遠い日に
「よう、コトンじいさん。」
「おお、ビルじゃねえかい。」
「今年も豊作だっていうじゃないか。まったくここ20年といっちゃ、日照りもなけりゃ、大雨も無しと来てる。ビールもうめぃし、パイプの味も最高じゃねか。なぁ」
「まったくだ。孫たちもみんな大きくなってきたし、そろそろひ孫の顔が見れるかもしれねぇよ。」
「ほうほう、そんな年の孫もいるのかい。お前さんとこのせがれやむすめっこは皆子沢山だからな。そういや、まだ庄長殿は帰らねぇのかよ。あんたも庄長代理の勤めがあるし、お屋敷の世話もあって大変だろ。」
「いや、最近はフロド坊がしっかりしてきての、そりゃ頼もしいのよ。下のちび達の面倒はよく見るし、庭の手入れはサムにも負けないくらい上手よ。」
「そうかい、そりゃ安心じゃねぇか。庭師の家はフロド坊がしっかり次ぐってわけだな。サムの奴もいいせがれを持ったってこった。」
「エラノールの顔がみれねぇのは寂しいけどな。ロージーからの手紙だと、あの子はたいそうあのエルフのおきさき様に可愛がられてるとかだそうよ。お前、庄境にお后様がみえた時のことを覚えているかい?この世のものとは思えないくらいきらきらしてたもんよのう!エルフなんて生まれて初めて見たがの。あんまりお奇麗で輝いてるもんだから、びっくりして体が動かなくなっちまったよ。あんなお后様に可愛がられてるんだ、そりゃ大したもんよ。」
とじいさんが言うと、ビルが
「そりゃ、大きい人たちの都の暮らしが良くなっちまっんでねえのか。エラノールはだいたいホビットの娘にしちゃ信じられないくらい奇麗だしなぁ・・。都に行っても引けを取らないのじゃないかい?」と返した。
「まさか、もうここに戻ってこないってわけじゃなかろうか・・・。」
コトンじいさんはすっかり不安気な顔になって言った。
「まさか!サムがエラノールを置いてきっこ無いさ。目に入れても痛く無い程
大事な娘だ。サムの可愛がり様は尋常じゃねぇだろ。村のやつらはみんな
あれじゃ嫁にやれないだろうって言ってるくれぇだ。それを遠くの大きい人の
国になんかやれる訳ねぇだろう。心配なんか無用だよ、じいさん。」
コトンじいさんは少し安心したよう首をコクンと振った。
「エラノールを置いてこれなきゃ、サムも戻ってこないさ。なぁ。」
とまたビル。
「なら本当に安心だ。」
とコトンじいさんは笑った。
「サムが帰ってこないわけないからな。袋小路に帰ってこない訳がない。」
コトンじいさんはつぶやくように言った。
「そりゃそうだ、子煩悩なサムがちいせぇ子供たちを置いてくもんか。」
とビルが言う。
「当たりめぇだ。だが、袋小路もほっておかないさ。」
「っそりゃ、あれだけ立派なホビット穴の屋敷だもの。だが、それじゃサムが子供たちより屋敷が大事みてぇな言い方だな。」
コトンじいさんは少し声を張り上げて言った。
「そういう訳じゃねぇ。サムは大事なものを秤に掛けられるような奴じゃないからの。ただあの屋敷はまた別なのよ。」
ビルはしばらく、はてというような顔をしていたが、思いついたように言った。
「ああ、そうか、あの、何て言ったか、ほら、ほら・・・・?とにかくよ、えっと・・・?だから・・・・。あの、・・・・ほら、変わり者の旦那だよ。おい、なんて言ったか、もう昔のことで忘れちまったよ。確か、居たよなぁ、変わり者の旦那がよ。そう。まさか戻ってくるとでも思ってるのかい。もうとっくに死んじまったんだろう?」
「さっき、おんなじ名前を言ったてたじゃねぇか。」
とコトン爺さんは心の中で呟いた。 そして「さぁな」、といった顔をしてパイプをふかすだけだった。「あ、待てよ。あの旦那、そういえば・・・・」
お山の下の庭師の家。袋小路の書斎に明かりが灯っている。この最近では明かりの灯ったことのない部屋から光が漏れている、どうした事だろう?庭師の家の子供が不思議に思わない筈はなかった。
「まさか!、父さん。」
もう大人の背丈に近づいたが、まだあどけない真ん丸い茶色い目をしたホビットの少年が書斎の丸い戸をバン!と開けた。
しかし、気の毒にも少年の期待は裏切られた。
いつもは父が座っていた椅子には祖父が座っていたのだ。
「お爺ちゃん、どうしたのさ?書斎にいるなんて珍しいじゃないか?」
「いや何さね、ちょっとお前の父さんに手紙でも書こうと思ったんだよ。だがなぁ、爺ちゃん、お前のお父さんにこの年になってから字を教わっただろう、なかなか上手く書けなくてね、苦労してるんじゃよ。」
「そう、じゃあ、僕が教えてあげるよ。」
「ほう、フロド坊も字が書けるのかい?」
「お山の庭師の家の子供はみんな書けるよ。父さんが教えてくれたんだ。でもエラノルリーほど奇麗な字は書けないけどね、父さんがエラノルリーの字はフロドの旦那の字みたいに奇麗だって言ってたよ。」
「やっぱりその名前がすんなり出てくるのはこの家の子達くらいだの・・。会ったことも無いのによ。」
コトンじいさんはぼそりと呟いた。
「え、何?お爺ちゃん」
「いや何でもないさ。さぁここに来ておくれ。父さんに手紙を書くぞ。父さんの書き物の足しになるかもしれないからの。この手紙を見たらお前の父さん、ゴンドールの都から早く帰ってくるかもしれんぞ。さあ、字の綴りを教えておくれ、フロド坊。」
