第2問

 次の文章は『遠きえにしに』の終章の一節で、帝(退位して上皇となっている)と、そのかつての侍棋(囲碁指南役)であった藤原佐為との対話を佐為の視点から描いたものである。佐為は帝の強い寵愛を受け、自らも帝に対する複雑な情愛を抱きつつ、一方でいとしく思う少年がいることで帝を苦しめ翻弄することもあり、そのことに胸を痛めることもあった。ある日佐為は帝の御前での一局で、対局相手の巧みな手口により不正の濡れ衣を着せられる。その奸計を知っていたにもかかわらず、帝が佐為を助けなかったどころか、さらにその奸計を利用して没落に追い込むような態度を取ったことにより無念の余り入水自殺をはかる。そしてその魂は帝のもとに現れる。これを読んで、後の問い(問一〜六)に答えよ。               (配点50)
               

「余を恨んではいないのか」
 やはり私の声は届いているのでしょうか……? 私は必死に答えました。
「恨んでなどいません。私はあなたを一度として恨んだことなどありません。憎んだこともありません。私はあなたが好きでした。しかし、最後はあなたに憎まれてしまいました。これは報いだと分かっています。思い出しました。酷く苦しんだ理由の一つです。後悔です。あなたに謝らなかった。謝らないまま、死にました。強い後悔を覚えました。あなたに陳謝すべきなのに、それを忘れ、私は死を急ぎました」
「謝る……? 何故だ……? そなたは何故謝らねばならぬ?」
「あなたを……苦しめました……」
 それ以外に、私は言葉になりませんでした。
 自分が彼をいかほどに苦しめ、翻弄し、その心を苛んだかと思うと、酷く辛く、苦々しく、言葉では言い尽くせないような気がしたのです。
 彼は長い間痛めつけられて笑うことを忘れてしまった人のように、沈みきった顔をしていました。この人のこのような顔を見るのは初めてです。人前でこのような表情をすることはこの人に許されていませんでした。私は本当に胸が痛みました。
 そのとき、私はふと、彼以外の人の気配を強く感じました。見れば、女蔵人でしょうか? 彼の声に気付き、そばに近寄ってきたのでしょう。唖然とした顔をして、彼を見ています。私は突然、事態の悪さに気付きました。私の声が聞こえるのが彼だけだとしたら、彼は独り言を話しているか、あるいは、幻聴か幻覚でも見ているように、周りの者の目には映るでしょう。私はにわかに(a) ショウソウカンを覚えました。
 彼が女蔵人に気付かず、私に何かを話しかけようとするのを、必死に制止しました。私が何か言えば、彼も言葉を発すると思い、私は彼女を扇で差し示し、事態を彼が把握するように努めたのです。すると、彼は私が何を言いたいのか気付いたようでした。そこでまた私は気付きました。どうやら、生きていた頃のように身体的動作もまた意識の一つの要素として、伝えることが出来るようだということに。もっとも伝えることが出来るのは彼だけのようでしたが。やはり、彼には私は人の姿をして見えるようです。
 しばらく経ちました。
 最初は大きく戸惑ったようでしたが、彼は私が常に共に居ることを受け入れたのでした。いえ、他に選択肢が無かったと言った方が正しいかもしれません。私は彼の許を離れようにも離れることができません。私の意識が(b) カクセイしているのは、彼が私の存在を感知しているからで、その相関関係によって、どうやら@ この不思議な状態が起こっているのです。
 次第に、彼はこの暮らしに慣れていきました。慣れていくと共に、彼の体も回復に向かい、普通の生活が出来るようになっていきました。
 しかし、案じていた事態が起こってしまったようです。気を配るのにも限界がありました。彼は譲位したとはいえ、太上天皇という位の人で、常に誰かが回りに仕えているのです。私に話しかけるのは、声を出すのではなく、強く意識して心で語りかけることでも成り立つということを知ってからは、彼はなるべく努力してそうしているのですが、時に上手くいかないこともありました。そして悪いことが重なるのには、彼が私の屍に触れたという事実が、彼のその後の奇妙な行動とあいまって、悪い噂になり始めていたのです。
 彼は上皇となったので、内裏を去ると洛中のしかる院に移りましたが、そこは静かであまり人が多くは居ませんでした。
 世間的にはそれは彼の時代が去ったことを意味していましたが、私と過ごすにはとても好都合な場所でした。 
 ある日、彼は私にこう言いました。
「すまぬ、余の威光は地に落ち、尽き果てた。もはや何の力も持たぬ。そなたの為に何もしてやれぬのだ」
 彼が私に詫びるのはもう何度目のことでしょう。分かりません。今、彼の胸を満たしているのは強い強い(c) カイコンの想いと、私に対する謝罪の念だけでした。私達はA 皮肉にもお互いに同じ想いを抱いて過ごしていたのです。
 彼はその際たる想いの一つとして、最後に私へ送った文のことを強く後悔していました。私を死に追いやったのは、御前対局での振る舞いはむろんのこと、とどめとなったのは最後に送った歌の内容であると思い、それを酷く悔いているのです。
 私は一時的には、抗いがたい力によって肉体を捨てることに満足を覚え、しかし魂だけが永らえ続けるこの時の中では、誓願を果たせなかった心残りが日に日に強くなっていくのです。誓願とは「至高なる一手を極めること」でした。囲碁です。私は望みを果たしてはいませんでした。碁を打ちたい。この想いはいや増して強くなっていくのです。
