<一部二部後書き>

 長い話を読んでくださってありがとうございます。このページは「遠きえにしに」の一部二部まで書いたところで、今までのちょっと裏話+αが書きたいと思います。
 物語中での設定、背景等の細かい断り書きを、以前upしていた内容とダブりますがここで新たな内容も含めて出来たらなと思います。
 さらに、個々の話の後書きや註に書かなかったことをここで補足できたら・・・と。というわけで無駄に長いかもしれませんので、ご興味のある方のみお読みください。

 ★全体・・・
 この物語は、平安中期なことだけは確かですが、後はいづれの御世にか・・・という感じです。具体的な史実上のものとしてあっちこっちに源氏物語や、32話に菅原道真の名前が出てきますが、年代的な考証は無視しております。
 二部においては、大宰府政庁についても焼失の事実はありますが、年代、原因ともに史実とはリンクしてません。完璧フィクションです。
 序の「羅城門」その他で羅城門が登場します。この羅城門についても、ちょうど平安中期には荒廃〜崩壊しています。これも同様に年代特定不可なので・・・荒れてるのか崩れてるのか無くなってるのか、どれでもいいかなと。
 いづれの御世にか・・・ということで、このお話中の帝もフィクションです。関白や周辺の血縁に関しては藤原道長がモデルですが、史実上の道長は関白にはなっておらず、上り詰めた地位は内覧と摂政でした。


 ★囲碁・・・
  平安時代には上手が黒を持ち後番、下手が白を持ち先番。事前置石制といい、あらかじめ、いくつか黒白ともに同数の石を置いて打ち始めていました。すべて中国での習慣に倣っています。ただ上手と下手の差がある場合は下手の石を多めに置く事もあったようです。
 現代棋法とこの古代棋法が書いてるうちに混濁している部分があり、分かりづらいところがあると思います。
 48話ではすみません、最初に現代棋法に倣うと言っておいて、途中からいつのまにか古代棋法を元に書いてたりします。ごめんなさい。

 ★花・・・
 21話・・・清涼殿に隣接して梅林の庭があったというのはもちろん私の捏造です。
 25話・・・嵐山に山桜が植えられたのは12世紀くらいのことで、この小説に想定している平安中期の時代にはまだ無かったようです。検非違使庁の門前に枝垂れ桜があったというのも私の捏造です。
 39話他・・・月下美人はメキシコが原産で、16,7世紀に南米から東南アジアに伝わり、日本には大正時代くらいに入ったとされています。作中の「月下美人」はこれとは別ルートで日本に伝わり、でもまもなく消滅した幻の花という想定で、私の捏造です。

 ★牛車・・・
 3話8話14話他多数の場面で、佐為と光はいつも隣り合って並んで座ってるように書かれていますが、牛車に二人で乗る場合、普通は向かい合って座るようです。正面に向かって座るのは独りで乗る場合です。片側に二人が並んではバランスが悪いので、佐為と光は正面に向かって並んでるものと思われます。でも普通こんな乗り方はしないので、二人の異常な仲の良さがそうさせるのか・・・、あるいは、光は小柄なので、佐為のおまけ的な感覚で正面に向かいくっ付いて座ってるのかもしれません。

