波音 −キリス・ウンゴルの塔
全く光の差さない闇とはあるものだと、サムは初めて知った。
キリス・ウンゴルの塔のてっぺんの小さな部屋でサムはそう思った。フロドの目は憎しみと怒りで満たされ、サムの心に鋭い刃となって突き刺さった。
この冷たい夜に夜明けなど来るのだろうか。
光に満たされた新しい世界など来るのだろうか。フロドはすぐに我に返って詫びたのに、サムは目の前が絶望的に暗くなるのを感じた。
すべてを飲み込んでいるつもりでもやっぱり旦那にあんな顔をされるのは辛い・・・。
フロド様の、普段は暖かくて優しい目がおらを本気で睨んでいた。
本気でおらを疎ましくお思いだっただよ・・・。
ああ、なんてことだ。旦那・・・・。
あなたに冷たくされることがこんなに辛いなんて。
ナイフで刺されたように心の臓が傷むだよ。フロドは力なく崩れ、サムに背を向けて蹲った。
自分は今何をした・・・?
「盗っ人」と言ったのだ。
誰に・・・?
サムにだ!。・・・・命がけでわたしを助けに来てくれたサムにだ。
おお、わたしはもう狂っている・・・。
指輪はこんなにも恐ろしいのだ。
そして私は愚かだ。
闇の力が確実に私を砕いていく・・・。音を立てて。
はっきりと分かる。
これが、これが指輪の恐ろしさなのか。
いや、違う。恐ろしいのはわたし自身だ。
指輪を誰の手にも渡したくはない。
指輪は私のものだ!誰も私と指輪の間に入って来てはいけない!
立ち去れ。そしてひれ伏すがいい。
・・・・違う!
違う!!そうじゃない。ガンダルフを思い出すんだ。
彼はなんと言った。
何と・・・・・・。
ああ、助けてください!。何故あなたは闇に落ちてしまったんだ?サムはたまらなかった。
酷い拷問を受けたフロドのその体は悲惨で痩せていた。
痛々しい・・・・。
旦那が見せた憎しみの閃光は一瞬にして消えた。
指輪のせいなのだ。
指輪がだんなを狂わせている。
だがそれがどうだっていうのよ。おらには関係なんかあるものか。
おらにとっては、フロドさま。フロドの旦那。おらの旦那。あなたなんだ。
しかし、今のサムにはもうひとつ困ったことがあった。
うな垂れた頭から巻き毛が垂れたフロドの肩はがくりと落ち惨めだった。にも関わらず、彼の顔形が整って美しいのと同様、それは元より整った肢体だったのである。
フロドは決して筋肉質でも秀でてた肉体をしているというのでも無かった。
が、彼はホビットにしては背が高い方で、サムはいつも心持ち彼を見上げていた。
背の高さは手脚の長さにも比例している。大概のホビットに比べいくらか細身でバランスがいい。
均整がとれている。まさしくその言葉どおりであり、しかもフロドは色白で綺麗な肌をしていた。そして普段は服に隠されている部分についてもそれは同じだったのである。
サムはフロドの顔が好きだった。
大きい瞳に長いまつげが影を差し、眉は賢そうなシャープなラインを描いていた。
鼻筋は通り、おおきくも小さくもなく顔全体の印象に品を与えていた。
フロドの顔にやはりちょうど良い大きさをして、口角の上がった唇からはいつも穏やかで済んだ声が漏れた。
旦那は綺麗だ。
ホビットだから背がちいせえのは仕方無いにしてもそれでも旦那はエルフの中にいたって見劣りしないくらい綺麗だ。サムは裂け谷にいた頃から本気でそう思い、それを誇りにも思っていた。
今眼の前に見ているフロドの旦那は傷を負って悲壮だっていうのに、それでも尚サムには美しく魅力的に映るのだった。
馬鹿め!おい、サムっ!しっかりしろ。
こんな時に何を考えてるだ。サムはさっき倒れていたフロドを胸に抱え上げた時のことを思った。ついさっきはあんなにも自分の腕の中で安心しきっていた主人のぬくもりが恋しかった。再びフロドの肌に触れたかった。先ほどの幸福を思うと今の状態がひどく辛く思えた。
−フロドに酷い言葉を浴びせられたことによってその渇望は尚いっそう強さを増している。フロドが一瞬示した憎しみの炎はサムの思慕の念をますます募らせるばかりで、それはサムにとって二重の苦しみに他ならない。
サムはたまらずフロドの背を抱き締めた。しっかりと強く。
フロドは羽交い絞めにされて身動きがとれない。
旦那をなんとかして繋ぎ止めたい。
何故だろう?旦那はどんどん透けていくような気がする。
そのうち消えてしまうんでねえだか。
そんな寄る辺の無い不安感がどこかで少しづつ広がっていく。
サムはフロドの肩に頭を垂れ、感情の迸りに任せて強く囁いた。
「一人じゃねえです。おらがいます。旦那!
