学するまで存在すらを認識していなかったほどです。ゆえに自分とルイスとの極めて親しい関係を妬み心から「同性愛」と揶揄されることにも当然ながら激しい嫌悪感を覚えていました。
さらに同著の中ではサムのモデルが、第1次世界大戦中に知った下士官や従卒たちの面影だったことを伝えています。
「トールキンは「兵たち」、(中略)下士官や兵隊たち−をずっと尊敬していた。(中略)軍隊組織に阻まれて、将校は兵たちと親しくなることはできなかったが、それぞれの将校には従卒がつき、オックスフォードのスカウトのようなやり方で将校の装具に気を配り、将校の面倒を見てくれた。これを通してトールキンは数人の男達を非常によく知るようになった。『指輪物語』の重要な登場人物の一人について、彼はずっと後にこう書いている。「わが『サム・ギャムジー』は、実はイギリス兵の、一九一四年の戦争で知った兵たちや従卒たちの、おもかげを伝えたものである。彼らは私よりずっと立派だと今でも思っている。」。(同著より)
サムのフロドに対する忠誠と献身は下士官や従卒たちと将校との主従関係、上下関係を模したものだったという色合いが濃いということでありましょうか。対等に相対する人間関係というよりはヒエラルキーの上下に位置する人間同士の間の尽くす側と尽くされる側の関係であったわけですね。
こんな点を検証してみても、教授には「同性愛」という概念が少なくとも創作に何かしらインスピレーションを与えた、という可能性は極めて薄いと感じられます。つまり、教授は同性の間にも異性間と同様の愛が存在しえることを意識しなかった、−否、サムがフロドに抱いた感情の別の呼び名を知らずにそのような種類の「愛」を描いてしまっただけではないのだろうかという考えがつい浮かんでしまうのです。名前を付けたり、カテゴリーに分類したりするのは後からなされるものであり、人間の抱く「愛」という感情と働きは普遍的なものであるはずですし・・・・・。
サムの想いは主人に対する献身であると共にある意、全てを包括するような「愛」ではないのかと・・・・。サムは実際、内側から光が透けるように見えるフロドを見て、‘ I love him’
(「おら旦那が好きだ」) と言います。この想いはどのように位置付けたら良いのでしょうか。(好き、という感情をわざわざ解析して位置付けするなどナンセンスかもしれませんが、あえて追及したい、というのが「サムフロ視点」なわけです。) 「敬愛」や「友情」や「崇拝」や「忠誠」?あるいはあいまいで広義な「人間愛」?どれも単純で何所か役不足に思えるんですね。それらに加え、さらには恋愛感情さえも包括するような「他者への愛」といってしまえば却って私には自然に思えます。
ただ、純朴で真面目なサムはフロドに対してこの種の感情をも抱くということは全く彼の理解を超えるところにあったかもしれません。彼自身、自分が抱くフロドへの愛の種類を完全には理解できていなかったんじゃないかと思ってしまうんです・・・・。教授にとってその呼び名が意識の外にあったように。
もしサムがどこかで気が付いていれば、彼らは一線を超えていたかもしれません。
なーんて・・・・。ともあれ、サムは世界を救うのだとか、そんなグローバルな視点からフロドに追従したのではありませんでした。フロドでさえ、quest(探索の旅)に望んだ元の理由はホビット庄を守りたいというもっとささやかなものでした。サムに至っては更に個人的理由です。すべては「フロドの為」という単純明白なものです。最も危険な探索行を成し遂げた原動力はフロドへの愛でした。彼は常に「旦那のサム」でありつづけます。滅びの亀裂までは・・・・。彼のフロドへの愛情は時に非常に賢い選択や勇気ある行動を生みます。シェロブに刺されて仮死状態に陥ったフロドを前にしたサムは絶望のふちでさえ、賢明な決断を下します。主人の代わりに使命を遂行しようとするのです。そして、私が最もサムに驚嘆するのは次の点なのです。ひとつの指輪を嵌めたサムは「今紀最大の英雄・強者サムワイズ」の幻影を垣間見ることになりますが、その指輪の闇の誘惑さえ一瞬にして振り払ってしまいます。−フロドへの愛情から我に返るのです・・・・。当のフロドが深い闇の後遺症に苦しむ様とは対照的とさえ感じます。サムは遂に最後までフロドの苦しみを本当に理解することが出来ませんでしたし、フロドの内面的な昇華の表れであるゴクリへの哀れみもまた完全に理解することは出来ませんでした。(The
Letters of J.R.R.TolkienのNO246の書簡中に'In any case it prevented him
from fully understanding the master he loved,...'とあります。)ここが唯一サムにとっての誤算だったかもしれません。(もちろんサムの意識外のことですが。) 同じ指輪所持者となりえましたがフロドのような苦しみに苛まれる事はないのです。全身全霊をかけて指輪と闘い、自分自身を消耗し尽くしてしまったフロドは結局サムからもその苦悩を共有されることは無く完全に孤独となりました。もはや彼の負った傷は西方へ旅立つより他に癒される道は無く、二人の道は別れてしまうのです。しかし、別れたように見えた二人を繋いだ「指輪所持者」という共通の運命が再び二人を引き合わせたに違いないと信じています。
'your time may come'(「お前の時も来るだろう」)フロドは最後にサムにそう言いました。この時から15年後を描いたEpilogue(HoMEシリーズより)という草稿にはこの言葉をそっと胸にしまい続けるサムの姿が描かれています。孤独であったフロドもまた、たった一つの我がまま、あるいは執着として、サムがいつか自分のもとに来ることを望んでいたのではないかと思えてなりません。
やはり、原作のサムはフロドを全ての意味で「愛して」いたのです。−全ての物語からそう感じます・・・・。そういう解釈があってもいいんじゃないかと思っているんですよね〜。
だから、サムフロは私にとっては原作準拠に近いファンフィックだと位置付けているわけです。