贈り物

 

「殿、あの方の様子に何かお感じになりませぬか?」
 私は王に問い掛けました。
「あの方?・・・誰のことを話しているのだ。王妃よ」
 何のことか見当は付いておられたのでしょう、けれど殿は私に聞き返しました。
「指輪所持者です。フロド・バギンズのことです、殿。」
「・・・・フロドが、彼がどうしたというのだ? 」
 殿は昨日のめでたき婚礼の宴のことを思い起こしていたようでした。フロドは他のホビット達やガンダルフ、ギムリ、レゴラスとともに心から私達を祝ってくれていました。殿にとっても旅の仲間は格別の存在です。彼らからの祝福を王は得難い幸福のように心から喜んでいました。陽気なホビットたちは笑い合ってお酒を酌み交わし、満ち足りた様子をしていました。特にピピンやメリーなどは今や堂々たるものだったのです。皆、旅の仲間に敬意を払いました。なかんづく小さい人たち、そしてフロドに対しては誰もが尊崇の眼差しを贈り、篤い待遇でもてなしていたのです。これは王である殿が促していることでもありました。
「何かとは、・・・一体どんなことであろう。王妃よ。ウンドミエル?。」
 殿は哀しみの色を浮かべた瞳で私を見つめました。
「フロド・バギンズは、彼は、私が以前裂け谷で見たときの彼ではありませんでした。わたしの、このエルフの目には彼は以前とは別人のように映ったのでございます。」
「王妃よ、では私の心配していたことは的中したというのだな・・・。」
 殿は深いため息を漏らしました。
「ガンダルフと鷲たちが彼らを運んできた時、フロドは酷い傷を負っていた。彼は何日も目を覚まさず眠り続けた。私はずっと彼を看ていたのだ。」
「解っておりますとも、殿。殿が深々の御心を以ってフロドの治療をされたこと。しかし、彼の負った傷は偉大な王の手を以ってしても癒しきれぬものであったのでありましょう。」
 私はそう言うと涙が溢れました。
 殿は私の手を握り締め、私の足元に跪きました。
「ウンドミエルよ、エルフとはなんと深く、真実を見通す目を持っていることであろう。そなたの嘆きは私の心も哀しみで満たす・・・・。」



私は王の家の前の庭に立ち白の木の苗木を見つめていました。

 ホビット。あなた方の種族はかつて中つ国の歴史にも、またアルダの何処にも名を轟かせたことはありませんでした。しかし、今、中つ国で最も小さい種族の貴方が歴史を動かしました。避け難い闇を追い払ったのです。こうして、殿はアルノールとゴンドールの統一王国を作り、再び、人間の御世がやってきました。ヌメノールの血脈にエルフの命が新たに注ぎ込まれ何代にも渡って受け継がれていくのです。
 やがて父上が、そして全てのエルフが中つ国を去って行くことでしょう。私だけが船に乗る事はありません。私は永遠に至福の召喚を拒んだのですから。殿とともにこの地に留まることを選んだのです。私はルシアンの道を辿ります。
 中つ国から最後の船が出奔しようと、我らの種族の血と、私に流れるメリアンの血は、永遠に中つ国に留まります。私はその定めを喜んで受け入れましょう。
 しかし、フロド・バギンズ。今貴方の瞳の奥の闇が私の心にも暗雲を広げます。
 裂け谷で会っただけの貴方・・・。言葉さえ交わしませんでした。しかし、私は見ていました。貴方は殿と私の運命をも握っていたのですから・・。遠く離れ、荒野をさまよっておられたであろう時も、貴方のことを祈らずに居られなかったのです。