 ★遊び女・・・
 いまいち分かんなかったのが当時のこの人たちです。この方たちについての資料はYさんに大変お世話になりました。有難うございました。Yさんご紹介の書籍を数冊を読みましたが、今だにはっきりしたイメージが掴めていません。後世所謂「遊女」というと、遊郭に居る娼婦の意味合いが強くなりますが、平安中期の遊び女といえば、あくまで歌舞を披露して生業にした遊行女婦のことで、傀儡女(くぐつめ)と呼ばれる女人もいました。ただ、娼婦としての性質もなかった訳ではなく、遊び女や傀儡女のなかには体を売る者も居たそうです。しかし、彼女たちは娼館を構えるようなことは無く、あくまで副業としての売春だったとか。静御前で有名な白拍子は源平の対立する平安末期に登場した女性たちで平安中期にはまだ居ませんでした。
 遊び女は自作の歌や、今様などを披露することからも高い教養が必要とされました。静御前がそうだったように、中には身分の高い男性に愛された者も多く、藤原道長にも遊び女の愛人が居ました。佐為の母親のモデルはこの辺から・・・。
 でも、もう一人の遊び女・原案での紫の君のキャラは筑紫の高級娼婦にして大宰帥の愛人・・・しかも佐為に似た美人で光を誘惑する大人の女といった感じでした。どうして、こういうキャラが出てきたかというと、大宰府に飛ばされた光が都の佐為に歌を送る為には、あかりちゃんのような歌の師匠が必要だったんですね。で、大宰府での歌の師匠・・・これはあかりちゃんを一回り、二回りは上を行くこういうキャラしか無いだろうと降臨。でも当時の娼婦って?という疑問が。で、↑のようなことを知り、そっか当時専門「娼婦」なんて居なかったのねと。紫の君はあくまで歌舞を披露する遊行女婦ということで行こうということになりました。
 35話で紫が光たちの前で舞を披露します。お気づきの方も多いと思いますが、あの格好はまだこの頃居なかった白拍子がモデルです。烏帽子に水干、緋の長袴に鞘巻。白拍子の扮装は、男装です。佐為に似た美女が男装したら、余計佐為に似るじゃん!というのが動機でした。ついでに普段から男装させちゃえ、教養高くしちゃえ、武道も乗馬も得意にしちゃえ・・・とどんどん私の理想を注ぎ込んでしまいました。ソフト面のモデルは敬愛するガラドリエルの奥方様、ハード面は某古典漫画の男装の麗人といったとこでしょうか。

