終章四 佐為 下



 ところで私は、いろいろなことを思い出すうちにふと自分の不遜な態度に気付きました。
「大君・・・、上皇様」
 私は慌てて呼びかけました。
「どうした・・・?」
 彼は少し驚いて私を見ます。
「私は今まで、なんという無礼な口の利き方をしてきたのでしょう」
「よい、よい・・・! 今までの通り、『あなた』でかまわぬ」
 彼は本当に心からそう望んでいるようでした。
 
 こうして彼と毎日碁を打つようになりました。実はこのことも彼が「気狂いの病に罹った天子」と悪名を流すのに拍車をかけてしまいました。はたから見れば、ひたすら一人で碁を打つ奇妙な行動に見えたのです。
 独り言を呟き、一人で碁を打つ、全ては私の亡骸に触れたという事件の後に起こったのです。私の怨霊にとりつかれたのではないかと、私にとっては少々こそばゆい噂を囁く者も出てきました。確かに憑かれたように・・・、狂ったように・・・、碁を打っています。以前の彼からは想像もできない姿と言わねばなりません。
 そこで呼ばれたのは、あの懐かしい若者です。
 涼しい目許。鋭い眼差し。上皇様の御前に通された彼は少し見ぬ間にまた大人っぽくなり、しっかりとした青年になっていました。彼の誠実な態度には好感が持てます。彼は二言三言それほど差し障りのない進言をして帰っていきました。そう、青年は陰陽師の明殿です。明殿なら上皇様に不利益な話をばら撒いたりはしないでしょう。私は安心しました。
 
 上皇様に来る日も来る日も指導碁を打つのは、それなりに満ち足りた毎日でした。むろん、強い相手と打ちたいという想いはあります。ですが、私は碁を教えることが元来好きなので苦になりません。彼は私がずっと教えていたのです。しかもこうした奇妙な暮らしをするようになってからは、毎日長い時間を彼と碁を打って過ごしているのです。彼はこの頃は本当に強くなりました。昔はそれほど碁が好きではなかったはずです。その彼がこれだけ打てるようになったことに私は満足感を得ていました。
 ある時、私は言いました。
「あなたはとても強くなりましたね。私は感激しています」
「かつてそなたが侍棋として余に仕えていた時よりも、はるかにそなたと共に過ごしている。そなたに来る日も来る日も、教え導かれる。強くなるのは必然であろう。そして余は今になって初めて知った。碁とはこんなにも深遠なる世界であり、面白いものだということを。そなたが何故、碁にとりつかれたのか、今になって本当に知った思いがする」
 彼は瞳を震わせて、私にそう訴えました。彼は碁の深遠なるを讃え、そして碁を打つことを楽しいと言ったのです。信じられません。我が耳を疑いました。彼は少しはにかんだように、口元をゆがめています。あまりらしくない上皇様の表情に、私も顔をほころばせました。私は本当に感激していました。意識だけの存在となった私が、生前には出来なかったことを成し遂げたからです。彼を碁の深遠にいざなっているのです。私達はこうして、今本当の師弟となったのでした。
 つまり、生身の身体が私にあった頃は、結局そうは成れなかったということです。お互いにさまざまな感情が絡み合い、葛藤し続け、どうしても私達は上手くいきませんでした。