 あなたは裂け谷での父上の御前会議でこう言ったと伝え聞いています。

−私が指輪を持って行きます。でも、わたしは道を知りませんが。−

 私はあなたならそのように名乗り出られるのではないかと心中で感じていました。裂け谷に瀕死で運び込まれたあなたを私の父が癒していた時、私は傍らであなたを見つめていたからです。あなたはもちろん知ろうはずはないけれど。あの時私は眠っている貴方を光溢れる杯のように感じました。他のホビットには感じなかった光です。私は貴方の胸のうちにある決意を見たのかもしれませぬ。あなたはそこまで来た道のりを再び逆の方向へ通ることを考えていませんでしたね。故郷には戻れぬ、と。それでも良い、と。それでも護りたいものがあるのだ、と。私は並々ならぬあなたの心持に触れて胸の奥底が震えました。今はもうエルフの中にもそのような強い意志、中つ国の同胞への強い愛を持つ者はありません。我らの時は終わりを告げていたのです。貴方から感じた光はもしかしたら、我らの愛する祖父の星、中つ国を照らすエアレンディルの輝きだったのかもしれません。遠い昔、エアレンディルは中つ国を救う為に禁断の航海を冒しヴァラールの裁きを受けました。その結果、二度と中つ国へ戻ってくることは許されませんでした。しかし、彼のその航海によってモルゴスの悪から中つ国は救われたのです。貴方に光を感じたのは伝説のエアレンディルの魂−同胞への強い愛を垣間見たからなのかもしれません。
 会議での決定を聞いても私は少しも驚きませんでした。指輪はあなたがこれから先も担うであろうこと、すでに解っていたのです。殿が同行するのは頼もしいことでした。私は祈りました。殿が貴方を護ってくださるように・・・。

 しかし、再会したあなたを見て私は胸が締め付けられるように痛くなったのです。意識しようとしなかろうとも、あなたが護ったのはホビット庄だけではありませんでした。私と殿が添い遂げ、殿の御世がやってきたのです。殿と出会ってから長の歳月が既に過ぎていました。殿ご自身にさえ、成し得なかった大事業です。殿にはあなたの道のりを助け護る役目しか与えられていなかったのですから。ミスランディアも、父上も、そしてロリアンの奥方も、ローハンの騎士もゴンドールの勇士も、皆同じです。他の全ての者はあなたの隠密の旅を助ける役目しか与えられませんでした。誰一人あなた自身の役目に取って代わることは出来なかったのです。
 私には強い願いが芽生えていました。誰よりも深い心労を尽くして、中つ国を救ったあなたに、殿の輝かしい御世を招いたホビット庄のフロド・バギンズに、何か報いたいと。殿の命運と私の運命は表裏一体、あなたに掛かっていたのです。
 しかしそれだけではありませんでした。裂け谷であなたを一目見たときから、私はあなたの不思議な光に誘われ心惹かれていました。あなたの面影が私を捕らえて放しませんでした。フロド。あなたの苦しみを和らげる手立ては何か無いものでしょうか。
 こんなに想っているというのに、そしてこんなに近くに居るというのに私には何もできないジレンマに苛立つより他ありません。

 そうしているうちに時間が無情にも過ぎていきました。季節は初夏から盛夏に移り、否が応でも別れの時がやってきたのです。
殿が言いました。
「王妃、フロド達に何かゴンドールの重宝を贈りたいのだが、何が良いであろう?ヌメノールの名剣か盾、それとも鎖帷子が良いか・・・。」
「殿、殿の彼らを大切に想い、功を報いたいというそのお気持ち、私は心よりご立派と思います。3人のホビットは心からそれらを喜んで受け取るでありましょう。しかしながら、フロドだけはそうした贈り物では喜ばぬのではありますまいか。何か他のものがよろしかろうと思うのございます。」
「そうか、忘れていた。フロドにはミスリルの鎖帷子と、つらぬき丸があったのう。あの素晴らしい宝に勝るものはなかなかありはしない。」
 殿は笑いました。
「いいえ、殿。そうではありませぬ。フロドは例えそれがドワーフの王の贈り物であってもエルフの巧みの技を尽くした名剣であってももう二度と身につけたいとは思われないのではないでしょうか。あの方にとっては『ビルボの愛する品』ということ以外にいまや意味を持たぬ動具なのです。」
 殿は静かに聞き、私の声音に感心したように頷きました。
「確かにそうかもしれぬ。フロドに武器は似合わぬな。しかし、代わるような財宝も喜ぶまい。」
「その通りでございます。フロドには形あるものは意味を持たぬのです。」
 殿は困った、というように頭を振りました。
 私はその時、はたと思いついたのです。これ以上に無いほどぴったりの贈り物を。
 そして、そうこれは私が彼に直接話さなくてはならないことです。彼と話す最後の機会。遂にその時が到来しました。エルフは的確に「時」をつかむ者です。この時を逃しては一生後悔するでしょう。私は深い決意を込めて殿に申し上げました。
「殿、以前、私が殿に差し上げたエルフの白い石のペンダントを、あれをどうかフロドにお譲りになってはくれませぬか? ここには白の苗木も育ち、私も殿のお傍にお仕えしております。今はフロドにこそ最も必要なものでございます。どうか、私の願いをお聞き入れくださいませ。」
「判った。そなたの言うことなら、正しいであろう。喜んでその通りにしよう。」
 殿は聡明なお方です。私は殿との愛を護り続けていくことを心深く誓いました。
 