 ふさぎこむ私に彼はしぼり出すように尋ねました。
「余に出来ることが何か残っているであろうか」
「碁を打ちたいです」
 私が即答すると彼は肩を落とし、見る見るうちにその顔は絶望で満ち、仕舞いには頭を深く抱え込んでしまいました。私はしまったと思いました。私は必死に彼をなだめました。なだめながらはたと思いついたのです。私は言いました。
「碁盤を用意させてください」
 碁盤が運ばれてきました。いつも清涼殿の朝餉の間で彼と打っていた碁盤です。私は懐かしくなり、心が(d) コウヨウするのを覚えました。困った顔をしている彼に、手元に二つ碁笥を置き、指示した場所に私の石も置くように頼みました。
 そして、彼と再び対局したのです。久々に彼に指導碁を打ちました。
 憶えています、ああ、憶えています。こうして碁を宮中で打っていました。碁を打っていたのです……!
 そしてさらに記憶が呼び起こされました。ああ、こんな風に打ったことがありました。あの時、碁笥を二つ手元に置いて二人分の石を置いたのは私でした。相手にはやはり指導碁を打っていました。碁盤の向こうに座っていたのは、可愛い、可愛い……少年でした。
 ところで私は、いろいろなことを思い出すうちにふと自分の不遜な態度に気付きました。
「大君……、上皇様」
 私は慌てて呼びかけました。
「どうした……?」
 彼は少し驚いて私を見ます。
「私は今まで、なんという無礼な口の利き方をしてきたのでしょう」
「よい、よい……! B 今までの通り、『あなた』でかまわぬ
 彼は本当に心からそう望んでいるようでした。
 こうして彼と毎日碁を打つようになりました。実はこのことも彼が「気狂いの病に罹った天子」と悪名を流すのに拍車をかけてしまいました。はたから見れば、ひたすら一人で碁を打つ奇妙な行動に見えたのです。
 独り言を呟き、一人で碁を打つ、全ては私の亡骸に触れたという事件の後に起こったのです。私の怨霊にとりつかれたのではないかと、C 私にとっては少々こそばゆい噂を囁く者も出てきました。確かに憑かれたように……、狂ったように……、碁を打っています。以前の彼からは想像もできない姿と言わねばなりません。
 上皇様に来る日も来る日も指導碁を打つのは、それなりに満ち足りた毎日でした。むろん、強い相手と打ちたいという想いはあります。ですが、私は碁を教えることが元来好きなので苦になりません。彼は私がずっと教えていたのです。しかもこうした奇妙な暮らしをするようになってからは、毎日長い時間を彼と碁を打って過ごしているのです。彼はこの頃は本当に強くなりました。昔はそれほど碁が好きではなかったはずです。その彼がこれだけ打てるようになったことに私は満足感を得ていました。
 ある時、私は言いました。
「あなたはとても強くなりましたね。私は感激しています」
「かつてそなたが侍棋として余に仕えていた時よりも、はるかにそなたと共に過ごしている。そなたに来る日も来る日も、教え導かれる。強くなるのは必然であろう。そして余は今になって初めて知った。碁とはこんなにも深遠なる世界であり、面白いものだということを。そなたが何故、碁にとりつかれたのか、今になって本当に知った思いがする」
 彼は瞳を震わせて、私にそう訴えました。彼は碁の深遠なるを讃え、そして碁を打つことを楽しいと言ったのです。信じられません。我が耳を疑いました。彼は少しはにかんだように、口元をゆがめています。あまりらしくない上皇様の表情に、私も顔をほころばせました。私は本当に感激していました。意識だけの存在となった私が、生前には出来なかったことを成し遂げたからです。彼を碁の深遠にいざなっているのです。私達はこうして、今本当の師弟となったのでした。
 つまり、生身の身体が私にあった頃は、結局そうは成れなかったということです。お互いにさまざまな感情が絡み合い、葛藤し続け、どうしても私達は上手くいきませんでした。
 彼はそしてこう言いました。
「今もそなたへの懺悔の気持ちはこの胸から消えることは無い。しかし今そうして悔やみながらも、D こんなにも余の心は穏やかだ
 私は彼の言葉を聞いて思いました。彼はかつて、一体どれほど私への想いに苦しんだのだろうかと。
 楽しい時にもやがて翳りが見え始めました。
 彼が倒れたのです。彼は何日も寝込みました。私はずっと彼の枕元に付き添い、彼の回復を祈りました。それでも、抗い難い運命の壁を感じていました。彼はもうじき逝く。どうしようも無い別れの予感でした。
 しかし、やがて彼は(e) ショウコウを得ました。
 私達は、この時心の底から腹を割って想いの丈を語り合ったのです。もうお互い正気で語らうのはこれが最後となるであろうと意識してのことでした。
「どうか……どうか、この言葉を、これを最後とそなたに伝えることを許して欲しい」
「はい」
「今もそなたを愛している」
 彼は言いました。
「分かっております」
 私は瞳を閉じて静かに答えました。
「すまぬ。この言葉がいかにそなたを苦しめるか、よく知っていた。分かっていた。本当によく分かっていたのだ」
 私は胸をえぐられるような気がしました。           