その年の暮れ、ゴンドールの立派な馬に乗ってサムとロージーとエラノールはついに懐かしいお山に帰り着いた。ゴンドールの兵士が数人従者として付いて来たが、バックの里の庄境で引き返して行った。
サムは袋小路に帰宅すると残してきた子供たちと何日間かは付きっきりで遊んでやったり、世話をしてやったり、会ってなかった分を取り戻さんばかりに可愛がるのだった。
しかし、それも何日かして再会の感動が落ち着くとコトン爺さんが言った通りサムは書斎に篭って書き物に専念する日が多くなった。
フロド少年はなるほど祖父の言った通り、しばらく筆が止まっていた赤表紙本に父がまた取り掛かったのを知って、一体祖父が何を書き送ったのだろうと気に
なった。
あの時、祖父に尋ねられた字を教えはしたが、いくら手紙の内容について聞いてもそれは大事な話だからと教えてもらえなかったのだ。
「ねえ、エラノルリー、ミナスティリスってどんなところだった?」
「そうね、とても素晴らしかったわ。何もかも白くて美しくて、父さんが教えてくれた通りの都だったわ。父さんってすごいのよ。立派なお城の兵隊さんがね、父さんが通るとお辞儀するのよ、すごいと思わない。」
エラノールは父がどんなにかゴンドールで敬意を払われているかを目の当たりにし、以前にも増して父に対する尊敬と愛が深まったようだった。
「でもね、父さんたら、面白いのよ。立派で背いの高い兵隊さんがお辞儀するとね、父さんもいちいちかしこまってお辞儀するの。『そんなもったいねえですだ、旦那がたやめてくだせぇ。』って。」
フロド少年は笑った。「僕も行ってみたいなぁ・・」
「きっとあなたも行けるわ。そうそう父さんの話を覚えてる?エルフのレゴラスさんにも会ったのよ。それから、ドワーフのギムリさんにも。二人とも父さんに会いにイシリアンと燦光洞からミナス・ティリスにやって来たの。王様は『指輪の仲間が4人も集まった』って。」
「ふーん。」
フロド少年は羨望の眼差しをエラノールに投げた。
僕も行きたかった。僕も見たかった。白い都を。遠い国。大きい人の国。エルフが住むというイシリアンの森。ドワーフが愛してやまないという美しい燦光洞。僕と同じ名のその人も遠くを旅したって聞いた。父さんの本の中の大きい世界。
「でもね、フロド、私ここに帰ってこれて良かった!やっぱりホビット庄が一番好きよ!大きい人たちの国も美しくて素晴らしかったけど、でもここが一番だわ。」
「ふーーん、そんなものかなぁ。でもそうかもしれないなぁ。僕はホビットだし、穴の中で無くて高い塔の中で寝るなんてやっぱり気分は悪そうだもの。」
ただ旅は悪くなさそうだ。だって父さんはあの本の中に出てくる場所に遠く何リーグも旅したんだ。
「・・・そうよ、ホビット庄が一番だわ。そうに決まってる。なのに、父さんは・・・」
「え?」
「い、いいえっ、何でもないのよ」
そうしてエラノールは声に出さなかった言葉を続けた。
父さんはいつか行ってしまう。海の向こうに。誰も止めることは出来ない。私だけが知ってる。
父さんはミナス・ティリスで、コトンのお爺ちゃんから手紙を受け取った。手紙を読んだ父さんはホビット庄に帰ると言い出した。もともと滞在の予定も少し過ぎていたし、別に不思議なことでは無かった。父さんも母さんも小さい子供たちのことを心配していたし・・・。
ただ・・。見るつもりなど無かった。それを見つけたのは偶然だった。
袋小路に帰り着いた夜、最初に書斎に入った私の目に入ったのはインクの吸い取り紙に切れ切れに刻印されたかすれた文字達だった。筆跡は祖父のもの。片付け忘れたのだろう。とっさに私は服の下にインクの吸い取り紙を隠した。何事も無かったかのように書斎を出ると、子供部屋に行って手鏡を探した。吸い取り紙を手鏡に映して反対になっていた文字列を逆の方向に映し出した私はすんなりと文字を追うのに成功した。手紙には記されていたのだ。祖父がビル叔父から聞き出したというフロドの旦那の話のことが。
数年前、父の秘めた決心を知ったときは胸が張り裂けるようだった。でも今はもういい。ミナス・ティリスで、多くの人間やエルフやドワーフと会ううちに、父が赤表紙本に情熱を傾けるのも、せせらぎがいつかは大海へ流れ出るように自然なことなのだと思えるようになった。そしてかの都では驚くことに故郷ではついぞ聞かれることの無いフロド・バギンズの名が忘れられてはいなかったのだ。
世界を見るというのはこういうことなのだろうか。小さい庭の中だけに居ては遠くに見える山の頂がどれだけ高いかも、遥かなる大河の源流がどれほど遠いかも、全く分からないのだ。
父が赤表紙本を書き終えたら、いつか私に譲って貰おう・・・・。父が私を連れていったのは気まぐれじゃない。今はそう思える。
そうしてエラノールはフロドが寝てしまったのを確認すると、自分も部屋に向かいベッドに入ったのだった。
一瞬、丸い窓の外に星が瞬いた気がした・・・のはもう夢の中のことなのか、どうかよく分からなかったけど・・・。
<あとがき>
一度ボツリかけていたものですが、なんとかお誕生日にあわせ復活させました。やっとUPできた〜〜。
お察しの方も多いと想いますがこの話はホビット庄暦1442年のサムワイズ一家がミナス・ティリスに1年滞在した年、エラノール21歳という設定です。