月明かり
「投了〜、投了〜!」
ジャラジャラ・・・・。碁石が盤の上に散らばる音がオレの部屋に響いた。
まだあどけない丸い頬をした「あいつ」は、大の字になって寝転んだ。
「うふふふ。」
「あー、もう何でおまえには勝てねーんだろうな?。」
「ヒカルが私に勝とうなんて一万年早いですよ。」
「へん!・・・・あ、そうだ、佐為。今日の碁どうだった?。」
「院生の高倉とでしたね。悪くはありませんでした。ただ、彼相手なら、もう少し踏み込んだ攻めでも良かったような気がします。
あの者は、院生の順位もヒカルよりは下なのですから・・・。その前の相手、大島とかいう者との手合いの失敗を引きずって、臆病になっているんじゃないでしょうね?。」
「そんなことないよ。ただ・・・・。」
「ただ・・・・なんですか?。」
「まだ少しお腹の調子が悪いんだ・・・。」
「あ、ヒカル、もしや・・・。対局中に苦虫噛んだような顔をしてましたけど、あの時お腹が痛かったんでは・・・?。」
「うん、まーな。」
「もう〜!どうりで、ヒカルのあの辺りの手は精彩を欠いていると思っていたんですよ。次は、いよいよ伊角さんとなんですから、お腹は完璧に治しておかないとダメですよ!」
「分かってるよ!。伊角さんとの対局は9月23日の土曜。今日は火曜。4日もあるんだから、まさか土曜までには治ってるさ。」
「治ってるさ、じゃなくて、治しなさい。そういえば昨日の晩もヒカルは布団を剥いで寝ていました。健康管理も碁打ちの務めのうちですよ。虎次郎は、お城碁の前は特に生活を正し、体調にも十分に気を配っていたものです。」
「悪かったな、オレはだらしなくて!。気が付いてんなら、掛けてくれればいいじゃん、佐為の意地悪!。」
「・・・・・。」
「あ、そっか、掛けられないか。ごめん。」
幼い「あいつ」は頭を掻いた。少し悪かったという顔をして。
「なーんか、直ぐ忘れちゃうな。佐為が幽霊だって。」
しかし、「あいつ」は直ぐに屈託の無い明るい瞳をしてそう続けた。
「あ〜あ、疲れた。今日はもう寝る。」
そう言うと、「あいつ」はベッドに横になった。薄い夏掛けの布団はお腹に抱えたけれど、膝から下は布団から放り出したままにしていた。
「おやすみ、佐為。電気消すよ?。」
「おやすみなさい、ヒカル。でも、もうちょっときちんと布団を被りなさい。」
「だって暑いんだもん。もう9月も後半なのに、まだ蒸し暑いしな。クーラーつけよっかな。・・・あ、はいはい、分かってるって。クーラーつけて寝るなんてもってのほかって顔してんな、おまえ。あはは。じゃ、おやすみ、佐為。おまえも早く寝ろよな。ほら。」
そういうと、ごろりと「あいつ」は窓際の方に転がった。
しばらくすると、規則正しい寝息がオレの部屋に響いた。
ああ、そして、夜中にふと目覚めたんだ。何でだろう?。
オレは、寝返りを打って、あいつがいるか確かめた。
ふいにオレが振り向いたから、あいつは驚いた顔をしていた。
そして言ったんだ。あの柔らかい声で。
「どうしたんですか?。ヒカル。目、覚めちゃったんですか?。」
「おまえこそ・・・。起きてたの、佐為?。」
オレは目をこすった。
あいつは、オレのベッドの上に優雅に横たわって、自らの腕を枕にしていた。
カーテンの隙間から、月明かり?いや街灯の明かりだよな・・・。うっすら光が差し込んでいる。あいつの陶器のような透き通った頬がぼうっと蒼白く照らされていた。
「ええ、起きていました。ヒカルに、一番最初にこう言う為にね。」
そう言うと、あいつは妖艶に微笑んで、オレの顔を覗き込んだ。
「お誕生日おめでとう、ヒカル。」
頭上から降ってきた声はまるで羽毛のように柔らかくて暖かくて涼しくて・・・・綺麗で滑らかで、優しくて・・・・。
ああ、揺りかごってこんな風に揺れるんだろうか。
子守唄ってこんな風に耳に心地よかったのかな・・・・・。
オレは再び眠りに落ちた。今度は、あいつが居る方を向いて布団を抱えた。彼の胸の辺りに顔を埋めて。