 ★装束・・・
 いい加減な箇所が多々あるかと・・・すみません。基本的には原作からして、佐為の格好は時代考証無視なので、ここは厳密する方がナンセンスとも思いますが・・・。
 56話に関しては、衣が主役とも言える回だったのでちょっと別。帝の装束と佐為の装束、かなり苦労しました。どうしても後朝(きぬぎぬ)の語源になった「衣々の別れ」を描きたかったので、二人に衣の交換をさせたかったんです。そこで帝はお忍びでお参りする寺院に何を着てくんだろうと思いましたが、普段着である「お引直衣(普通の直衣姿よりも単衣に至るまで全ての丈が長く、袴も普通の貴族男性が履くのとは違い、女性が十二単の下に着けるような紅い長袴で、床にずるずる引いている直衣姿・帝だけがする特別な装いです)」に。でもあんなずるずるした格好で外出するかなとも思ったんですが、やっぱ帝は帝らしい格好の方がいいかなと思い、そうしてみました。
 佐為については、もちろん帝が直衣での昇殿を許しているとの設定のもと、昇殿するときにする直衣姿としては正式な出だし衣(直衣の下から衵(あこめ)をわざと見せるおしゃれな着方)にしてみました。場所は寺院ですが、帝の御前ですので、昇殿と同様な格好が良いかと思い・・・。直衣に冠で昇殿は上級貴族には許されるケースが多かったそうです。ただ、佐為の冠姿ってどうしても私は想像できないので、そこは触れませんでした。自由に想像してください。コミック1巻のように、あの長い髪をせめて生え際近くでまとめていたら冠も似合うかなと思うのですが・・・。個人的意見ですが
 それでも二人の格好が決まったところで、さて、衣を交換するとなると、どの衣を交換したらいいのかしら・・・?と。そこで、一体、この引直衣と直衣の下、季節は冬、どうなってるの????となりました。以前図書館で借りて読んだ平安装束の本2冊を再び借りてきて、丹念に読み返しました。平安中期の貴族の下着は男女供に単衣。単の下に白小袖を下着として着るようになるのは平安後期からのようです。で、冬は単衣の上に衵という衣を数枚重ねて着て暖を取ります。で、この衵を袴に着込めずに(袴の中に入れないで)、一番上に着る直衣の裾から少し出して見せるのが出だし衣。(これって現代でもパンツの中にシャツを入れて着るのは一般に若者のおしゃれからは敬遠されているのと何処か通じるものを感じます。)
 佐為が着ていた桜襲(さくらがさね)の直衣というのは、直衣の表地が白で、裏地が二藍(ふたあい/藍と紅を混ぜた色)の直衣のことを言います。この裏地の二藍ですが、年齢によって濃さが違ってくるようで、若いほど、紅が濃く、年寄りほど(といっても二藍の裏地は40歳までだそうです)、藍が濃く・・・なので、凄く若い訳じゃないけど妙齢と思われる佐為は紅が幾分濃い赤紫っぽい二藍と想像しています。紅の衵はというと、この時代は朱がかった色だったとか。袴は指貫(さしぬき)といって、原作の狩衣姿の時にも履いているふくらはぎの上のところを紐で括る袴を履きます。あ、この下に下袴というのも着けるようです。これはボトムの下のインナーですね。桜襲の直衣姿をした光源氏が颯爽と現れる様子が源氏物語にも出てくるので、それは美しく、きゃ〜な姿と想像してください。
 帝の引直衣姿(冬バージョン)ですが、女房が着るような紅の長袴の上に、通常よりも長く仕立てられた単衣、衵供に袴に着込めずずるずると引きます。一番上の丈の長い直衣も貴族男性が腰のところでたくし上げて形を整えるのとは違い、ただ、帯を締めて、そのまま長い裾を引きずって着ます。平安中期は天皇のみが出来る姿でした。
 襪(しとうず)は「下沓(したくつ)」が語源のようです。現代で言えば確かに「くつした」に当たるものですね。足袋のように、指先は割れてなくて、袋状のものを足首で括って履きました。昇殿する貴族は普通勅許を得た者以外履きません。裸足です。天皇はもちろん何時でも何処でも自由に履けます。
 佐為なら、帝が何でも許していそうですが、勅許を得るのは高齢者・・・と本にありました。なので佐為がもし許可を得ていたとしても、帝の御前では礼儀面でも年齢面でも襪を履くのはちょっとダサいかなと・・・素足が相当ではないかと想像しています。でも寒くて当時、指貫のなかにすっぽりつま先まで入れて昇殿するお貴族様も居たとか。
 54話で佐為が被っていた被衣(かつぎ)は普通女性が外出時に被るもの。義経が五条大橋で弁慶と出逢ったという伝説の場面でもこれを被っています。大河ドラマのあのシーンが美しかったのと、原作でヒカルの許に降臨した佐為が被衣(かつぎ)らしきものを被っているところ、後は密会という場面上、顔を隠す必要性から、これを被ってもらいました。だって似合ってる〜! 被衣を被った佐為・・・13巻の表紙とか、小畑せんせのイラストにもいくつかあって美しいですよね〜〜vvv

 ★帝と佐為の密会場所・・・
 54話で、帝が佐為を誘い出す場所ですが、これについて、ものすご〜く悩みました。53話のUP後から54話のUPまで1ヶ月半も掛かったのはこの理由もありました。「蘭香」の下りは当初から決まっていたのですが、具体的な密会場所となると、何処にしよー、となかなか定まらず。内裏内というのはやはり目立つので、これは出来れば避けたいと思いました。それでまず思いついたのは、源氏が夕顔を連れ込んだみたいな隠れ家的お邸。京の街のどっかに帝もそんな場所を持っていたとしてもいいかなと。それでも、いまいちぴんと来ず。幽べる先生に教えを乞うことに。古典の中に帝が秘密の情事の為に使った密会場所なんて出てきません?て。そんな迷える私に、教えてくださったのが、「御伽草子」に出てくる鳥羽天皇の中宮・待賢門院と西行法師の密会のエピソードでした。帝ではなく中宮の不倫の話ですがとても参考になりました。

