Yさんより頂きました佐為です。 この美しくもリアルな佐為を拝見した時、私はとっても驚いてしまいました。 それまでYさんの描かれる絵を拝見したことはなかったのですが、「Yさんの語る佐為」、というのに、しばしば、深く感じ入る部分がありました。そして時々、このようにおっしゃるのです。
「確かにあの姿や雰囲気は、実在したなら私でも見惚れてしまうでしょうね。今の季節なら、桜の下に立って龍笛でも奏でていたならさぞかし優美だろうな、と想像しております。私に絵心があれば描いてみたいものですが・・・。(Yさん談)」
などと・・・。
そこで、私おねだりしてみました。
「見たい」と。それも結構しつこく言いました。「見たい、見たい」と。
そしたら、なんと本当に描いてくださいまして、あまりのお上手さにびっくりしてしまいました。そして、私がこの方が心に描かれる佐為とはどんなだろう?とつい興味を持ってしまった「佐為語り」、個人的に頂いたものなのですが、無理やり頼んで掲載を許可して頂いてしまいました。以下にご紹介致します。
ーYさん談よりー
・・・・・確かにそれはヒカルの心の核心部分を占める存在には違いないと思いますが、それはヒカルにとっては目指すべき、或いは超えようとする目標であり、敬愛する師匠であり、意志を継ぐことを覚悟した存在であり、またおそらくは自分の心の一部でもあり、時には心の拠り所でもあり、といったような、上手く表現できないのですが、そんな存在であると思います。
時々、ネットワーク上の感想で、19巻以降、ヒカルが笑わなくなったのは気にくわん、と言うような意見を目にしましたが、多感な時期にあんな経験をして、それを乗り越えて覚悟を決めた男は、それ(囲碁の対局)に向かうときには笑うなんてことはまず無いと思います。ヒカルの中の佐為の存在とは、そういうものだと思いますし、彼が持つ扇は、佐為の替わりというよりは、この決意の象徴、夢で佐為から託された扇を具現するものなのだと思います。
・・・・・・・私は原作中での佐為の役割というのは、ヒカルの師匠であると同時に、全ての碁打ち達にとっての「道標」であると思っています。
佐為本人は、自分が消えてしまうと悟るまで、神の一手を目指しているというだけの自覚しか無かったようですが、彼が神の一手を目指す過程で彼と関わった碁打ち達に刺激と目標を与え、また道標となる役割を、宇宙的な意志(佐為が「神」と呼んだもの)に与えられていたように思われます。
そして、彼の意志を継げる可能性のある者(ヒカル)に出逢ったならその者の能力を引き出し、その者が彼の意志を引き継ぐことが出来る可能性を示した段階でその者に彼の意志を託すことだけを許されていたように思われるのです。
これは、かつて彼が自ら命を絶ってしまった(非可逆的に自ら神の一手を目指すことを放棄してしまった)が故に、そのように運命づけられたような気がします。
これは作者の、「道を究めようとするのは、生きている者がするべき事だ」という考え方の現れのような気がしております。ほった氏が本当にそういった考え方で作品を創られたのかはご本人にお尋ねしてみない限りわかりませんが、私はそんな気がしております。
これは、このキャラクタの「佐為」という名前からも、そうではないかと考えております。
佐為という表記には、よくネットワーク上で書かれておりますが、「佐けを為す(たすけをなす)」という意味合いがあることと、「さい」という音韻が、旅人の守り神とされる道祖神(道祖神の元々の役目は違うのですが)の別名の「さいの神(幸の神)」の音韻と同様であることから、ほった氏は上記のような役目を持つキャラクタに、この「佐為」という名前を付けたのではないか、と私は考えております。
・・・・・・・碁の神=佐為というのは、ヒカルの「碁の神様って孤独だな」というセリフから来ているのでしょうか。私は、あのセリフの碁の神というのは佐為のことを言ったのではない、あるいはヒカルの意識にはあるかも知れないが、直接佐為のことを指しているのではないと思うのですが。
・・・・・・・・彼が入水したが故に、その「罪」によってそのようにしか許されなかった、と言うのはちょっと違います。
私は、「それのみしか許されなかった」のではなくて、「それだけのことをすることを許された」というように思うのです。
つまり、佐為に許されたことは、許容され得ることの一部ではなくて、許容される全てのことなのではないかな、と思います。
・・・・・・・・では、どういうのかと言いますと、上手く言えないのですが、これは彼の選んだことに対して宇宙的な意志(彼が「神」と呼んだ存在)が与えた対価のような気がします。あるいは道というようなものなのかも知れません。自殺は「罪だから」それしか許さない、と言うのではなく、非可逆的な方法で放棄した結果として誰かに意志を託すことだけを許された、もしくはそのような道標となる役目を与えられた、というように思います。
この宇宙的意志には、可能性を追求するのはあくまで生者の役目(権利)で、その営みに死者の意識が直接的な方法で干渉することは許さない、という行動原理があるのではないかと思います。だから、佐為の死因の如何に依らず、あそこまでがこの意志の許容する範囲だったということだけなのではないかな、と思います。
佐為の意識が死後も残存したのは彼の執念によるのかも知れませんが、その活動限界を規定していたのはこの宇宙的意志(作者の意志)だったような気がします。
なんだか上手く言えないのですが、そんなふうに思います。
この辺りのことは、難しいですね。私はこんなふうに思いますが、多分、読者の方それぞれに思われることがあると思います。
あと、私思うのですが、仮に佐為の意識を自由に限界無く存在することを許したならば、おそらく彼は、太陽系の寿命が尽きるまでどころか、この宇宙が死を迎えるまで、「神の一手」を追い求めそうな気がします。
そんな彼はある種怨霊みたいなもの(別に祟るわけではないし、怨霊と呼ぶにはあまりに純心で優美ですが・・・)になってしまうような気もします。
ですので、誰かに意志を託すことが出来たというのは、ある意味とても幸せなことのような気がします。 (Yさん談より抜粋)
私が感銘を受けた佐為語り・・・・のご紹介を素敵な佐為ちゃんの絵と共に、許可して頂いたYさん、本当にありがとうございました!(ままか)
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