眠りに落ちたはずの幼い「あいつ」。
「あいつ」は深く眠って気づかない。でもオレには見える。
あの優美な白い手が、すやすやと眠る「あいつ」の髪を撫でるのを。
そして時折、幼い額に口付けるのを。
そして、夜が明けて、朝が来て、学校に行って、オレの誕生日を覚えていた幼馴染の少女や、何人かの女子に「おめでとう」と言われ、綺麗に包装されて、リボンの掛かったプレゼントを貰った。人の誕生日を気にするのなんて女子だけだ。男子はいつもの通り。「おはよう」で始まって、「じゃあな」で別れる。
帰り道で、あいつが「開けてみましょうよぉ、ヒカル!」とうるさい。だから、歩きながら、貰ったプレゼントを開けてみた。あかりのプレゼントは手作りのクッキーだった。ちょうどお腹が空いてたから歩きながら一気に食べた。横では、「行儀が悪い!」とあいつがさかんに怒ってたけど。
他の女子・・・となりのクラスの山下さんのは、犬のぬいぐるみだった。これをどうしろってオレに言うんだろう?。でも、あいつが「可愛いですね、ヒカル!」って結構気に入ってるから、ま、いっか。
もう一つ・・・・これは、3年生の先輩からだった・・・・は、ハンカチだった。これが一番実用的だな。ハンカチ検査とかたまにあるしな。でも、なんで話もしたことのない、3年の女の先輩からこんなの貰ったんだろう?。よく分からなかったけど、気にしなかった。横からは、「ヒカルも隅に置けませんね!」と何故か、少し冷たい視線を感じたのは気のせいだっただろうか。
家に帰ると、さっそくあいつと碁を打った。対伊角戦に向けて気が抜けない。あいつはいつもより張り切ってる。よし、オレだって!負けてたまるか。
夕飯はいつもどおりだった。けど、違ったのはその後、ケーキが出てきたことだった。毎年恒例だから、別に驚くことじゃない。
お母さんが駅前のケーキ屋さんで買ってくる4号のケーキ。ちゃんといまだにチョコのネームプレートが入ってる。さすがに恥ずかしいから、もう蝋燭は灯さないけど。ケーキは結構好きだ。やっぱり美味しい。それから、お父さんとお母さんからと言って、ナイキの靴。これは前もって聞かれた時に言っておいたんだ。
「ありがとう!」
オレはお礼を言って、ケーキをあっという間に平らげると、急いで2階に上がった。
「また続き打とう!佐為。」
「ええ。」
あいつはにっこり微笑んだ。
一体何局打ったんだろう。オレはいい加減、へとへとになってベッドに入った。あいつも横になった。
「なぁ、佐為。誕生日っていっても、別にいつもとあんまり変わんないな。」
「ふふ、そうですか?。贈り物をいっぱい貰ったじゃありませんか?。」
「うん、まあね。」
「悪い気はしないでしょう?。」
「そりゃな。でもプレゼント貰ったからって、めちゃくちゃ嬉しい!ってほどじゃないし。」
「そうですか?。ふふ。ところで、ヒカルは・・・・いくつになりました?。」
「14。」
「14歳ですか・・・・。平安や江戸の頃なら、もう男子は元服して大人になった歳ですよ。」
「14で大人?。早えーな。昔って。現代じゃ、大人になるのには、あと6年掛かるよ。」
「そうでしたね。今は20歳になって初めて大人と見なされるのでしたね。」
「そういえば、佐為って今、何歳?」
「歳ですか?。そうですね、何歳と言われても、どのように数えればよいのでしょう?。」
そう言って、あいつは困った顔をした。
「そりゃ、生まれてから何年たったかに決まってんじゃん!。」
「それでは約千歳ということになるんでしょうか?。」
「千歳?。そうじゃなくってさ、その。おまえってでも、見た目は若いじゃん。その見た目的には何歳なんだよ?。何歳で止まってんだよ、歳?。」
「さぁ、何歳なんでしょう?。」
今度は悪戯っぽい笑みをその綺麗な顔に浮かべていた。
「でも少なくとも、二十歳は超えてるんだろ?。」
「そうですね、私は大人ですからね。」
またあいつは微笑んだ。
「もういいや!。あ、そうだ。じゃぁ、佐為の誕生日っていつ?。」