 彼はそしてこう言いました。
「今もそなたへの懺悔の気持ちはこの胸から消えることは無い。しかし今そうして悔やみながらも、こんなにも余の心は穏やかだ」
 私は彼の言葉を聞いて思いました。彼はかつて、一体どれほど私への想いに苦しんだのだろうかと。
 彼は続けます。
「そなたが逢いたいと思う者を招こう。誰か望みはあろうか?」
 私は考えました。実はあまり細かいことを思い出せないのです。こうして毎日一緒に居る彼に関する記憶は鮮明によみがえってくるのですが、接することの無い人物に関しては、幾人か本当に近しかった人達を除けばあまり思い出せません。それでも必死に記憶を辿りました。すると親戚の中に一人の童子が思い浮かびました。
 彼は願いどおり、あの子を呼んでくれました。こうして上皇の院に天童丸殿が童殿上することになったのです。
 上皇様の御所に上がった天童丸殿は、記憶にあるよりも少し身長も伸び、顔も利発そうに成長していました。はきはきとして元気よく、しかしもう昔のような粗相もせずに、とても殊勝に務めを果たそうとしていました。そんな姿はとても微笑ましく、よく頭を撫でてあげたものです。私がそんな風なしぐさをすると、上皇様も思わず微笑みます。そして天童丸殿にはそれは優しく接してくれるのでした。
 私は、天童丸殿にも指導碁を打つようになりました。もちろん実際に打っているのは上皇様です。こんな風に過ごす毎日は、穏やかで楽しいものでした。ただ一点、果たしてはいない誓願への満たされぬ想いを除いては。
 楽しい時にもやがて翳りが見え始めました。
 彼が倒れたのです。彼は何日も寝込みました。私はずっと彼の枕元に付き添い、彼の回復を祈りました。それでも、抗い難い運命の壁を感じていました。彼はもうじき逝く。どうしようも無い別れの予感でした。
 しかし、やがて彼は小康を得ました。
 私達は、この時心の底から腹を割って想いの丈を語り合ったのです。もうお互い正気で語らうのはこれが最後となるであろうと意識してのことでした。
「どうか・・・どうか、この言葉を、これを最後とそなたに伝えることを許して欲しい」
「はい」
「今もそなたを愛している」
 彼は言いました。
「分かっております」
 私は瞳を閉じて静かに答えました。
「すまぬ。この言葉がいかにそなたを苦しめるか、よく知っていた。分かっていた。本当によく分かっていたのだ」
 私は胸をえぐられるような気がしました。彼は続けます。
「そして、余はもう一人、そなたのほかに心から懺悔せねばならぬ人物がいる。そなたの弟子だ。認めねばならぬ。余は負けたのだ。人間の持つ魂に優劣があるなら、余はあの者に、遠く及ばぬ。負けたことを知りながら、力で打ちのめすことしかできない、余は恥ずべき人間であった。そなたに対してもそれは同じである。このように恥ずべき人間が、そなたの清らかな姿を月明かりに見、朝焼けの光に眺め、そなたの澄んだ声を朝な夕なに聴く。このような幸せを・・・得てよいものであろうか? そなたと、そなたの弟子を苦しめた余が享受してよいものであろうか? この幸福には何か代償が要るはずだ。余は何かを犠牲にせねばならない。今、それを探している。それでも余は、全てを贖わねばならぬとしても、それでも、そなたに出逢えて良かった。幸せであった」
 ああ、どう言ったらいいでしょう。
 私は彼の言葉を聞いて涙を止めることができませんでした。
 私達はしばらく言葉もなく、ただお互いを見つめていました。やがて彼が口を開きました。
「そして今、新たに心配ごとがあるのだ」
「何でしょう?」
「そなたにもっともっと碁を打たせてやりたい。だが、もう終わりの時が来ようとしている。余はもうじき死ぬであろう」
 私はその言葉を、千本の針を刺されるような想いで聞きました。
「余はもう直ぐ死ぬ。死ねば、そなたの声を誰が聴こう? 誰が代わりに石を持とう・・・?」
 言葉を失ってしまいました。大君はずっと案じていてくださったのです。
 それは私自身の胸の不安、そのものでもありました。私は偽らざる胸の内を述べました。
「正直に言えば、私は怖いです。あなたが居なくなった後のことを考えると、恐ろしくて震え上がります。しかし、こう考えたいとも思うのです。あなたも言ったように、私もあなたに出逢えて幸せでした。私はあなたのことが好きでした。慕っていました。しかし、あなたが言うように、また私はあなたに愛されることに苦しみ、悩みもしました。そしてあなたが望むような愛を返すことは出来ませんでした。それどころか、あなたの愛を利用するようなことさえし、あなたの心を深く傷つけたのです。あなたが私に望んだものがあったように、私もあなたに望んだものがありました。今思えば、私はいつもあなたの胸を借り、あなたの胸で泣きたいと願っていたように思います。私はいつも心安んじて帰れる港の明かりを求めていました。あなたにその明かりを見出したかったのです。私の身勝手な想いもまたあなたを苦しめてしまいました。それでもその想いがあなたの心と、噛み合うことが全く無かったとは思えません。失うことを嘆くのではなく、奇跡の時を過ごせたことを、私も喜びたいと、そう思います。そして私も少々疲れました。最近では気付くと碁盤に打ち伏せて寝入ってしまうことが多いのです」
 私は毎日碁を打つうちに、まるで碁盤が住みかとでもなったかのような感覚にしばしば襲われるのは本当のことでした。
 上皇様は言いました。
「では余の死後、そなたの好きな者に、この碁盤が渡るようにしよう」
 上皇様は碁盤を天童丸殿にお譲りになることを決めたようです。少しでも私が寂しい想いをしないようにとのご配慮でした。
 その後、彼は意識を失ったり、取り戻したりを繰り返していました。
 私はその最後の数日間、ずっと彼の傍らに横になって、彼の胸、彼の掌、時には彼の頬や額に手を当てていました。彼はふいに意識を取り戻すと、私の顔を見て、かすかに、でもとても幸せそうに微笑むのでした。最後の時に当たり、私は心を尽くして彼を看取りたいと願ったのです。
 こうして上皇様との暮らしにもいよいよ終わりの時が来ました。
 今ではもう話すこともままならなくなっていた彼は、今わの際に私の名を必死に呼びました。
「佐為・・・! 佐為・・・・!」
 私は、彼の手を思わず取ろうとしました。しかし、彼の手を握ることができません。この身の無いことが堪える瞬間でした。仕方なく、それまでのように彼の掌に自分の手を重ねました。
「佐為・・・、すまぬ。すまぬ。いくら詫びても足りぬ。もはや今生でそなたを苦しめた余を許せとは言わぬ。だが、もし次の世にまた人に生まれることが叶うならば、その望みが叶うならば、そなたの為に生きたい。今生では時間が足りなかった。次の世にも、こうして再び、そなたの手となり足となりたい。己の望みなど何一つ要らぬ。そなたの為だけにこの身の全てを捧げたい。そのように生きたい。その為には若々しい命となり、瑞々しく健康な体を持って、生まれ直さなければならぬ。その為には今は死し、老いた肉体を捨て、しばし別れをつげねはならぬのだ。そして、そなたに愛されるような、愛くるしい童子の姿となって、そなたの前に現れたい。それが、それだけが余の望みだ」
 それが彼の、大君の、最後の言葉でした。