あ・・あ、おかわいそうに!こんなに苦しまれて。
指輪なんかいらねえです。おら旦那がご無事ならそれでいいのです。
おらなんかじゃ大して役に立ちませんだ。分かってます。
だが、おらにだって少しはだんなをお助けすることは出来ますだ!
おら、死ぬかと思いました。旦那はてっきり殺られちまったのかと・・・。
だんなが居なくなったら生きていかれません。それが分かりましただ。フロドの旦那。世界は真っ暗になっちまいましただ。ずっとあのままだんなの体を抱いてお側に居たかったですだ。しかし、そうじゃねえ。おらは気が付きましただ。旦那の為にはそれをお預かりしていってお側を離れなければならないのだと。どんなに辛かったかおわかりになりますだか!?。旦那を、おらの旦那をあんな恐ろしいところにたった一人残していくなんて。おら、なんとかしてもし旦那の代わりにそれを始末することができたら、また旦那のところへ戻ってくるつもりでしただ。どうやっても旦那を探し出して。そしてもう二度とお側を離れない。そう思いましただ。
それが、またこうしてしかも生きてる旦那にお会いできた。おらなんて言っていいか分からないくらい幸せですだ。さっきだんなを見つけたとき、おらは、もうどうなってもいいと思ったですだ。あんまり嬉しくて、嬉しくて・・。もう決してお側を離れません。おらの心臓が破れねえ限りは旦那とづっと一緒に居たいのです。どうかおらをずっとお側に置いてくださいまし。フロドさまぁ・・。う・・う。」
サムの言葉は慈雨のようにフロドの体に注がれ染み込んだ。フロドは体の痛みも心の痛みもすべて和らいでいくような心地よい感覚に酔った。
このままづっとこうしてサムの腕の中で安堵していられたらどんなに幸せだろう。
いつまでも酔いしれていたい。
しかしフロドはようやく意を決したように口を開いた。
「サム、許しておくれ。」
フロドはやっとそう搾り出すように言った。
「サム、私の最も親愛なるホビット。今もそう思ってるよ。なのに、ごめんよ。お 前を傷つけてしまった。もう自分をコントロールする事が出来ないんだ。」
サムはそう言われて嬉しいような哀しいような気がした。しかし心の傷はフロドのそんな感謝と謝罪の言葉だけで、それだけで充分癒されるのだ。
良かった。旦那はやっぱりおらをちっとは大事に思っててくださるちゅうことだ・・・・。
「すまない、体が傷むんだ。少し腕の力を緩めてくれないかね。」
フロドは申し訳なさそうにそう言った。
サムははっとしたようにフロドを強く抱き締めていた腕を彼から離した。
「す、すまねえです、旦那!おかわいそうに。塗って差上げられるような薬も薬草もここには何もねえですだ。」
サムは何も出来ない自分がもどかしいというように切ない顔をした。
「いいんだよ、サム。お前の心がわたしをどれだけ癒してくれるだろう。お前が居てくれればじきに良くなるさ。」
「だんな・・・・」
サムもまた意を決したようにフロドから離れた。フロドの裸身を見たのはこれが初めてではなかったが、体の痛みと疲労にひしがれる以外はフロドは頓着なく体を隠そうとはしなかった。サムの前に自身の裸身が誘惑であることを彼は意識してなどいない。フロドから手を離したもののサムは目のやり場に困った。確かにこれ以上、何も身に付けていないフロドの傍にいて、彼に触れずにいることに自分は耐えられそうにないと思った。サムは次にフロドの為にしなければならない事を行動に移そうと決心した。
フロドに説明するとはしごで階下に降りようとした。しかし、その時サムは突然腕を捕まれた。
フロドは上半身だけこちらに身をひねり、サムを止めたのだ。サムの側に腕を付いてサムの腕を掴んだもう一方の手で彼を自分の方に招き寄せた。