 帝がそういうことをする場合
『「召しにけり」「召してけり」なんて言葉で片付けられてることが多いんですよね。あっさり、思い通りに自分のものにしちゃってるというか。』(幽べる先生言)だそうです。
 で、待賢門院と西行のパターンですが、室町時代に書かれた「浄瑠璃十二段草紙」を幽べる先生が口語訳なさったもの一部↓にご紹介します。
 『けれども、そなたに巡り合うことは、今夜が過ぎ、また明日も過ぎて、その先の世になるような時、ここから西の方角、阿弥陀の浄土でお待ちなさい』
との仰せだったので、憲清
(=西行)は(この世での望みはかなわぬと思い)ひどく意気消沈してふさぎこんでいたところ、后つきの女官がこの旨をお聞きになって、
『これ憲清、お聞きいたせ。ここから西の方角、阿弥陀の浄土といいますのは、ここから西に当たる阿弥陀堂の事ですよ。后はこの頃百日詣をなさっていらっしゃるが、そもそも今夜とは、今日の夕方を過ぎてからのこと、また今夜とは明日の夜も過ぎて、その後の夜(つまり明後日の夜)、ここから西の方角の阿弥陀堂で、(あなた
に)お逢いになろうとの仰せですよ。憲清』

 とのこと。はは〜なるほど、お参りにかこつけて、外出した折に、しかも仏前でって、なんかすっごい秘め事っぽくていいじゃんと思いました。以前、帝から遠ざける為に出家を促された佐為にとってはかなり皮肉な展開ですが・・・ですが・・・皮肉な展開こそ萌え!。これも宿縁だったのかもしれません。幽べる先生〜、本当にありがとうございました!
 で、場所は寺院と決まり、佐為を誘い出す文の内容も連動して決まった・・・のは良かったのですが、今度は、寺院は寺院でも一体どんな堂宇にするか?これで、また延々悩むことに。阿弥陀堂は私の趣味上の理由でまず却下に。それで、図書館から寺院建築に関する本をまた数冊借りてきました。その中に、堂宇の種類と図解、実例写真付きで詳しい分かりやすい説明の入ったものがありました。それを端から読んでいったのですが、「あ、これいいかも」って思ったのは八角堂(又は六角堂、円堂)でした。有名なのは誰もが知ってる法隆寺の夢殿です。形も優美だし、寺院の主要堂宇からは離れた場所にぽつんとあることが多いし、簡素な阿弥陀堂よりはいいんじゃん?と。しかし・・・この八角堂、内部構造はというと、柱が数本円状に建っていて、その中心に須弥壇があります。そして窓は連子窓で、扉も八角堂なら4つ。六角堂なら3つ。扉の間の壁は連子窓・・・これって窓だらけ、扉だらけ、お堂の真中には須弥壇、なんか落ち着かなくない・・・?と。しかも散々迷ったのにはもう一つ季節がありました。阿弥陀堂や、持仏堂・・・だったら、簡素な造りだし、いくらなんでもこの中にお床の用意がしてあるのは可笑しいし(笑)。寒いし、ちょっとやだなぁ・・・と。夏ならまだしもですが。結論としては人が住む為の建物ではない○○堂はダメだ・・・ということになりました。そこで、候補に浮上したのが寺院への来客を接待する客殿。もうひとつは、宸殿。宸殿は、皇室が宿泊に使用する寺院内の宿殿です。ので造りは寝殿造り。ああ、これで行こうと思いました。
 作中、里内裏として使われた藤原氏の邸が下賜されたものとしてますが、これはもちろん、藤原氏の菩提寺というのも、内裏の東に半里のところに何か寺院があるというのも全てフィクションです。実在の寺院は一切出さない方針にしています。(そういえば、佐為が修行した「お山」ですが、モデルは多くの方がお察しと思いますので敢えて言わないことに致しますね。もっと後の中世の話ですが、この山には本当に碁で生計を立てるような僧侶が居たという話を濫読雑読の中で目にしました。)
 蘭香殿という宸殿の名は、55話冒頭の孔子家語の言葉が由来と思われます。この言葉が元々好きで、宸殿の名を考えているときに、この言葉から採ることを思いつきました。芋づる式に、それじゃぁ、帝の香を蘭麝香にしちゃえと。