 しかし、本当の贈り物はもっと大いなるものだったのです。これは殿からではなく、私からのものでした。フロド、どんな財宝も権力も武力も欲することの無いあなたに報いるに足る真の贈り物です。しかし、これはミスランディアに、そしてロリアンの奥方に、力を借りねばならないでしょう。私にはそのような力も無ければ、今やヴァラールの恩寵をも捨て去った者なのですから・・・。けれどもこれが私に出来る最大のお返しです。あなたが私にくれた贈り物への。あなたはそこに渡るにふさわしい魂の持ち主なのですから。

 やがて、旅の仲間は解散し、皆それぞれの故郷に戻っていきました。
2年の歳月が瞬く間に過ぎ、父上とともにどうやらフロドも灰色港から船出するという話を伝え聞きました。
 そして、そんな折、一通の手紙が私の元に届いたのです。差出人の名を見て私は心が震えました。

 アルウェン・ウンドミエル殿

 突然のお手紙お許しください。これを最初にして最後に貴女にお便りいたします。私は明日、ホビット庄を発ちます。貴女様の御心遣い、心より感謝しております。
 私は本来貴女が行かれるはずだった浄福の国へ参ります。そして貴女は私が暮らすはずだった中つ国の未来をご覧になることでしょう。
 私はお察しの通り、癒し難い深い傷を負いました。暗く孤独な夢に苛まれる時、貴女と王がくださった白い石が私を光の元へ繋ぎ止めてくれました。しかしながら、ああ、貴女の贈り物に報いるには余りに無礼であり、矮小な言葉をどうかお許しください。
 私は正直に申し上げれば、ミナス・ティリスであなたに最初に港に行くことを告げられた時、あなたがどれほど深い御心で申し出てくださったか解らずにおりました。大変申し訳ないことです。私は、私は、・・・あの時船に乗りたくはなかったのでございます。ああ、本当に正直に申し上げますと、許されるものなら愛するホビット庄で、袋小路で緑と平和に満ちたこの地で、どんなに暮らしたかったことか。ホビット庄!、私の愛する大切な故郷。 私とは反対に中つ国に留まる貴女がどんなに羨ましかったことでしょう。 
 しかし私は、ゆっくりと悟りました。中つ国ではもはや自分を癒すことの出来る場所が何処にも見出せないことを。そして貴女の贈り物の大きさを。
 今はこれ以上無いほど満ち足りております。結局は私が望んだ通りになりました。ここがこれからも愛する土地であり続け、愛する者達がそこで笑っていられるなら、この風景の中に私は必要ないのです。私は喜んでこの地を去りましょう。私はやれるだけのことをしました。今初めてそう思えます。サムやメリーやピピン、そして多くの善良な愛すべきホビット達、皆が平和に幸福に暮らすでしょう。だから満足なのです。貴女の贈り物を喜んで受け取ります。私などには本当に勿体無い尊い贈り物ですが。
 そして・・・同時にささやかな致し方ない代償を悟りました。同胞から別れる辛さを。貴女の選んだ艱難辛苦の道を想い、頭を垂れずにいられません。
 さようなら。願いが今ひとつ叶うなら、旅立ちの前に今再び貴女と王にお会いしとうございました。
 どうか貴女の元にいつも星が輝きますように。

 フロド・バギンズ ホビット庄 袋小路

 私は次から次から涙があふれ出るのを抑えることができませんでした。丁寧な美しい書体、手紙はエルフ語で書かれていました。私は大切に便箋をたたむと封筒に戻し胸に握り締めました。
 いつか私にも真の試練の時がやってくるでしょう。その時は、フロド、あなたのことを思い起こすでしょう。私の代わりに常しえの国へ赴いたあなたを。中つ国の全ての財宝を我らに譲って去っていったあなたを。
 ナマリエ、フロド・バギンズ。

 あなたの上にこそ星が輝き続け、常しえにあなたの道を照らしますように。

 

終わり

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