「サム」
フロドはサムにキスした。
サムの唇をかすかにずれて唇の上端から頬の間くらいフロドの唇が当てられた。サムにとってはそれは羽毛でくすぐられるような感覚であり、焦らされた時に感じる痛痒さであった。
「わたしは行くよ。サム。この体が動く限りはね。そしてこの心が完全に砕けてしまわないうちは。ガンダルフの声が聞こえるんだよ。わたしを呼んでる。”サンマス・ナウアに行くのだ”と。”わしの声が届く限りは歩めよ”と。だからわたしは行くよ。くじけそうな時は、サム。お前が助けておくれ。お前が杖になっておくれ。そしたらわたしはもう少しだけ力を出せるだろう。もう少しだけ遠くへ歩めるだろう。私にとってお前とはそうした存在なんだよ。感謝しても感謝し尽くせないよ。もしわたしたちがこのわずかな望みをかなえることが出来たら、それはみんなお前のお手柄だよ、勇者サムワイズ。・・・・・お前が居てよかった。」
そう言ったフロドの瞳から一筋の涙が伝った。
あ・・あ、なんていうことですだ、だんな。
そりゃ、違います・・・。サムは感動の余り全身がかーっと熱くなるのを覚えた。
そうなのだ。フロドさまはいつもこうなのだ。サムの誇る主人が再びそこに居た。
サムはまたフロドの内側から光がさすのを感じた。
関を切ったように今度はサムがフロドを抱きすくめた。拷問と毒針の痕が痛まないように注意しながらも情熱の迸るままにフロドに熱い口付けを落とした。いつ果てるとも知れぬ長い長い口付けだった。
ようやくサムは名残惜しそうに軽いキスを幾度も落とすと唇を離した。「サム、いったい何倍にして返してくれたんだい。」
フロドは軽く微笑んだ。
「フロドの旦那、おらあなたを愛しています。」
「それはだんなが誰よりも強くて賢くて誰よりも勇敢だからだ。おらなんかが旦那の杖にでもなれたら、そしたら中つ国一番の光栄な従者になれますだ。
おらだんなが好きですだ。」
それは涙声だった。切なさを音にしたら、まさしくこの声だろう。
「私もだよ。」
しかしフロドは静かにとても落ち着いた眼差しでにっこりと笑ってそう返した。
自分の矢も楯もたまらないほどの熱気がフロドに当ると不思議と吸収され冷えて露となりすべり落ち地面に染み入るようだった。もはやフロドは半分この世の者ではなく、霧に包まれたような美しさを称え、確固として動じない石のようでありながら、また同時に掴もうとしても掴めないかげろうのようだった。
不安は消えない。だがサムは、今はそれでも充分だと思った。
フロドと今は二人っきりなのだ。邪魔者は消えた。
大好きな主人は自分以外に誰も頼る者は無いのだ。
フロドにとって、今は自分だけが意味のある存在だ。
サムはそんな優越感と独占欲に束の間の幸福を覚えずにいられない。
それはかつてない幸福だった。
それからサムはフロドに必要なものを取りに降りていった。
いよいよ暗き国への二人の最後の旅が始まろうとしていたからだ。
終わり映画FOTRのエンドクレジットで流れるエドワード・ロスの美しいボーイソプラノの歌In dreamsに少しだけインスパイアされました。あの歌詩はいろんな捉え方があると思います(いろんな説を目にしました。) 実際わたしも最初から”I hear a call Calling me there”のIがフロド、Callの主がガンダルフ、thereがサンマス・ナウアと思ったわけではありません。最初はIがサム、Callの主はフロド、thereは??(西とか?)なんて思ったりしてました(かなり無理が^^;)。でもこの歌が”may it be"よりも好きなこともあり、少しよく考えてみてこうだったら、と当てはめたのが先にあげた説で、結構今では氣に入っています。