 彼は眠るように息を引き取り、私のように意識だけの存在となって彷徨うようなことはありませんでした。しかし、それは長い長い孤独の始まりでもあったのです。
 私は上皇様との別れに際し、はたと思い至りました。
『役目あらば、死す事は無い』
 師の言葉です。帝は亡くなり、この世での役目を終えられました。しかし、私はまだ完全には死んでいません。では私には役目が残っているのか・・・? 私は肉体を捨てた後も、上皇様や天童丸殿の碁を上達させることが出来ました。
 もしや・・・、いつかは老い、朽ち果てる肉体を捨てたことによって、却って長い時を得たのではあるまいか・・。このことに気付いたとき、私には震えが走りました。そしてはるかなる未来に想いを馳せました。
 あの子の・・・私の遥かなるあの子の、光の言葉がよみがえります。
『おまえの許に必ず戻ってくる!』
 ああ、光は私にそう誓ったではないか・・・・! 今、光の問いへの答えがやっと分かったのです。いつか必ず、必ず光は私の許に帰ってくる。何度別れても、何度生死を繰り返しても、私達は必ずまた巡り会う・・・! 終わりなど無い・・・! 師弟のえにしを結んだ私達に、決して終わりなどないのだ・・! それが愛しい光への答えでした。
  
  
 孤独となった私は大君と打っていた碁盤の上にうち伏し、深い無意識の海に落ちていきました。私がうち伏した碁盤は天童丸殿の許に渡りました。親しい少年の傍で無意識の海に浮遊することは安らかな心地を私に与えてくれることでした。ですが、天童丸殿は、やはり帝と違い、私の声も姿も感知することはありません。完全なる孤独の到来です。
 しかし、再び私の意識を感知できる人に巡り逢う時は必ず訪れるはずです。私の意識が死していないのは師の言葉に照らし、私には未だ役目があるからです。私には、未だ誓願を果たす為の時間が未来に渡って存在するのです。

 これは遥かなる予感でした。
 再び目覚める時は、碁が強く、賢く、私に命をも捧げんとするような愛くるしい童子に起こされるであろうと。
 そして、これは悠久なる確信でした。
 さらに時重ね千年を待てば、光は・・・、遥かなる私の光は、必ずや私の許に現れるであろうと・・・・。
 遠きえにしに、その遥かなる未来が約束を交わしたことなど憶えてはいないかもしれないけれど・・・。

 

えにしを読んでくださったその後に      

 

 

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