「さぁ、いつだったでしょう?。」
「自分の生まれた日くらい覚えてるだろ?。」
「いえ、平安の頃は誕生日を祝う習慣などありませんでしたから、よく覚えていません。」
「へーっ、そうなんだ。なーんだ。」
あどけない「あいつ」は酷くがっかりしていた。だが、この気持ちはオレにもよく分かる。
「どうしたのですか、ヒカル?。」
「だって、佐為におめでとうが言えないじゃん、オレ。」
「ヒカルは優しい子ですね。私の誕生日も祝ってくれようとしたのですか?。」
「だって、おまえ、去年も最初の『おめでとう』言ってくれたじゃん。そして、今年も。日付けが変わったら直ぐにさ。」
「ああ、去年の誕生日はヒカル夜更かししたんですよね。じいちゃんから碁盤を買ってもらったばかりで・・・、だから、あの頃毎日私につきあってくれて・・・・。遅くまで碁を打ちましたね。ヒカルの誕生日の前日もそうでした。やっぱり私が「もう一局」と望んで、打ち続け、そうしたら、ヒカルの誕生日になってしまった・・・・。」
「おまえ、それで誕生日で、最初の『おめでとう』を言ってくれたんだよな。今年は、早く寝ちゃったけど、昨日の晩、何故か、ふっと目が覚めたんだ。そしたら、佐為が『おめでとう』って。きっと、来年も再来年もおまえが最初に「おめでとう」って言ってくれるんだろうな。」
「そうですね。いつも一緒にいますからね。この座だけは譲りませんよ。私は何か贈り物をあげることが出来ないのですから。せめて「おめでとう」くらいはね、一番最初に言うんです。」
あいつは微笑んだ。眩しい。あいつってこんなに笑顔、綺麗だったんだな。幼い「あいつ」は気付かない。でもオレには分かる。
「オレは、でも、それが一番嬉しいよ。佐為。」
「優しい子ですね、ヒカルは。14になって大人びてきましたね。そんな優しいことを言ってくれるのは、あなたが真っ直ぐに育っている証拠ですよ。」
「なんだよ?。それオレがおまえに気を遣ってうそ言ってるみたいじゃん?。」
「いえ、私はそんなことを言いたいのでは・・・。」
「誤解すんなよ!。オレは本当におまえの誕生日最初の『おめでとう』が一番好きなんだ。嬉しいんだ。何でかは分からない。でも本当に一番好きなんだ。分かったか!?」
幼い「あいつ」はぷーっと頬を膨らました。そして、窓の方へそっぽを向いた。
だから「あいつ」は気づかない。でもオレには見える。あいつは・・・、綺麗なあいつは、とっても嬉しそうにしていた。そして・・・・・とっても哀しそうにしていた。幼い「あいつ」が眠りにつくと、また昨夜のように、髪を撫で、額に接吻した。
そこで、オレはふと目覚めた。夜中だ。頬が濡れていた。
ああ、もう過ぎたな。携帯の時計を見ると、零時を回っている。もうオレの19回目の誕生日がやってきたんだ。
でも今夜もあの、「おめでとう」という柔らかい声を聞くことはない。
結局、誕生日最初の「おめでとう」はあの2回だけだった。13歳と14歳の誕生日の深夜。
なぁ、おまえは今何処に居る?。
オレは、もうプロ棋士になって5年が過ぎたよ。あのプロ試験の只中の誕生日の夜。
薄れていくはずの記憶がより鮮明になっていくのは何故だ?。
今夜もこうして、眠りの淵の中で、おまえと幼い「あいつ」の姿をみた。あの日の。
あの頃は見えなかったおまえの表情が年を追うごとに、はっきりと見えるようになるのは何故だろう?。オレには分からない。
おまえがオレの髪を撫でていたなんて知らなかった。おまえがオレの額に接吻していたのも知らなかった。
来年はいよいよ二十歳だよ、佐為。
とっくに、社会に出てるけどね。
世間並みにはオレもあと一年でやっと大人って訳さ。早いね、佐為。
眠い・・・・。もう一眠りするよ。眠ったら、またおまえの胸に戻るといいな。
おやすみ・・・・佐為。
終わり (2005年9月20日ヒカルの19歳の誕生日に寄せて)
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