 ★長々読んで頂き、ありがとうございました。
 最後に、この2次小説を書き始めた動機などを今書ける範囲で書こうかなと思います。散々掲示板に書き散らしてきましたので、いまさら・・という方もいらっしゃるかもしれませんが。
 まず私の中に、ある妄想がありました。それは何時生まれたか。ヒカ碁1巻の冒頭を読んだ瞬間です。ヒカルの許に降臨した佐為は、自分がどうして成仏せずに長いときを生きながらえているか語るシーン。佐為のあの入水に至る経緯が語られるシーンです。簡単に言えば、??でした。入水に至る経緯にどうも説得力が薄い気あが・・・。というより、もっと不思議に思ったことがありました。それは伏せておきます。で、あの短い回想シーンの奥にあるものが勝手に自分の頭の中に育ちました。でもこれは静かに何処か片隅に抱えたまま、1年半過ぎました。それで本気でヒカ碁に嵌ったのが二年近く前の夏。ヒカ碁熱に乗じて平安幻想異聞録のゲームをプレイしてみました。これが凄く面白かった! さらにヒカ碁の2次小説、特に佐為とヒカルを主に扱ったものを読むうちに触発を受けたのか・・・あの眠ってた妄想・佐為と帝の物語(そう、まずは佐為と帝の話だったんです!私の妄想は)を書いてみようかなという気持ちが起こりました。眠っていたというか、住み続けたと言った方が近いかもしれません。その元々自分の中にあった佐為と帝の物語に、ヒカ碁全編を読んで得たものをさらに増幅したいという願いが融合して、「遠きえにしに」の粗筋に発展したようです。
 書き出したら、後は佐為が光が帝が・・・勝手に動き出してくれて・・・、自分でも展開に驚くことがありました。帝のキャラも書いてくうちに随分変化してしまいました。なので、帝初登場の3話は、キャラの変容に違和感をどうしても感じ、かなり後になって書き換えてしまったんですね。これが良かったとも悪かったとも、双方のご意見を皆さんから頂き、考えさせられました。
 キャラが勝手に動いて驚いたと言えば、他にはなんといっても9話、10話以降〜30話に至るまでの佐為と光の関係の展開です。実は「えにし」、佐為と光の関係が同性愛を含むものになると、初めから考えて書き出したわけではないのですよ、なんと(笑)!。私の中の二人の関係で最もベースにあるものは「師弟」で、そこからさてどうしようか・・・という感じでした。ただ、ああなるのは私の中ではごく自然に起こりました。互いに惹かれ合う先に自ずと行き着いた感じでしょうか。
 さらに、3話のようにほとんど跡形なく書き替えてしまったものの他にも、私の場合、こっそり書き直すというのは常習的に繰り返しています。直しを入れていない話は多分1話もないくらいに、全般的に、どこかしら加筆したり、言葉を替えたりしています。その為に、細かい点ですが、各話の間で相互に矛盾した点もいくらかあるかもしれません。ここで、その点お詫びしておきます。
 何か落としてることもあるかもしれませんが、気が付いたら、また書き足すかもしれません。皆さんが下さる一言、励まし、感想、創作へのご協力などに支えられて二部まで書くことができました。書き進めるうちに、皆さんから頂いた感想やコメントを創作の中に取り入れさせていただく事も度々ありました。ご報告したこともあれば勝手に書いちゃったっていうのもあるかと思います(すみません)。その他、番外編配信時にアンケートに協力してくださった方々、嬉しい感想をメールで、拍手で、掲示板で下さったたくさんの方々、深く感謝申し上げます。皆さんから頂く言葉が支えになっています。お気軽にメール・拍手/掲示板にメッセージくださると嬉しいです。
 1年半以上も一つの話を書きつづける・・・私には初めての経験です。話を書いていく途上でたくさんの方々とヒカ碁のお話を出来たこと大変幸福に思っています。読んでくださっている全ての皆さん、ありがとうございました。引き続き、三部も佐為と光の物語にお付きあい願えたら幸せです(^^)!。(ままか)

   

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