注1 女蔵人…宮中に奉仕した女官の1つ。内侍・命婦の下で雑用を務めた。
注2 太上天皇…譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号。「上皇」は「太上天皇」の略。
注3 屍に触れた…帝は入水して遺骸となった佐為を河原で抱きしめて号泣した。
注4 最後に私に送った文…帝は件の一局の後、佐為に「現身はさらにも見えじ白雪のとはにたぐへよ君が魂のもと」という歌を贈っている。歌意は「この世に そなたには逢うことはないであろう。魂は永久にともにいるとしても」である。


問一 二重傍線部a、b、c、d、eのカタカナを漢字にして、それぞれ記せ。

●漢字書き取り問題については申し訳ありませんがお手元に紙を用意していただきご記入ください。
●問二以降の解答欄については、ブラウザにより、かなり表示形態と入力形態がまちまちになります。 ままかが確認できたのはChrome、マイクロソフトエッジ、Safariですが、PC×Chromeが推奨です。



問二 傍線部@「この不思議な状態」とはどのような状態なのか。「不思議」の意味する内容がわかるように説明せよ。



問三 傍線部A「皮肉にも」とあるが、どうして皮肉と言えるのか、具体的に説明せよ。



問四 傍線部B「今までの通り、『あなた』でかまわぬ」という言葉に込められた帝の心情を説明せよ。



問五 傍線部C「私にとっては少々こそばゆい」とあるが、なぜ「こそばゆい」というのか、わかりやすく説明せよ。



問六 傍線部D「こんなにも余の心は穏やかだ」とあるが、帝が「穏やか」と言えるに至った経緯を含めて、この時の帝の心情を説明せよ。





※問二〜六については字数制限は特に設けないが、それぞれ約200字以内を目安とする。

 よろしければお名前を(無記名可)

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